第4話:価値観の激突

 昼休み、教室の隅でお弁当のふたが開かれる音があちこちで響いている。蓮はいつも通り、席に座って静かに食事をとっていた。決して目立たないけれど、誰からも好かれる「良い人」としての立ち位置。そんな居場所が、彼にとっては一番しっくりきていた。


 隣の席では、久我山葵がパンをかじっていた。彼女はどこにも属さず、誰とも馴れ合わず、それでいて孤立もしていないという、奇妙なバランスを保っていた。そんな彼女を蓮は意識しないようにしていたつもりだった。だが、今日は違った。


 「……あっ」


 小さな声が教室の一角から聞こえた。見れば、一年生の頃から何度か話したことのある女子——佐伯が、うっかり箸をすべらせて、おかずを床に落としてしまっていた。


 「うわ……お母さんが早起きして作ってくれたのに……」


 落ちたからといって、食べるわけにはいかない。けれど、彼女の表情は明らかに沈んでいた。周囲の子たちも気まずそうに視線を逸らしている。


 そのときだった。


 蓮はためらわず、手元のお弁当から卵焼きと唐揚げを取り出して、彼女の弁当箱にそっと差し出した。


 「これ、よかったら」


 佐伯は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑みを返した。


 「……ありがとう。助かる」


 そのやりとりを見ていた葵が、唐突に言った。


 「それって、“みんなのために自分を殺す”ってことじゃない?」


 蓮は手を止める。教室の空気が一瞬、止まったような気がした。


 「え?」


 葵はパンの袋を丸めながら、何気ない口調で続ける。


 「なんかさ、見てて思ったの。“優しさ”っていうより、“犠牲”って感じだった」


 蓮はゆっくりと顔を上げる。その視線には明確な疑問と苛立ちがあった。


 「助けを求めてる人がいて、自分にできることがあるなら、それをするのが当たり前だと思う。僕は逃げてなんかいない。“みんなが少しでも幸せになれるなら”——それだけでいい」


 言い切る声はまっすぐだった。けれど、葵はその強さにまるで動じなかった。


 「“みんな”って、誰のこと? クラスの子たち? 先生? 友達? ——その中に、あんた自身は入ってる?」


 蓮は言葉を失った。


 「……僕の幸せなんて、必要ない」


 それは、まるで呪いのように自分自身に課してきた言葉。口に出してみて、蓮は初めて、その響きの冷たさに気づいた。


 葵は少し悲しそうに、それでも真っ直ぐに言った。


 「そういうの、優しさじゃないよ。自己否定っていうんだよ」


 周囲の子たちは気まずそうに視線を交わし、あえて会話に入ってこようとはしなかった。蓮と葵の間だけ、違う温度の空気が流れていた。


 「……僕は、ただ……」


 その先が言えなかった。


 弁当を食べ終えたあと、蓮は屋上への階段を一人で上がっていた。立ち入り禁止なのは知っている。でも、今は誰にも見られたくなかった。


 風が吹いて、制服の裾が揺れる。


 ——彼女は間違ってる。僕のやり方は間違ってなんかない。


 何度も自分にそう言い聞かせる。それでも、心の奥に刺さった“逃げ”という言葉が、どうしても抜けなかった。


 (助けることが悪いわけじゃない。でも……本当に、それが自分のためじゃないって、誰が決めた?)


 揺らぎはじめていた。


 自分の中の「正しさ」が、葵の言葉で静かに、しかし確かに揺らいでいた。


 そして——何より。


 (なんでだろう。あんな言い方されたのに、胸が……ちょっと、痛かった)


 それは怒りでも、悲しみでもなく、もっと曖昧でややこしい感情だった。


 ただ一つ確かなのは、彼女の言葉が「正論」だったこと。そして、その正論が、蓮自身の「正しさ」を静かに崩しはじめていることだった。

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