第5話:変わり始めた、ほんの少し

 文化祭当日。

 開場と同時に廊下を駆け抜ける子供たちの声が、校舎中に弾けていた。

 蓮のクラスが企画した演劇「星の王子さま」は、予想以上の反響を呼び、控えめだったクラスメイトたちも自然と声を出して動いていた。


 蓮は照明担当として、舞台の隅で光のタイミングを見守っていた。

 本番中、時折聞こえてくる小さな笑い声、感嘆の息。

 そのすべてが、教室に温度を与えていた。


 ——こんなふうに、誰かが自然に笑ってくれる空気が、欲しかったんだ。


 休憩時間。

 舞台裏で道具を運んでいた蓮のもとに、葵がふらりと現れた。

 少し汗ばんだ髪を後ろで結い直しながら、彼女はいつものようにストレートな言葉を投げる。


「お疲れ。“いい人”さん」


 蓮は笑って、「もうそれやめようよ」と返す。


「今日の蓮は、ちょっと違ったね」


「……どこが?」


「“みんなのため”じゃなくて、“そこにいる人のため”に動いてたと思うよ」


 蓮は手に持っていた荷物を置いて、ふと空を見上げた。

 体育館の裏手に差し込む光が、やわらかく地面を照らしている。


「そう……だったかな」


「うん。たとえば、控室で緊張してた子に声かけたでしょ。“大丈夫”って。それ、正しさからじゃなくて、“その子の顔”を見て出た言葉だったと思う」


 蓮は少しだけ驚いた顔をして、葵を見た。


「……見てたんだ」


「全部はね。さすがにストーカーじゃないし」


 ふっと、二人の間に笑いがこぼれる。

 重たかった空気が、少しだけほどけた。


 


 公演の最後、カーテンコールのとき。

 舞台袖で、蓮はクラスメイトたちの背中を見ていた。

 拍手を受けながら、自然に笑っているその顔。


 ——ああ、嬉しいんだな、この人たち。


 演劇が成功したこと。

 それ以上に、その成功を“自分のこと”のように笑える空気が、ここにあること。


 誰のためでもなく、今ここにいる人たちのために、動けた。

 そう言える自分が、少しだけ誇らしかった。


 


 夕暮れ。

 片付けも一段落して、人がまばらになった教室の中。

 蓮は椅子を重ねながら、葵の方を向いた。


「ねえ、僕……今日、誰かのために動いたっていうより、誰かの笑顔が見たくて動いてた気がする」


「……うん」


「それって、自己満足なのかなって、一瞬思ったけど……でも、今はそれでいいって、少し思えるんだ」


 葵は立ち上がり、窓辺に歩いていく。

 夕日が彼女の横顔を照らしていた。


「それって、すごくいい動機じゃん」


「……動機?」


「“何をしたか”より、“なんでそうしたか”。でしょ? それが一番大事だって、私は思う」


 葵のその言葉は、まるで静かに水面に落ちる一滴のように、蓮の中に染み込んでいく。


「……ありがと」


「ん。どーいたしまして、“いい人”じゃなくなりかけてる蓮くん」


 そう言って笑った彼女の顔を、蓮はまっすぐに見ていた。

 そして、笑い返した。


 


 ——正しさだけじゃ、人は動かない。

 心からの想いが、誰かを動かすんだ。


 その日、蓮は少しだけ、自分を好きになれた気がした。

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