第22話 諱、鬼
知らず、一歩下がる。御剣愛佳は姉の魂を手に入れてから、初めて他人に気圧された。
目の前にいる大士族のなにが変わったというわけではない。前傾姿勢をやめ、ただ名乗っただけだ。だがそれだけで山が恐怖に怯えたように震え、異様なまでの圧力を放出している。
愛佳の胸にある結晶よりも紅い瞳がゆっくりと全身をなぞり、胸の中心でその動きが止まる。まるで、魂の在り処を見つけ出すかのように。
ゆらり、と一歩を踏み出す。今までと変わらない歩法はしかし、愛佳に大きく距離を取らせた。
あれに近づいてはいけない、士族としての本能がそう告げる。獣が時として敵わぬ相手に平伏するように、神霊力を持つ士族として、また魂喰らいにという魔に堕ちた者として、由鬼との交戦を拒んでいた。
風が啼く。鬼の嘆きのように。
差し込まれるような由鬼の突きを弾き、翻る刃を捌く。意識の間に滑り込んできた蹴りをかわす。
「隊長……なんなんですか、それ」
大きく飛んで距離を取り、絞り出すようにそれだけを言う。距離をとってようやく余裕が回復する。それほどまで今の由鬼は愛佳を圧倒していた。
「魔を有すると書いて
「なるほど……魔となる神具があって、魔となる神霊力……その大元がないわけはない、か」
鬼が飛ぶ。その刀を爪にして。鬼が駆ける。その言葉を炎にして。隠匿という楔から解き放たれ、魔を顕現させた由鬼は同じく魔である血族を容赦なく追いつめる。
先ほどまで一方的に攻撃を加えていたとは思えないほど、由鬼の動きが掴めなくなる。圧倒的な立場の逆転が、愛佳を防戦一方へと追い込んでいく。
「くっ、うあっ!」
剣先が身体をかすめる。徐々に愛佳の身体を捕らえ始めている。加えて鬼の神霊力ともいうべき圧力が愛佳を絡め、動きを鈍らせた。
魂喰らいが人と別種ならば、大士族もまた士族とは別種なのだ。紅目の鬼を前にして愛佳はそう悟った。だが、気圧されはしても引きはしない。姉の魂を喰らった瞬間、その甘美な恍惚を思い起こして身体を奮い立たせる。
この鬼を屠れば、またあの時の絶頂を味わえるのだ。これほどの魂が、まずいわけがない。
「いいです。いいですね。ますますいいですよ隊長。是非とも喰いたくなりましたよ。私が隊長を喰えばその力はどうなるのか、隊長の命はどんな味がするのか。想像しただけで濡れてきましたよ! あっははははは!」
「貴様ごときの腹に収まる俺じゃあない」
愛佳が刀を青眼に構えた。御剣における基本的な剣法である、どこまでも速く強く、決まるまで撃ち続ける。それを可能とさせる構え。
由鬼は半身になって愛佳をうかがう。紅の眼がゆらゆらと揺らめき、まさしく鬼火のようにちろちろと光る。
『ぜああっ!』
由鬼と愛佳、動いたのはどちらが先か。二人の咆哮が重なる。青眼からの斬り下ろし、半身からの逆袈裟が互いに噛み付く。ギリギリと刀が絡みあう耳障りな音が二人の耳に届く。
由鬼が刀を引き、愛佳の身体が一瞬泳ぐ。その瞬間に貫き手が放たれ。赤の結晶を貫かんと一直線に迫っていく。
「くっ、ぐあっ!」
とっさに腕で庇う。貫き手が腕に刺さり、血がしぶく。片手持ちの由鬼の刀を弾いて、隙のある腹部を横薙ぎに払った。後ろに飛ぶが間に合わず、剣先が脇腹を裂く。滲み出る血が近衛の軍装を濡らしていく。
開いた距離がすぐさま詰められる。愛佳の踏み込みと、再度の斬り下ろし。かわされても、追撃の突きを放つ。由鬼は動じずに捌き、続けて撃ち込まれた横薙ぎの一撃も捌く。
攻守が交代する。空いた上半身への胴薙ぎを、愛佳は弾く。由鬼は崩れた体制から、曲芸のように回し蹴りを放つ。側頭部に衝撃を受けて吹き飛ぶ愛佳に、獣のように追撃を仕掛ける。
草むらの中から跳ねるように飛び出す愛佳が、勢いのままに心臓を狙った真っ直ぐな突きを穿つ。右にかわすのも左にかわすのも不可能と見た由鬼は、刀身を立てて軌跡を受け流す。
耳障りな金属音と共に、軌道がずれた突きが肩肉を切り裂く。痛みと血しぶきを無視して放った斬撃が、愛佳の左目を抉った。
「ぎあああっ!」
奇妙な悲鳴を上げて愛佳が飛び退る。一つになった眼がぎらぎらと光って由鬼を凝視していた。
「くっふふふふ。女の顔を斬るだなんて、酷いなあ。嫁に行けないじゃないですか。容赦ないですね隊長は。さすが親の腕を切り落としただけはあります」
顔面に流れた鮮血を化粧にした壮絶な笑顔を浮かべる。由鬼は刀についた血すら汚らわしいというように、刀を振って血糊を払った。
互いに血と咆吼と力を振り絞って刀を振り回す。魔に堕ちて力を得た落とし子と、魔を得て生まれついた大士族が命を秤にかけて死闘を繰り広げる。
互いの存在という天秤は一挙動ごとにゆらゆらと傾きを変え、その趨勢を定かにしない。肉が抉られ、肉が裂かれ、血が噴き出し、咆吼が重なる。互いが己の損傷に頓着せず、ただ相手の命を喰らうためだけに身体を動かし続ける。
