第1話 出産という名の喪失

 この話をしてくれたのは、都内で歯科医院を経営しているKさんという歯科医師です。

 50代後半のKさんとは、親戚の紹介で知り合いました。

「女性のことでひどい目に遭ったと聞いたのですが」

 わたしが興味津々で尋ねると、Kさんは少し戸惑った様子を見せながらも、

「怖いというより、なんというか……今も思い出すと、ため息が出る話なんですが」

と前置きをして、ぽつぽつと語り始めました。


 Kさんの歯科医院は、昨今の不景気の中でなんとかやりくりをしているような、小規模の医院でした。

 さて、みなさんは歯科衛生士という職業はご存知でしょうか。

 病院における看護師のようなもので、歯科医師の資格はないため高度な治療はできませんが、歯科医師をサポートしてくれる心強い存在です。

 歯科衛生士は看護師よりもさらに女性の割合が多く、約99%が女性と言われています。

 Kさんの歯科医院にも、4人ほどの女性の歯科衛生士が常駐していました。


 ある日、そのうちの1人であるOさんから、妊娠したため産休と育休を合わせて1年2ヶ月取りたいという申し出がありました。

 たった1人の衛生士が欠けるだけでも小さな医院には大きな痛手ですが、産休や育休の取得を断ることはできません。

 Kさんは不安を隠して快諾し、Oさんは1年ちょっとの休暇に入りました。

 なお、産休や育休中の人員の代わりに新しい衛生士を雇うことはできないため、給与が割高ではありますが、期間中は派遣の衛生士を雇うことにしました。


 そして1年ほど経ったある日のことです。

 こまめにクリーニングに来てくれる患者さんの1人が、何やら心配そうな顔でこう言ってきたそうです。

「Oさん、大丈夫なの?」

「あぁ、あと1ヶ月で育休は明ける予定ですから、そしたら戻ってきますよ」

 すると、患者さんは声を潜めて言いました。

「この前道端でOさんと会った時に話してたんだけど、2人目ができたって言ってたよ。復帰したらまた産休と育休が取れるからラッキーだって」

 Kさんは衝撃を受けました。

 つい先日、Oさんに復帰のスケジュールについて電話をした時にはそんな話はしていなかったのです。

 Kさんは治療が終わった後、あわててOさんに電話をして真偽を確かめました。

 すると患者さんの話は本当だということでした。

「もし2人目がいるなら、こちらも人員の調整をしないといけないから、相談して欲しかったな」

 Kさんが思わずそう言うと、電話口のOさんは突然声を荒げました。

「じゃあ、産休を取るなってことですか!女性の権利を奪うブラック企業じゃないですか!」

「そうは言ってないよ、分かっていたなら、隠さずに相談して欲しかったんだ。休みはもちろん取ってくれていいから」

「妊娠はプライベートなことなので、職場に言う必要なんてありません!」

 Oさんは感情を抑えきれない様子で叫びました。

「これは人権侵害ですよ!訴えてやる!慰謝料を払ってもらいますからね!」

 Oさんの豹変ぶりにKさんは驚きましたが、妊娠で精神的に不安定なのだろうと思い、落ち着いた口調でまた今度きちんと話し合おう、と言って電話を切りました。

 Kさんも2人の子供がいる身、女性が妊娠するとナーバスになることはよく理解していたからです。


 ところが、騒動はそう簡単に収まりませんでした。

 翌日、Oさんの夫を名乗る男性から電話がかかってきたのです。

 妻はマタハラを受けた精神的苦痛に対して慰謝料を請求したいと言っている、弁護士同席で話し合いをしたい、ということでした。

 Kさんはまたもや驚きましたが、自分が動揺しては他の衛生士も不安になってしまうと思い、毅然とした態度で対応することにしました。

 Kさんも弁護士に同席してもらった上で、Oさんと改めて話し合いをする約束をし、その場はなんとか収まりました。


 そして数日後、Kさんは信じがたい光景を目にします。

 育休中のはずのOさんが、まるで何事もなかったかのように出勤してきたのです。

「今日から復帰しまーす」

 満面の笑顔で言う彼女に、Kさんは絶句しました。

 もともとの復帰の予定日はまだ何週間か先でしたし、そもそも訴訟をすると言っていたので、当然出勤してこないものと思っていたのです。

 彼女の後任である派遣の衛生士もまだいる状態でした。

 Oさんは医院の当番表を見て、自分の名札がないことに気づくと、待合室にいる患者さんにも聞こえるほどの大声で叫び始めました。

「どういうこと?私はクビってこと?不当解雇じゃないの!慰謝料をよこせ!」

 Kさんや他の衛生士がなだめようとしても全く聞かず、受付の椅子を蹴ったりして暴れ出しました。

 仕方なくKさんは警察を呼び、Oさんは連れて行かれましたが、事情聴取などもあり、その日は仕事になりませんでした。


 その後、改めてKさんは弁護士と共にOさんとの話し合いに臨みましたが、彼女の主張は支離滅裂で、相手方の弁護士も当惑しているようでした。

「マタハラを受けて、不当解雇をされた!」

「こちらから解雇した事実はありませんし、マタハラにあたるような発言もありませんでした」

「退職金も、慰謝料もよこせ!」

「自己都合退職をされるということですか?あと、そもそも就業規則にある勤続年数を満たしていないので、退職金は支払えませんが…」

「それは不当解雇だ!」

 というような具合です。

 結果的に、歯科医院の業務とOさんの対応ですっかり疲弊していたKさんは、Oさんに自己都合退職をしてもらい、手切金として100万円ほど渡すことで合意したそうです。


 以降も何度かOさんから謎の慰謝料を無心する電話がかかってくることがあったそうですが、弁護士から注意が行き、最近やっと収まったといいます。

 Kさんはこの事件がきっかけで、若い女性の衛生士を雇うことに強い不安を覚えるようになってしまいました。

「Oさんはもともと、とてもしっかりした常識的な女性だったんです。それが、出産を機にあんなにおかしな行動に出るようになるなんて……」

 しかし、求職中の歯科衛生士は若い女性ばかりなのが現状。Kさんが望むベテランの衛生士はなかなかいません。

 Kさんは現在、歯科医院を畳むことを考えていると言います。

「出産って……本来、女性を幸せにするもののはずですよね」

 話の終わりに、Kさんはぽつりと呟きました。

「でも中には、出産と同時に……“人として大切な何か”を失ってしまう女性も、いるものなんですよね」

 そう言ったKさんの背中は、実年齢よりもひどく老け込んで見えました。

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