HumbleNuts

Hasewo

Chapter 1 The Fold

– When Everything Was Mucked

(すべてがマックされた夜)


雨が降っていた。

地面に跳ね返る水音が、やけに近くに聞こえる。


走り去る車の音も、ビルの灯りも、今の芭蕉ばしょうにはもう関係なかった。

手元の黒い傘をさすでもなく、びしょ濡れのまま歩道に立ち尽くしていた。


30万円相当のスーツはしわくちゃ、本革をあしらった靴は汚れ、肩は少しだけ震えている。


それが寒さからか、心のせいか――自身にも、もうわからない。

マンションのエントランスにたどり着くと、無言でエレベーターに乗り込む。


扉が閉まる寸前、濡れた髪の先から水滴がひとつ、床に落ちた。


音はしなかった。

部屋の鍵は差し込まなくても開いた。

オートロックのセキュリティは、いつも、何も守ってはくれなかった。


無人のリビング。

机の上には、乾ききったグラスと、抜け殻のように座っているぬいぐるみ。


その名は――Humble Nuts(ハンブルナッツ)

色褪せた毛並みに、わずかに子供の匂いが残っている。

いつも子供が抱きしめ、話しかけていた。

家族の表情や動きから感情を読み取り、

辛い時や困った時などに的確なアドバイスをする。

家族を見守り、元気づけるために作られた、

いや、芭蕉の会社で作った、AIエージェント搭載のぬいぐるみ。


スマートグラスの隅に、小さな通知が浮かんでいるのが見えた。

<<Humble Nuts Connected – Visual Stream: Standby>>


視界に入り続けていたその表示を芭蕉は気にせず、

ソファに崩れるように座り込み、ジャケットも脱がずに目を閉じた。


「……何もかも、したな」


誰に言うでもなく、ただ息を吐くように呟いた。


失った会社。

失った家族。

失った時間。


そして、自分自身。

けれどその中で、ひとつだけフォールド断念されなかったものがあった。


スマートグラスの中――まだ、表示は続いている。

芭蕉はまだ、気づいていない。


この夜、自分がすべてを“失った”のではないということに。

降りたフォールドのは、誰でもない――自分だったのだということに。


今の彼に残っているのは、ただ一枚のチップ、小さな“希望”のかけらだけだった。



──


「ようこそ、メガカジノ大阪のポーカールームへ」

フロアスタッフの柔らかい声が、芭蕉の耳に届く。


和柄と西洋モチーフが融合された豪華絢爛な柱、壁、内装、照明。

ところどころにディスプレイが配置してあり、

各テーブルのレートとなるブラインド最低参加金額が表示されている。

細部のいたるところまで、“NEOJAPAN- 和柄が浮かぶ静謐な未来空間”をテーマにしたスタイリッシュデザインでまとめられた空間──これがメガカジノ大阪のポーカールームであった。


芭蕉はその光景に捉われることなく、

目的地である“キャッシュゲーム”と呼ばれるテーブルへと歩いていった。

こちらをジロジロとみる者、

気にも留めずにゲームに集中する者、

お酒を飲みながらレクリエーションを楽しむ者、

常連同士でプレイの振り返りをしている者、

老若男女・人種を問わず、さまざまな人間がいる。

そして、カジノに集まる和やかな人たちとは裏腹に、

チップの奪い合いに目を光らせる捕食者シャークも多数存在している。


「4番空いてます」

不愛想なディーラーが手際よく案内する。


芭蕉はジャケットを脱ぎ、椅子にかけながら軽く伸びをした。

チップスタックはちょうど20,000点。

このメガカジノ大阪では1点のチップが10円の価値をもつ。

現金にすると200,000円になる。

芭蕉にとって、かつては、これしきで心が動くことのなかった金額。


でも今は、負けられない金額。

なのにどこかで、「負けてもいい」と思っている自分がいる。

全部失う覚悟と問われると違うが、

何かを得るための期待はあったのかもしれない。


“テキサスホールデム”

