第5話「声にならない言葉」

 冬の夕暮れ。

 空には雲が広がり、街はゆっくりと夜に沈もうとしていた。


 教室の窓際に座ったまま、蓮は誰もいない放課後の気配を感じていた。

 椅子を引く音も、笑い声も、もうずっと前に消えていた。


 指先が震える。

 スマートフォンの画面を見つめるだけで、喉が詰まりそうになる。


 でも――


 意を決して、蓮は発信ボタンを押した。


 コール音が胸の奥をくすぐる。

 何度も切ろうとしたその時、静かに繋がった。


「……もしもし?」


 聞き慣れた声。懐かしくて、恋しくて。

 蓮はしばらく何も言えなかった。


「……蓮?」


 葵が呼ぶ。

 その一言で、堰を切ったように蓮の喉から息が漏れる。


「……どうしたの?」

 電話の向こう、葵の声は少しだけ心配そうだった。


 蓮は、言葉を選ぼうとして、うまくいかなくて、それでもなんとか、声を押し出した。


「……なんでもないって、言いたかった。でも、違った」


 沈黙。


 蓮は自分の手が、じっとり汗ばんでいるのを感じながら、続ける。


「行かないでって、言いたかったんだ」

「好きだって、言いたかった」

「でも、どれも言えなかった。……言えなかったまま、君を見送った」


 電話の向こうで、葵は黙っていた。

 長い沈黙のあと、ふっと小さく笑う音が聞こえた。


「……それ、ちゃんと届いたよ」


 言葉にすることの苦しさを、葵は知っている。

 だからこそ、今の蓮の言葉の重さも、全部、受け止めてくれる気がした。


「ありがとね、蓮」


 ただ、それだけの言葉だった。

 なのに、蓮の胸の奥がじんわりと熱くなった。


「……ううん、こっちこそ。ほんとは、もっと早く……伝えたかった」


「でも今、伝わったでしょ?」


 葵の声は、どこまでも優しかった。


「うん」


 それだけ言って、通話が途切れた。



 帰り道。

 空から、ぽつりと白いものが落ちてきた。


 見上げると、静かに雪が舞っている。

 街灯の明かりの中、雪は儚くて、やわらかくて、少しだけ眩しい。


 蓮は、立ち止まって空を見上げた。

 白い息が、空に溶けていく。


 さっきの会話が、胸の中で何度も再生される。

 あの声も、あの笑いも、もう隣にはいないのに、今ここにあるようだった。


 そして、ふと――

 蓮の唇が、静かにほころんだ。


 かすかな笑み。それはきっと、涙と紙一重の表情。


 でもそれでも、今の蓮は確かに、心からの想いで笑っていた。


「こんなにも、怖くて、苦しくて、それでも伝えたい言葉がある。“自分のために誰かを想う”って、きっと、こういうことなんだ」


 足元に落ちた雪が、じんわりと溶けていく。


 それはまるで、少しずつでも、未来が動き始める音だった。

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