第3話:自由な転校生
四月の風はまだ少し冷たかったが、教室の中はどこかざわついていた。
「転校生が来るんだって」
「え、今さら? もう新学期始まってるのに?」
朝の会の直前。クラスの空気がそわそわしている中、蓮は一人、静かに教科書の整理をしていた。ざわめきには耳を貸さず、机の上のプリントの端を揃えるような几帳面さ。いつもと変わらない朝。
けれど、ドアが開いた瞬間——空気が変わった。
「じゃあ、自己紹介よろしくね」と担任が言い、その横に立っていたのは、まるで違う世界から来たみたいな女の子だった。
茶色がかった髪。制服のスカートは微妙に短く、ネクタイもゆるい。視線を恐れず、むしろ受け止めるような眼差しでクラス全体を見渡す。
「久我山葵(くがやまあおい)です。前の学校、退屈だったから来ました。よろしく」
その言葉の軽やかさに、一瞬、沈黙が落ちた。
教師も少し困ったように笑いながら、「じゃあ、あの空いてる席に」と指さす。だが、葵は躊躇なく別の席——蓮の前の席に座ってしまった。
蓮は目を瞬いた。そこは別の生徒の席だ。すぐに声をかけようと、立ち上がる。
「そこ、席違うよ。こっち——」
そのとき、葵がぱっと振り返った。目が合う。まるで見透かすような瞳。
「……うるさいな。」
その瞬間、蓮の言葉は凍った。
「……は?」
「だって、ちゃんととか、正しくとか、そういうのばっか気にしてさ。自分のこと置いてけぼりにして、そんなの楽しい?」
冗談めかした口調。でも、その目は笑っていなかった。
「違う。僕は、正しさが——」
「好きなの? それとも、逃げ道にしてんの?」
チャイムが鳴り、葵は興味を失ったように前を向いた。蓮はそれ以上、何も言えず、自分の席に座り直すしかなかった。
ホームルームが終わったあと、クラスには微妙な空気が漂っていた。誰も葵には近づこうとせず、遠巻きに見るだけ。でも、当の本人はまったく気にする様子もなく、ノートも開かずに窓の外を見ていた。
昼休み、蓮はいつものようにクラスの手伝いをしていた。机を運び、備品を配り、プリントを整理していると、ふと気づく。
葵がひとり、屋上へと続く階段の前に立っていた。
「ここ、立ち入り禁止なんだけど」
また、言ってしまった。反射のように“正しさ”を口にする自分に、蓮自身が少しうんざりしていた。
葵は振り返ると、ふっと笑った。
「またそれ。ほんと、真面目だね。けどさ、ルールって、誰のためにあるんだろうね?」
「それは……みんなが困らないように」
「じゃあ、“みんな”って誰?」
蓮は言葉に詰まった。葵は階段に腰掛け、ポケットからグミを取り出して、ひとつ口に放り込んだ。
「別に、正しいことが悪いって言ってないよ。でも、“正しい”だけで人の心が救えるとは思わないな」
それは、今まで誰にも言われたことのない種類の言葉だった。
「ねえ、あんた。自分のこと、好き?」
唐突な問いに、蓮は戸惑う。
「わからない」
「じゃあ、誰かのことを本気で好きになったことも、ないでしょ」
そう言った葵の横顔は、まるで悲しみを知っている人間のそれだった。
教室に戻ると、蓮の周囲では数人がひそひそと話していた。
「葵ちゃんって、なんか変だよね」
「転校早々あれじゃ……関わらない方がいいかも」
蓮はそれを聞きながら、なぜか胸の奥がざわついていた。言い返したいわけじゃない。ただ、葵の放った言葉が頭から離れなかった。
——“正しさにうるさい人って、生きづらくない?”
否定したかった。そんなことはない、と。でも、蓮自身がその問いに答えられていなかった。
夕方、教室の窓から見える空は、春とは思えないほど鮮やかな茜色だった。蓮はノートを閉じ、静かに息を吐いた。
彼女は「間違っている」と思った。けれど同時に、どこかで惹かれている自分がいることも、蓮は自覚していた。
——あんな言い方、嫌だった。でも、忘れられなかった。
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