第3章:名前を持った「君」

第1話:距離が怖くなる日

 文化祭が終わって、学校にはいつもの空気が戻ってきた。

 ざわつく朝の教室。カーテンを揺らす風。騒がしい笑い声。

 でも、どこか違う。少しだけ、空気が柔らかくなっている。


 蓮はその変化を、肌で感じていた。


「おはよう、蓮くん」


「おはよう」


 朝、誰かから声をかけられる。それだけのことが、少し嬉しかった。


 かつては、“気を遣わせている”としか思えなかった関係。

 けれど今は、それがほんの少し、自然なものに変わってきた気がする。


 


 昼休み。

 窓辺で弁当を広げていた蓮の前に、葵がどさっと腰を下ろす。


「はい、今日も勝手に合流」


「…もう驚かないよ。何日目?」


「うーん、たぶん、9日目?10日目?」


「ちゃんと数えてるの?」


「そりゃあ、記念日って大事でしょ」


 その言葉に、思わず蓮は吹き出す。


 冗談を交わせるようになった。

 言葉を選ばなくても、自然に返せる相手。


 ——それが、少し怖いと思ってしまった。


 


「なあ、蓮ってさ」


 ふいに、葵が真面目な声で言う。


「誰かと距離近くなるの、怖い?」


「……なんで?」


「なんか、たまに目をそらす時がある。冗談の時じゃなくて、本気でこっち見られた時とか」


 蓮は一瞬、答えに詰まった。

 図星を突かれたような痛みが、胸を刺す。


「……たぶん、怖いんだと思う」


「なんで?」


「僕が誰かを好きになるって、“自分のために動きたい”って思うことだろ?それって、僕の中では“利己的”なことだから」


「……は?」


 葵は目を丸くしたあと、あからさまに呆れた表情をした。


「何それ。好きになるのに、いちいち正義かどうかなんて考える人いる?」


「……僕は、考える」


「真面目か!」


 そう言って、葵はペンで蓮の頭をつついた。


「いい? 好きってのは、もっと“勝手”な感情なんだよ。論理じゃない」


「でも、僕は……いつも“誰かのため”にしか動いてこなかった」


「それ、もうやめていいんじゃない?」


 葵の言葉は、やさしく、けれどはっきりと響いた。


「好きって、“その人を見ていたい”って気持ちでしょ? それってすごく素直な感情だと思う」


 蓮は目を伏せた。

 心のどこかが、ぐらりと揺れている。


 ——“好きになること”が、自分に許されるのか。

 その問いに、答えはまだ出ないまま。


 


 放課後。

 蓮は昇降口で、葵の靴が並んでいるのを見つけた。


 ああ、本当に“ここにいる”んだ。

 そう思った瞬間、胸の奥があたたかくなると同時に、妙にざわついた。


 自分は今、誰かの幸せのためじゃなく、

“葵が笑ってくれること”を願っている。


 ——それは、利己的だろうか。

 それとも、ただの“好き”という気持ちだろうか。


 


 帰り道。

 追いかけるようにして出てきた葵に、蓮は少しだけ勇気を出して聞いてみた。


「ねえ、もし僕が……誰かを“好き”になるとして。そういう感情があったとして。

 それって、悪いことじゃないのかな」


 葵は立ち止まり、振り返る。


「うん、それは“正しい”とか“間違ってる”じゃなくて、ただの“本音”だよ」


「でも、それが誰かを苦しめたら……」


「それでも、言わなかったら、自分が苦しくなるよ。

 好きって、伝えることがすべてじゃないけど、否定しちゃいけない感情だと思う」


 蓮は、その言葉をしばらく胸の中で転がした。

 そして、そっとつぶやく。


「……僕、変わりたいのかもしれない」


「もう、変わってると思うよ」


 葵はそう言って、前を向いて歩き出した。


 蓮は、その背中を見ながら、そっと歩を重ねる。

 その距離はまだ、ほんの少し遠くて、でもたしかに近づいていた。

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