第34話: 声なき名を、抱いて


 


 階段を駆け上がる靴音が、世界のすべてだった。


 息が焼ける。肺が裂ける。けれど止まれなかった。


 背後から、怒号と金属音が追いかけてくる。

 剣が鞘から抜かれる音。私兵たちの足音。断続的な怒鳴り声。


 セナの手を引いたまま、僕は走った。


 闇市場の地下を、息を切らしながら、出口を目指して駆ける。

 背中には、“彼ら”がいる。

 名前を奪われ、声を失ったまま、僕の中に眠る魂たちが、かすかに震えている。


 


 通路が歪む。

 壁が軋み、天井から砂塵がぱらぱらと舞い落ちる。


 「保管機構に異常反応!」

 背後の叫びが、耳の奥で割れた。

 魂の開放が、この空間そのものを壊し始めている。


 


 走るたび、スイの胸にしまった魂たちが、共鳴のように微かな音を立てた。

 圧力のかかったガラスのように、脆く、緊張して、砕ける寸前で響いている。


 


 「……スイ……!」


 セナの声が、喉を震わせた。

 彼女の肩は上下し、もう立っているだけで精一杯だった。

 虚還ノ縫の柄が鈍く震え、彼女の魂がもたらす鎌が、形を保てずに滲んでいた。


 


 「行ける……まだ、行ける」


 そう言った僕の声も、かすれていた。


 胸の奥で、確かに――“音”が鳴った。


 僕の魂武器の中核。

 それが、ひび割れるような音を、低く響かせた。


 


 (……限界が近い)


 


 その瞬間、曲がり角の先から私兵のひとりが現れた。


 鋭い刃を振りかざし、まっすぐこちらへ迫る。

 金属製の仮面が、感情のない“職務”を象徴していた。


 


 セナを守るため、僕は咄嗟に一歩前へ出る。

 その動きに、刃が対応してくる。

 殺すつもりだ。迷いも、警告もない。


 


 僕は、右手を伸ばした。


 何も考えず。

 ただ、生きるために。


 


 魂武器が、浮かび上がる。

 僕の背後に、音もなく、黒い刃が旋回した。


 “彼ら”の声を宿し、ただ、刃としてだけ存在するもの。


 


 「……どいて」


 


 一閃。


 


 血の音さえ、なかった。

 私兵の仮面が斜めに割れ、視線がゆっくりと揺れ、そして崩れ落ちた。


 


 倒れた身体から、何の音もしなかった。


 


 それは、僕が“初めて”自分の意志で奪った命だった。


 


 その男に、名前があったかも、誰かが待っていたかも――わからない。


 わかりたくなかった。


 


 セナが、言葉を飲み込む。


 僕は、それを見ないまま、また駆け出した。


 背後では、崩落の音が鳴っていた。


 誰かの死も、何もかも、すべてを呑み込んで、都市が、静かに――壊れ始めていた。




 

通路が傾く。地鳴りのような音が、地下全体を揺らしていた。


天井が崩れかけ、鉄骨が軋み、石の欠片がパラパラと降ってくる。熱気と焦げた煙が混ざった空気が肺を焼く。


セナは、今にも崩れ落ちそうな体を引きずりながら、前を走る。僕は、その背中を追った。けれど、足が――もう、動かなかった。


魂が、重い。胸の奥に抱えた魂武器たちが、暴れもしない。ただ、静かに、静かに、重さだけを増していた。


そのひとつひとつに、「かつて」がある。夢があって、祈りがあって、声があった。誰にも呼ばれなかったその声を、今、僕だけが聞いている。


だからこそ、逃げるための一歩が、異様に遠い。


「……スイ!」


前方でセナが叫ぶ。振り返ったその瞳が揺れる。直後、路地の奥から、新たな足音。


私兵だ。仮面をつけ、無言で斬りかかってくる。視線が、こちらを確実に捕らえていた。


僕は、腕を振るった。浮かび上がる黒い刃。けれど、それはすでに“使いすぎていた”。


空を斬った一撃。遅れた反応。刃が私兵の体を裂くと同時に、僕の膝が崩れた。


「っ……ぐ……!」


喉が熱い。視界が歪む。魂が、限界を訴えていた。叫びもなく、ただ粘りつくような痛みだけが内側で滲んでいく。


(……もう、限界か)


