爆音は静寂に
広川朔二
爆音は静寂に
縁側に腰を下ろし、桐山誠一は缶ビールを手に夜風に当たっていた。風はぬるいが、昼間の蒸し暑さと比べればずっと過ごしやすい。テレビの音が障子越しに漏れてくる。内容はニュース番組のはずだったが、彼の耳にはもう入っていなかった。
古びた柱時計が、コトリと音を立てる。長針は夜九時を指していた。その瞬間、桐山の眉がほんのわずかに動いた。
しばらくの沈黙の後、遠くの山際から何かが近づいてくるような音がした。初めは地鳴りのような低い唸り声。だが、それが徐々に――不快なほどはっきりと、耳に届き始める。
爆音だった。
マフラーを切り落とした改造バイクの一団。直管から吐き出される轟音とともに、夜の田舎道を蹂躙する。桐山の家の前を走る道は、見通しのいい直線が続いていた。暴走行為には格好のルートだ。アクセルを吹かす音、スキール音、叫び声。やかましさに虫の声も消えた。
「またか……」
桐山は、缶ビールを口元に運ぶが、もうぬるくなっていた。喉を通ることなく、ただ金属の苦味だけが舌に残った。
この騒音に悩まされるようになってから、まだ数か月が経過していた。都会の喧騒から逃れるように戻ってきたのに、夜になっても落ち着くことができない現実に、彼は何度もため息をついていた。
最初は警察に通報した。だが、パトカーが来る頃には奴らはとっくに走り去った後で、警察も形式的な対応に終始した。「パトロールは強化しておきます」と、言葉だけは丁寧だった。
けれど、その“強化”の間にも、週末の夜には必ず爆音が帰ってきた。
――何も変わらない。
そう悟った瞬間から、桐山の中で何かが変わった。
音は、まだ遠くにいる。だが、確実にこちらに向かっている。彼はゆっくりと立ち上がると、部屋の奥へと引き返した。障子を閉める手は、どこか冷めていた。憤りでも、恐怖でもない。ただ静かに、決意のようなものだけがあった。
そして、翌週の夜。林の中に身を潜める数人の影が、道を見下ろしていた。
爆音が近づいてくる。直線道路の真ん中を、蛇行しながら突き進むバイクの列。その走行音に混じって、少年のような叫び声と笑い声が夜空に響いた。
その瞬間、影の一人が手に持った石を投げた。ゴン、と鈍い音がして、先頭のバイクがよろめく。
暴走族の一団が一斉に怒号を上げる。「てめぇ、出てこいコラァ!」「調子乗んなよ!」何人かはそのままバイクを乗り捨て、林の中に突入してきた。
しかし、追いつけない。
地元の人間には土地勘がある。入り組んだ獣道を縫うように、彼らの姿は消えた。
「チッ、どこ行きやがった……」
荒れた息を吐きながら、ひとりの男がバイクへと戻る。彼らのバイクの底には、小さな黒い発信機が貼りついていることには、まだ誰も気づいていなかった。
その夜の一件を境に、町内では奇妙な静けさが流れ始めた。
表向きには何も変わらない。朝になれば老人たちは畑を耕し、子どもたちは学校へ通い、近所の主婦たちは井戸端で立ち話をしていた。だが、日が沈んだ後、わずかな者たちだけが、決して公にはされない集まりに顔を出していた。
桐山もその輪にいた。
集まったのは六人。どれも近隣に住む人間で、普段はあまり目立たない存在だ。中には元トラック運転手の年配男性もいれば、静かに一人で農業を営んでいる中年の女性もいた。昔、暴走族とトラブルになった経験を持つ男もいた。だが彼らは、語り合うようなことはしない。ただ事実を述べ、必要なことだけを確認し合った。
「取り付けた発信機は問題なく反応してる。電池は一ヶ月もたないが、次の週末まではもつ。この間に全員とはいけないから特定は急いだほうがいい」
桐山が持ち出したノートパソコンには、地図アプリの上にいくつかの光点が点滅していた。端末は市販のものを使用しているが問題はない。
最早彼らが話す言葉には、怒気も、焦りも、復讐心すら混じっていない。ただ静かに、騒音を止めるために何が必要かを確認し合っているだけだった。
「……やるなら一人ずつ、だ」