このゲームでは、ジョーカーを除いた52枚のトランプを使う。

プレイヤーは2枚の手札ハンドを持つ。

テーブルでは3枚、1枚、1枚の順番に、計5枚のカードが開かれる。

その5枚と自分の手札2枚の計7枚で“最強の5枚の組み合わせ”を作る。

テーブルに座った6~10人、それぞれがその手をぶつけ合い、賭け合い、勝敗を競う。

そして、テーブルの上で一番強い組み合わせを人々は“ナッツ”と呼んだ。


──芭蕉にはそれがただのゲームには思えなかった。


自分の手札は、生まれ持ったもの、才能や適性の象徴。

その手札は自分しか知ることがない。

人に見せてはいけないし、見えてもいけない。

テーブルボードに並ぶ5枚は、まるで人生そのもの。

出会いや別れ、偶然の重なり……どうにもならない流れの中で、

自分の手札を信じるしかない時も、ある。


『君に与えられた才能は…』

ディーラーが言った気がした。


手元に配られたカードをそっと覗き込む。

J♢ 9♢


「レイズ、300点」

ここは最低参加金額が100点のテーブル。

芭蕉は、その3倍のレイズ賭金上乗せをした。


それに対し二人のプレイヤーがコール同額参加


最初に3枚のカードが開かれ、

芭蕉のHUDヘッドアップディスプレイに瞬時に状況を伝える。

《ハンド:J♢ 9♢ 》

《フロップ:J♠ 6♣ 2♡ / ワンペア》

《ポット:1,050 / 残スタック:19,700 》


Jが刺さり、トップペア。

今、この場では一番強いペア。


芭蕉はすかさず、

500点チップ1枚をベットする。

初心者には「役ができてるよ」というアピールにも見えるサイズだ。


一人のプレイヤーがコール同額参加し、次のフェーズに進む。


次のカードがゆっくりと開かれる。

…3♢


芭蕉のHUDは瞬時に更新され、現在状況を伝えた。

《ハンド:J♢ 9♢ 》

《ターン:J♠ 6♣ 2♡ - 3♢ / ワンペア》

《ポット:2,050 / 残スタック:19,200 》


相手は再びチェック。


芭蕉は、少し間を置いてチップを3枚ベット1,500点投げ込んだ。

テーブルの上で、じゃらり、と小気味の良い音が鳴る。

これは、完全に「俺は今強いよ」と主張するサイズ。


相手プレイヤーは迷いながら、時間をかけてコール。


ディーラーが最後のカードを開く。

… 9♣


芭蕉はHUD表示より先に、自分にツーペアが出来たことに気づく。

《ハンド:J♢ 9♢ 》

《リバー:J♠ 6♣ 2♡ 3♢ - 9♣ / ツーペア》

《ポット:5,050 / 残スタック:17,700 》


(ベットについてきているってことは…

 相手はAJかKJあたりの強めのワンペア…

 だが、最悪はセットスリーカードもある…)


相手プレイヤーはチェック。


(誘っているのか…?

 …だが、勝っている可能性は高い)


芭蕉は相手のチップの山に意識を集中させる。

HUDの右隅に、静かに数字が浮かんできた。

《残スタック:13,700》


それを確認したのち、芭蕉はそっと、チップを差し出した。

「2400点」


狙いはAJやKJ。

もし、相手がそれを持っていたならば、

絶妙にコールしたくなるラインの金額。


相手プレイヤーは数秒考え──コール


芭蕉のカードが開かれる。

J♢ 9♢  ツーペア


相手は、自分のカードを開くことなく、伏せてマック投げ捨てた。

相手のカードが何であったかは、本人以外、場の誰もわからない。


ディーラーはレーキ手数料を差し引いた9,350点のチップの山を黙って芭蕉に差し出した。

金額にすると、93,500円。これがものの数分で稼げる。


だが、芭蕉にとって、金額よりも大事なのは勝利の手応えだった。

相手のカードを読み、チップの山を自分で勝ち取った実感。


芭蕉は静かに息を吐いた。

勝利の安堵からか、スマートグラスのフレーム越しに、テーブルの輪郭がクリアに見える。

チップを並べ直しながら、目の前の空席にふと視線を送った。


──そこに、男が座った。

白いシャツ。白いネクタイ。


椅子を引く音も、チップを置く音も、無音だった。

芭蕉は、口に含んだコーヒーを一瞬止める。

(……誰だ? 常連じゃないな)


自動でHUDが展開される。

《プレイヤー名:UNKNOWN》

《VPIP:不明 / 検証ハンド数:---》

《特徴:不明(情報不足)》


芭蕉は眉をひそめた。


その男は、店内の喧騒に一切影響されることなく、ゆっくりと視線を伏せた。

カードが配られ、まるで計算されたような角度で手元へ滑っていく。

視線は一切揺れない。まばたきも、ないように見えた。


誰も名前を知らない。

けれどその静けさに、誰もが一瞬だけ、何かを察した。

芭蕉は、目の前の男をしばらく見ていた。


声も出さず、身体を動かさず、ただそこに“いる”だけで異質。

そして──直感が言っていた。

(あいつは……危険だ)


