いざなみ食堂うらめしや

佐海美佳

第1話 三途の川のほとりにて

 太郎が目を覚ました時、最初に感じたのは冷たい空気だった。

 いや、冷たいだけじゃない。湿っぽくて、でも妙に懐かしいような匂いが鼻をついた。

 目を開けると、視界全てが真っ白で、景色の輪郭がはっきりしない。霧だ。白い霧が立ちこめている。

 遠くで何かが、ガサガサっと音を立てた。

 太郎の心臓はバクバク跳ね上がり、怖すぎて声も出ない。


(ここはどこだ? 死んだ? いや冗談じゃない、幽霊なんて絶対嫌なんですけど!)


 慌てて立ち上がろうとしたが、足に力が入らず尻餅をついた。座ったままでいると霧にのみこまれそうな気がして、太郎は力を振り絞って立ち上がる。

 尻の感覚で分かったのだが、足元は小さな石ころばかりが転がっている。霧が少し晴れると、石ころばかりの平らな地面がわりと広い範囲で平らな地面を形成していることに気づく。

 遠くからは、川のせせらぎが聞こえた。どうやら川の近くらしい。

 太郎は水音に惹かれて、音が聞こえた方角に視線を向けた。相変わらず白い霧が濃く立ちこめているのでよくは見えないのだが、遠くに川を流れてくる灯籠の弱い光が揺れているらしかった。傾いた石碑のようなものも見える。


(幽霊が出てきそうだ……)


 太郎の頭の中で、過去に見たことのある幽霊映画の断片がフラッシュバックした。背中に冷たい汗が流れる。ぼさぼさの髪を垂らし、爛れた青白い顔をうらめしげに歪め、白い着物を着て突然現れる幽霊。

 怖いと思っているものほど、詳細な記憶が蘇ってくる。

 ふわっと飛んでくる幽霊のイメージが頭を突然よぎって、彼は思わず「うわっ!」と叫んで身を縮こませた。

 そこへ、霧の中から影が現れた。

 いや、影ではない。白い着物を着た、背の高い女性のようだった。髪はするりと長く、艶やか。立ち止まったままの太郎にどんどん近づいてくる。近づくにつれ、女性の顔もはっきり見えてきたが、目も鼻も口も平均的な場所にきちんと収まっており、美人といえば美人なのだが、悪く言えば印象に残らない顔をしていた。

 太郎は、恐怖のあまり一歩も動けずにいる。


「ようこそ、黄泉の国へ」

 白い着物の女性が低い声で言った。彼女の口元が少しだけ歪んだ。

(黄泉の国って……死んだ人が行くところじゃなかったっけ?)

 太郎は幽霊恐怖症であるがゆえに、そういう単語にも敏感に反応してしまう。


(もしかして……いや、もしかしなくても、俺、死んだ?)

 信じたくない事実に辿り着いた太郎の顔を、じっと見ていた着物の女性は、彼を落ち着かせるような優しい声色でしゃべった。

「私はイザナミだ」

「え?」

 太郎は後ずさりしながら、頭の中で必死に逃げ道を考えた。でも、足は動かない。手だってまともに。恐怖が全身を凍りつかせていた。

 イザナミ、という名前は聞き覚えがある。

 確か、古事記に出てくる日本創世の物語に出てくる神様の名前だ。イザナミノミコト。

 太郎は気持ちを落ち着かせようと、両手を胸の前で擦り合わせた。

「拝むな。そして、怖がるな。君はまだ初心者だ。ここのルールを覚えれば、生きやすくなる」

(俺、死んでるんだよな……生きやすくなるってどういうことだよ……生きてるのか死んでるのか……え? どっちだこれ?)


「あの……俺って、死んだってことですか」

「……」

 イザナミがこっくりと頷く。

「頭の中が混乱しててよくわからないんですけど、何が理由で死んだんでしょう」

 大事な自分のことを、他人に聞いている変な質問だと思いながらも、太郎は半歩イザナミに近づいた。

「生きていた時の記憶は、三途の川を渡っている間になくしている」

(さっきから聞こえていた川の音は、三途の川だったのか! ってうわー、渡っちゃったらダメじゃん)

 太郎の顔面の筋肉が、ひくりと痙攣した。

「渡りきってから残っている記憶が、その魂の一番強い思いだ。例えば、幽霊が怖いという思い」

 白くて細い人差し指が、太郎に向けられた。その通りすぎて、ぐうの音も出ない。

「無理矢理肝試しをさせられて、怖くて逃げだそうとしたが、足がもつれて倒れてしまい、打ち所が悪かった、という可能性が高い」

 うっと、太郎は息を飲んだ。あまりにも詳細な可能性だが、納得してしまう。

「あと、俺って、太郎って名前でしたっけ?」

「それは、適当につけた」

「適当!?」

「記憶がないんだからしょうがないだろう。基本的に魂には名前はない。お前は特別だからな」

「特別なら特別らしく、もっと違う名前が良かったんですけど」


 イザナミと名乗った白い着物の女性は、太郎の言葉を最後まで聞かぬうちに背中を向けて歩き出した。彼女が向かう先には、小さな木造の建物が見える。

 看板には「イザナミ食堂うらめしや」と書かれていた。太郎からは見えない建物の裏側から、ケムリがふわりと上っている。

 霧をかき分けながら歩いていく。店の背後には背の高い木がたくさんあって、森のようになっている。

(うわぁ、古い食堂だ。観光地とかにありそう。でも、死語の世界に食堂があるってどういうことなんだろう……?)

 太郎の頭は混乱していた。

 イザナミ、などと言うもろに神話そのままの名前の女性を、信じていいのだろうか。

 好奇心と恐怖が入り混じりつつしばらくその背中を見送っていたのだが、仕方なく彼女の後を追うことにした。

 不気味な霧が立ちこめる川辺に1人取り残されるよりは、食堂の建物の中に居た方がましだと判断したからだ。

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