”弁明”という問いかけ
第八話 前編
―問いかけること。それが僕に許された、ただ一つの弁明だ―
私は図書室の窓辺から、最後の生徒が校門を出ていくのを眺めていた。五月の午後、柔らかな光が校舎を照らす。
「藤村先生、まだ残ってたんですね」
振り返ると、佐倉美羽が立っていた。成績優秀な二年生で、いつも教室の前列で真剣に話を聞いている。彼女の眼鏡の奥の眼差しは、いつも何かを求めているようだ。
「ああ、佐倉か。どうした?」
「あの、『ソクラテスの弁明』について質問があって...」
彼女は少し緊張した様子で、教科書を胸に抱えている。
「ああ、もちろん。 今日は職員会議があるが、少し時間はある」
彼女はうなずき、二人で静かな図書室へ向かった。
◇
図書室の窓から差し込む陽光が、閑散とした机の上に四角い光の島を作っている。私たちは向かい合って座った。
「それで、質問というのは?」
佐倉は少し考えるように目を伏せ、それから唐突に言った。
「先生、ソクラテスって馬が好きだったんでしょうか?」
「......馬?」
思わず私は声を詰まらせた。哲学者のプライベートな趣味について訊かれるとは。
「......どういう意味だ?」
「あぁ、いえ『ソクラテスの弁明』の復習をしていたんですが、ソクラテスは例えでやたらと馬を持ち出すんです。だから、お馬さんが好きなのかなって」
おぉ!きちんと原典を読み込んでいるな。
「なるほど、そういうことか......面白い着眼だな」
私は少し姿勢を正した。
「ソクラテスが馬を持ち出すのは、単に『身近な例え』としてなんだ。特に『徳』や『教育』について話すとき、馬の調教師や馬術師を例にして、『誰がその道において専門家なのか』を問う。つまり『馬=専門性を測る道具』として登場するんだ」
彼女は熱心にメモを取っている。
「だから、好きというより――『わかりやすく問いを立てるための手段』なんだろうな」
「なるほど!じゃあ、お馬さんが好きなソクラテスはいなかったわけですか...」
佐倉の声には、微かな失望が混じっていた。まるで、哲学者の人間的な側面を知りたがっているようだ。
「...ああ...そうだな、うん......少なくとも、ソクラテスが草原で馬と戯れていたという記録は......ないな」
言いながら、何か言葉を足したくなった。
「......いや、ただ、こう考えることはできるかもしれない。彼は、言葉の馬を飼っていたのかもしれないな。――暴れる考えを馴らし、まっすぐ走らせるために」
言ってから、少し照れくさくなった。
「......いや、すまん。なんでもない。」
佐倉はニッコリと微笑んだ。
「いえ、いいんですっ!あ、でも、先生がおっしゃっていた『ソクラテスは「無知の知」が有名だけど、ほとんどの人が誤解している』って話。あれ、今でも覚えていますよ」
思いがけず、彼女が前の授業を覚えていることに、少し驚いた。いや、気を使われたのか?
「......覚えていたのか。あれは少し、熱を込めすぎたかもしれんな」
そう言った瞬間、あの日の教室の光景が鮮明によみがえった。
◇
黒板には「哲学の祖、ソクラテス」と書かれ、授業が始まっていた。
「ソクラテスが生きた時代、アテナイでは彼のような人物に対して、ある特別な評判が立っていた。それは、神託――アポロンの神殿で発せられたものです」
私は説明した。
「神託はこう告げたのです――『ソクラテスより知恵のある者は、誰もいない』。だが、ソクラテス自身はその神託をどう受け止めたでしょうか」
「ソクラテスは、この信託を疑いました。そして、自分より知恵のある者を探して、証明しようとしたのです。」
教室の一角で、佐倉がじっと聞いていた。目を輝かせながら、時々頷いている。
「ソクラテスは、その神託に対する答えを見つけるために、アテナイの市民たちと問答を重ねていきました」
「彼の問答法、いわゆる『ソクラテスの問答法』は、質問を通して相手の考えを掘り下げ、矛盾や不完全さを引き出すものです。この方法で、ソクラテスは人々が自分の信じていることが本当に正しいのかを再考させます」
「彼は決して自分の意見を押し付けることはなく、むしろ相手に考えさせ、導くことを重視したのです」
教室で山田がつぶやいた。
「あー、でも、めちゃくちゃ詰められるみたいで、私は苦手だなぁ」
「山田さん、良い意見です。後でそのことも話しますね。ソクラテスはこの問答を繰り返しながら、最終的に一つの結論に達します。それは、人間は決して完全に知っているわけではない、ということです。全てを知ることなど不可能だが、重要なのは、常に疑い、問い続けることだという」
「しかし、この考え方がアテナイの社会では受け入れられませんでした。なぜなら、彼のように既存の信念や権威に疑問を呈する者は、社会にとって不安定な存在となりかねないからです」
「さらに、ソクラテスは若者に影響を与え、彼らを『堕落させている』と批判されました。彼の思想が、知識人や支配層の怒りを買ったため、最終的には裁判にかけられることになりました」
「先生!ソクラテスはその後、どうなったんですか?」
教室の後ろから、生徒が質問した。
「......彼は、裁判の場でもいつもと同じでした。つまり、問いかけ、疑い、言葉で相手の思考を掘り下げていく――あのスタイルを変えなかった」
「だが、裁判官たちは、それを『反省のなさ』や『挑発』と受け取りました。結果として、心証は極めて悪く......投票によりソクラテスには死刑が宣告されました」
「――毒をあおって、命を絶つ。それが、哲学者ソクラテスの最後でした」
「えー!」
「ソクラテスめっちゃ可哀想じゃん!」
教室が湧いた。いい調子だ。
「確かに、現代の感覚で見れば――理不尽で、可哀想に思えるかもしれません。だが、ソクラテス自身は違いました。彼にとって"死"すらも、問いをやめる理由にはならなかった。むしろ、死の先に何があるのか、それを知らずに恐れるほうが問題だとさえ考えていたのです」
「――そう、あの人は最後まで"知"の探求者だったのです。命を賭してでも、問いを捨てなかった」
そして黒板に、静かに一人の名を記した。
―後編に続く―
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