口を開いたのは、農機具の整備をして生計を立てている大工風の男だった。
「まとめてやると騒がれる。身内に通報されても面倒だ」
桐山はうなずいた。
それは単なる“制裁”ではなかった。もはや、生活を取り戻すための“作業”だった。やるべきことは明確で、それを行うことに、躊躇はなかった。
週が明けると、再び爆音が夜の空気を裂いた。
しかし今度は、桐山たちは何も動かなかった。一堂に会した光点はしばしの暴走行為の後に散り散りになっていった。その中でも比較的近所の光が最初のターゲットだ。
静かに、地図上の点が移動するのを見ていた。発信機のうちの一つが、遠くのコンビニに止まったまま二時間動かず、やがてそのまま消えた。
その翌週。
暴走族の集団の一人、通称「アキ」が定例の集会に顔を見せなかった。
彼は皆勤だった。集合時間より早く着いては、誰よりもエンジンを吹かして周囲の注目を集めていた。連絡が取れないことを不審に思う者もいたが、趣味のグループという気楽さもあり、「急に飽きたんじゃね?」といった軽口で済まされた。
だが、その次の週末。
今度は「コータ」と呼ばれる男が姿を消した。
さらにその翌週には、「マサ」。
三人が続けて姿を見せなくなった頃、取りまとめ役の男がメッセージアプリに投稿した。
「最近、連絡がつかない奴多くないか?」
既読はつくが、返信は少ない。集まっても今まで気軽に会話していたメンバーたちのトーンが、次第に沈んでいく。
「アキって、どこに住んでたっけ?」
「A市の山ん中だろ、確か」
「マサはB県のはず」
「……バラバラだな」
誰かがぼそりとつぶやいたその言葉が、集団に漂い始めた“異常”の臭いに火をつけた。
点と点が結ばれないはずの距離。共通項がないように思える消失。だが、桐山たちにとっては逆だった。
どこにいようと、バイクがあれば追跡できる。そのためにGPSを仕込んだ。すでに全員の自宅を特定していたので電池が切れれば新しいGPSに取り換えるだけ。仕掛けるのは一人ずつ。
ある日の晩も桐山は、次のターゲットを目で追っていた。
点は、町外れの廃モーテルに向かっていた。そこは現在、立ち入り禁止のはずだった。扉も窓も破られ、若者たちの“たまり場”として悪名が高かったが、周囲に住民がいないため、ほとんど放置されている。
桐山は手元の懐中電灯を消し、深くフードをかぶった。
廃墟の奥へと入っていくバイクの音が、夜に吸い込まれていく。
暴走族のメッセージグループには静けさが広がっていた。
以前は数日に一度、誰かが「いつ走る?」「こんな改造した」などと軽口を叩き合っていた。だが今は、沈黙が画面に積もるばかりだ。
一人、また一人と“行方不明”になったという話が流れた。だがそれを裏付けるものは何もない。捜索願もニュースも出ていない。家族や職場との関係が希薄な者ばかりだったから、しばらく連絡が取れなくても誰も騒がない。
ただ、実際に“いなくなっている”。
「マジでなんか起きてんじゃねぇのか?」
「事故じゃねぇだろ。バイクもねぇし、連絡もねぇ」
数少ない生き残りが、怯えたような口調でやり取りをしていた。そしてある夜、「ケンタ」と呼ばれる若い男が、何も告げずに一人でバイクにまたがった。
コンビニの防犯カメラは、深夜二時を少し回った時間に彼が缶コーヒーを買う姿を記録していた。だが、それを最後に彼の姿を見た者はいない。
目を覚ましたとき、ケンタは暗闇の中にいた。目隠しとヘッドホンをされ、両手足をがっちりと縛られている。床はコンクリートのように硬く冷たい。
突然、耳に爆音が流れ込んだ。
それは、どこかで聞いた音――自分たちの改造バイクの音だった。耳元で、爆発音のようなエンジン音がループ再生されていた。耳の奥を突き刺すそのノイズは、最初こそうるさいだけだったが、すぐに耐えがたい痛みへと変わっていく。
数十分もすれば、鼓膜が焼けるような感覚に変わった。彼は叫ぼうとしたが、喉を潰すような音しか出なかった。
やがて、音が止まる。