1ハンド。


2ハンド。


3ハンド。



白の男は、ただフォールドを繰り返していた。

だが、そのフォールドすらも一分の隙もなく、“完璧”に見えた。


数ハンド後。


「400点」

白の男が、初めて声を出す。


その声は機械的でもなく、重くもなく、

まるで“存在しない音”のようだった。


芭蕉のカードは

A♠ K♠


プレミアハンド。

(これは、“配られるべくして配られたカード”だ)


芭蕉は一瞬、胸の奥に“勝利の香り”を感じていた。

「リレイズ、1,200」

静かに、だが強く。


白の男の400点オープン上乗せ参加表明に、

芭蕉は即座に3倍のベットを重ねた。

男の目線は一切揺れない。

まるで、これすらも予定調和だったかのように

──コール。


ディーラーが手際よく3枚のカードを開く。

…K♣ 7♢ 2♠


《ハンド:A♠ K♠ 》

《フロップ:K♣ 7♢ 2♠ / ワンペア》

《ポット:2,650 / 残スタック:20,400 》


Kによるトップヒット。

しかも相方になるキッカーはA。

現状、ほぼ勝っているボードだ。


白の男はチェック。


芭蕉は、迷いなくベット。

「1,500」

男もまた迷わずコール。


(この静けさ、何だ……?)


ボードに次のカードが落ちる。

… 3♢


《ハンド:A♠ K♠ 》

《ターン:K♣ 7♢ 2♠ - 3♢ / ワンペア》

《ポット:5,650 / 残スタック:18,900 》


場は何も変わらないように見える。

だが、芭蕉の心にかすかなノイズが走った。


白の男は静かにテーブルを叩いたチェック


(ここで打たなきゃ、押し負ける)

「3,000点」

芭蕉はベットを押し込む。


白の男──コール。


最後のカードが開かれた。

…A♣


《ハンド:A♠ K♠ 》

《リバー:K♣ 7♢ 2♠ 3♢ - A♣ / ツーペア》

《ポット:13,650 / 残スタック:15,900 》


AKによるツーペア…ツーペアの中でも最強の手の完成。

(…これで負けることは殆どないな)


その時だった。

白の男が──静かに、チップをすべて前に出した。


「オールイン」


即座にスマートグラスが相手のチップの山を計算する。

《ベット額:15,800 》


コールしたら芭蕉の残りは、わずか100点となる。


「……なあ、この状況でAK降りられるやつ、いねぇよな?」

震える唇でつぶやき、コールを宣言した。



──ショウダウン──



白の男がためらいもなくカードを開く。

A♢ A♡


場にいた全員の時間が、1秒だけ止まった。

視界の端、うっすらと浮かび上がるHUD。

《相手ハンド:スリーカード 》


芭蕉は、手元のA♠ K♠を伏せた。


チップが音を立ててテーブルを転がる。

ただ、1枚だけ──100点のチップだけが、彼の手前に残されていた。


チップを受け取った白の男は何も言わず、静かに次のハンドを待っていた。


とは、勝敗を決める瞬間であり、

自分が何を持っていたか――本当は何を持っていなかったかを晒す瞬間。


芭蕉が100点を残したのは、

ハンドを信じたからでも、勝算があったからでもなかった。

ただ、降りることも、選ぶことオールインもできなかった。

信じることも、諦めることも──あの日と同じように。


この場でショウダウンされたのは、芭蕉の弱い心だった。

最後に“めくられた”のは、本当の自分自身。


テーブルにマックされた伏せられたのはハンドじゃない。



芭蕉は目を落とす。

スマートグラスに、わずかな変化が起きる。

<<Humble Nuts Connected – Visual Stream: Standby>>


そして、いつかの懐かしい声が聴こえた気がした。

「それが、パパのチップだよ……誰のでもなく、パパが残したやつだよ」


言葉にできなかった。

でも、確かにそれは、“次の勝負を諦めない証”でもあった。


弱さの中に残された微かな光。

その光を信じたい自分と、いや、信じるには足りないと思う自分が、

胸の内で静かにせめぎ合っていた。


ディーラーが淡々とカードを回収していく。テーブルには静寂だけが残った。

まるですべてがマックされてしまった後のような光景だった。


しかし、その静寂を生み出したのは他でもない自分自身なのではないか。

――そんな考えが一瞬脳裏をかすめた。

芭蕉は小さく息を吐き、揺れる心をなだめるように視線をテーブルへと落とした。

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