膝をついた僕の周囲に、また一振り、また一振り、魂が沈む。


“これ以上は、もう抱えきれない”――そう訴えてくる声が、どこまでも静かだった。


けれど、そのどれもが、“もう少しだけ”と囁いていた。


“せめて、ここから出して”と。


“せめて、名前を守って”と。


 


僕は、立てなかった。


それでも、腕を伸ばす。


前を行くセナの背に、届かせるように。


背中に宿した無数の“声なき名前”たちと共に、泥の中を這うようにして、僕は一歩、また一歩と前に進んだ。



闇が裂けた。

それは、セナの虚還ノ縫ではなかった。

崩れかけた地面に膝をついたまま、スイの背後に――蛇腹剣が、浮かび上がった。


燈祈ノ標。

かつてエナが託した、“祈りのような刃”。

その刃が、今、スイの意思に応えるように、細く長く伸びていく。


スイの両手は震えていた。

立ち上がれない。足が、もう動かない。

けれど――このままでは、誰も守れない。


目の前で私兵たちが刃を構えて迫ってくる。

仮面の奥に感情はなく、命令だけを帯びて動いていた。


スイは、息を詰める。

そして、叫びもせずに、意識だけで刃を振るった。


蛇腹剣が走った。

空気を裂き、壁に突き刺さり、反転し、軌道を捻じ曲げながら、

――ひとり、またひとりと、私兵たちの喉元を切り裂いた。


鋼線のようにしなりながら、肉を断ち、仮面を割り、刃が骨の奥まで届いていく。


鎖と刃が交差するたびに、赤い霧が舞う。

声はなかった。

誰も叫ばなかった。

ただ、断末魔すら拒絶されたように、死体だけが倒れていく。


スイは、なおも動けなかった。

それでも、止めなかった。

刃を振るい続けた。

“使いたくなかった”はずの力を。

“奪いたくなかった”命に、手を伸ばしながら。


――殺さなければ、誰も守れない。

――けれど、殺しても、何も戻ってこない。


胸の奥で、名前を呼ばれなかった魂たちが、微かに震えた。

刃の軌道が歪んだ。

最後の私兵が倒れ込むのと同時に、蛇腹剣の端が石床に突き刺さり、細かく振動した。


スイは、そのまま地に手をついた。

呼吸が荒い。

魂が削られていくのが、はっきりとわかる。


――でも、止まれなかった。


背後で、闇市場が崩れていく。

天井の一部が崩落し、鉄柵が押し潰されていく音が響く。

魂たちの“保管庫”が、音もなく、瓦礫の下に沈んでいく。


「……スイ!」


セナが駆け寄った。

その肩を借りながら、スイはわずかに顔を上げた。

この手は、誰かの命を奪った。

それでも――守るべきものを、手放すわけにはいかなかった。


「……行こう」


その一言に、セナはただ頷いた。

そして二人は、崩れゆく闇の奥から、魂の重さを抱えて、走り出した。




夜だった。

どこかの廃墟。フルメイラの外れ、住人の気配すらない、壊れた石造りの家。

屋根の半分は抜け、壁は苔に覆われ、床には泥が染みていた。


スイはそこに横たえられていた。

意識はある。ただ、身体のどこも自分のものではないようだった。

魂の奥で、子どもたちの名前のない叫びが、かすかに揺れていた。


セナが、肩口にすがりついていた。

マントも服も泥にまみれ、腕には血の跡。

それでも彼女は、震えながら、必死に声を殺していた。


「……ありがとう」


唇だけが、そう動いた。

けれど、言葉はそこで止まった。


長い沈黙のあと、セナがかすれた声で続けた。


「でも……誰も、知らないままだね」


ぽつりと落とされたその声は、ただ、乾いた空気に消えた。


闇の奥で、誰かが泣いたような気がした。

けれどそれは、風の音だったかもしれない。

あるいは、スイの胸の奥で、名を呼ばれなかった魂たちが流した、音にならない涙だったのかもしれない。


スイは、何も言わなかった。

目を閉じたまま、魂の重さを抱えて、静かに夜を受け入れていた。

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