「ははっ! あははははっ! いいっ! いいですっ! 私は今、初めて闘うってことが楽しいって思ってます! ずっとずっと姉に負け続けて、剣術なんて一つも楽しくなかったのにっ! これも姉のお陰っ! 隊長のお陰っ! あはははははっ!」
「ぎゃあぎゃあとうるさい女だ。次はその喉を抉ってやろうか」
昂奮する愛佳とは対照的に、由鬼はぞっとするほど冷えている。それは互いの剣法をも現していた。
情欲のままに単純な型を連続して叩き込む愛佳と、冷酷に技術を駆使して急所を狙う由鬼。
ただ一つ確かなのはぶつかり合うたびに損傷が増え、そしてその限界点がさほど遠くないということだけだった。
何度目かも分からない剣劇を終え、二人が離れた。互いにボロ雑巾のように服と肉を裂かれながら、それでも互いに対する殺意だけは削がれることなく高まっている。
「ふふ、隊長。そろそろ終いにしましょう。食事の時間は短すぎても長すぎても興ざめですから」
「同感だな。その苛つく顔を斬り飛ばしてやろう」
愛佳が刃を寝かせた。御剣の型の一つ。半身にした身体で刀を隠し、身体は捻って力を溜める。刃の出先を推測させない、単純な御剣の剣法にしてはやや珍しい構え。
対する由鬼は刀を最上段に構えた。まるで自分が御剣の剣法を使うかのように全く防御を考慮しない、ただ真っ直ぐに斬り下ろすためだけの構え。
風が吹いた。
『っ!』
言葉もなく、契機もなく、唐突に二人が動く。
半身からの胴薙ぎと、最上段からの斬り下ろし。
だが、互いの刃はそれぞれの身体に届かなかった。由鬼を狙った愛佳の大刀は、大刀そのものを狙った由鬼の刀と噛み合い、一瞬にしてへし折られる。
「なっ――」
驚愕させる間もなく反転した黒い切っ先が結晶に潜り込み、振り抜かれた。
ぎちん、という命を断ち割った音が響く。なんの障害もなかったかのように、黒い刃は赤い結晶を真っ二つに切り裂いた。
瞬間、結晶から視界が煙るほどの血流が噴き出す。改めて言うまでもない、致死への流れ。
「あ……か……」
「貴様が狙ったのは俺の命だが、俺が狙ったのは貴様の武器だった。そして横の一撃は面であり上からの一撃は点になる。点がぶつかれば面は貫かれる。単純な理屈だ。最後の最後で手を誤ったな、御剣愛佳。しょせん、そういうことだ。姉の記憶を喰らっても、姉の技術を奪っても、姉の刀を使っても、最後に選択するのは自分自身であり、貴様はそれを見誤った」
噴き出す血を止めるかのように、結晶を抑える。むろん、止まるはずもない。己が血に溺れるようにふらふらと後ずさりながら、それでも愛佳は笑った。
「やっぱり……隊長は凄い……ふふ……姉が惚れるわけが、ちょっと分かった……」
血まみれの言葉を吐き出し、笑った。命の奔流はまだ止まらない。姉と妹、二人分を吐き出すかのように流れる血が霊峰に吸い込まれていく。
「選択……っていいましたよね……私……後悔はしてません……姉を殺したこと……姉を喰ったこと……それが私の選択だったから……ふふ……ふふふふふふふ」
ごぼり、と口から血塊を吐き出す。まるで心臓を吐き出したかのような、黒く紅い奔流が愛佳の喉と胸元を汚していく。
「さようなら、隊長。今まで、ありがとうございました……あはははははっ!」
そのまま、倒れた。それだけは由鬼の記憶の中にある笑顔と同じものを遺言として。
「馬鹿が……」
由鬼の手向けた言葉はそれだけだった。流れ出た血を振り払うように、天を仰ぐ。涙は流さない。たとえ姉妹との在りし日の思い出が脳裏を駆け巡ったとしても、それは涙を流していい理由にはならない。それになにより、裏切り者のために流す涙を由鬼は持っていない。
流された血と同じ色の瞳を、目の前の骸へと移す。凄惨な、しかし満足げな微笑みを持って逝った愛佳がそこにいた。姉の力に憧れ、姉を喰うことでしか、その方法を選ぶことでしか越えられなかった妹がそこにいた。
自分は、それを刃でしか止められなかった。
「本当に馬鹿だ」
誰も彼も。そんな呟きを風に溶かしてしばし瞑目する。がさり、と草ずれの音が聞こえた。振り向かなくても分かる。そこには愛しい白狼がいるはずだ。
ゆっくりと目を開ける。鬼から人へ戻った由貴の眼は黒に変わり、そこにいた契約相手を視界に捕らえた。
「由貴」
「シロ」
ただ互いの名前だけを告げて、シロが寄り添ってくる。由貴から零れた血で、その美しい獣毛が汚されるのも構わずに。
ぐい、と軍衣の裾が引っ張られた。由貴は膝をついてシロを抱きしめる。獣の温もりが由貴を優しく包み込んだ。押しつけた鼻から、シロの匂いが感じ取れる。
ぎゅう、と――痛みを感じているであろうほどに――力をこめてシロを抱き続ける。流さない涙をその力の強さで示すように。
抱きしめたまま、顔を押しつけ続ける。血の匂いをシロの匂いで振り払うように。白い身体がいくら赤に染まろうとも、シロは黙って受け入れてくれた。
涙は流さない。慟哭も漏らさない。
だけど――哀しみは消えない。
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