代わりに、冷たい声が耳元で囁くように響いた。
「うるさいってこと、わかったか?」
その声に、感情はなかった。怒りでも、恨みでもない。ただ、状況を確認するような、淡々とした口調だった。
そして――
鈍く何かが風を切る音の後、鉄の棒が彼の膝を叩き潰した。
悲鳴も、届かない。その場にいたのは、何人だったのか。彼にはもう知覚できなかった。
翌朝、町外れの廃墟の前に乗り捨てられた改造バイクが一台、野ざらしになっていた。ナンバープレートは外され、指紋ひとつ残っていなかった。そんな場所に放置されたバイクに警察が動くことはなかった。
ケンタは、二度と戻ってこなかった。
いつの間にかグループは崩壊しかけていた。メッセージアプリに書き込む者は、もうごくわずかになっていた。まとめ役をしていた男は、言葉を失っていた。顔ぶれの大半が沈黙し、誰も「次、いつ集まる?」とは言わなくなった。
“誰かに狙われている”という確信は、すでに全員の中にあった。だが誰も、警察に相談しようとは思わなかった。なぜなら、相談できる立場ではないと全員がわかっていたからだ。自分たちがやっていたことの“立ち位置”は理解している。
罪悪感はなかった。だが、報いが来たのだという予感だけは、消えなかった。
桐山は、親から相続した山奥の作業小屋にいた。木材や工具、トラックの荷台を利用した仮設作業場。その奥には、最近整地されたばかりの土がある。
いくつかのの窪みが掘られていたのだが、その半分には土が被せられていた。すでに草が生え始めている。一面に繁茂するのは、肥料でも撒いたような異様な植物たち。地元の人間でも気づかない程度の違和感だが、それでも桐山たちは知っていた。
ここに“栄養源となるもの”が埋まっていることを。
まだ窪みは残っている。淡々と、次の作業に向けての準備を始める者たちがいた。
蝉の声が、山々に反響している。田舎の夏は、すべてがゆっくりと、穏やかに流れていた。
かつて毎週のように響いていた爆音は、いつの間にか消えていた。
誰もが「あれ、最近来ないね」と軽く話す程度。町の人々にとっては、騒音が消えたことはただの“良い変化”に過ぎなかった。
警察が動くこともなかった。そもそも被害届が出ていたわけではないし、集団の構成員たちが「失踪」したとしても、誰も積極的に捜す者はいなかった。
元々、社会のどこにも“繋がっていなかった者たち”だった。
桐山は、軒下で一人、扇風機の風を浴びながら冷たい麦茶を口にした。テレビからは、ローカルニュースが流れている。川で取れた天然鮎の話題、夏祭りの準備、どこまでも平和な空気。
その視線の先、隣人が所有する畑で草を刈っていた。あの作戦にも参加していた一人。今はただの“田舎のじいさん”にしか見えない。
「ええ風やのう」
老人がぼそりと呟いた。
桐山の所有する山には、今も緑が茂っている。草木の生い茂った一角だけ、やけに土が柔らかく、そしてよく育っていた。地元の人間でも立ち入ることのない奥地。獣避けの金網が張られ、人気もない。
かつて掘られていた穴の形跡は、すでに何もない。
夏草に覆われ、緑の匂いが濃く漂うその一角は、異様に“命”に満ちているように見えた。しかしそこに立つ桐山の目は、何も語らない。
彼はただ、土を一蹴りし、草を踏みしめてから背を向けた。作業着についた泥を払い落としながら、山を下る。
帰り道の途中、遠くで子どもたちの笑い声が響いていた。夏休みだ。虫取り網を手に、川辺を走り回る小学生たち。あの爆音に怯えていた頃の面影は、もうない。
村は、平穏を取り戻していた。
いや――あの平穏は、自らの手で“取り戻した”ものだった。
誰にも気づかれず。
誰にも咎められず。
すべては、完了していた。
耳が、静けさに馴染む。
それが、こんなにも心地よいものだったと――彼は今、心から実感していた。
爆音は静寂に 広川朔二 @sakuji_h
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