第33話: 声なき名前たちへ
見つけたのに、名前が呼べない。
目の前にあるのに、声が届かない。
触れられるのに、もう――遅い。
地下市場の奥。
黒布に覆われた小さな広場のような空間で、競りが始まっていた。
買い手たちは、それぞれの私兵に守られながら、黒いローブに身を包んでいる。
顔は影に沈み、誰一人として名を名乗らない。
中央の台座には、魂武器が並べられていた。
細身の杖、刃の折れた剣、砕けた盾。
どれも、「もう使えない」と判断された破損品ばかり。
だが、彼らにとってそれは関係なかった。
“成分”が残っていればいい。
“抜き取れる構造”があればいい。
“個性”など最初から不要だった。
「R-216、開始価格十五金貨から」
「二十」
「二十五」
「二十八金貨で落札」
無表情な競り主が、次々と数字を読み上げていく。
魂のこもった声など、一度も存在しなかった。
「N-103、構造やや不安定。装飾なし。十金貨」
「十一」
「十二」
「十四金貨。落札者、ギルザ商会」
ただの取引だった。
名もなく、声もなく、意味もない。
あの日、確かに存在していた子どもたちが、
今、数字で競り合わされ、無表情な手に渡っていく。
「リィナ……」
喉元までこみあげた名前を、僕は飲み込んだ。
声にしたら、全てが崩れる気がした。
名前を呼べば、この場が“現実”になってしまう気がした。
セナが隣で震えていた。
虚還ノ縫の柄が、かすかに軋む音を立てている。
でも、抜いてはいけなかった。
ここで振るえば、魂まで叩き潰される。
「センコンノヤリ、状態不良あり、六金貨から」
それは、トアだった。
あのまっすぐな子の、祈りのような意思を象った長槍。
今、それが「不良在庫」として、投げ売りされている。
「七」
「九」
「九金貨、落札」
誰かの掌に渡される。
それはもう、武器でも、子どもでもなかった。
(――呼べない。呼んでしまえば、“終わる”)
僕は奥歯を噛みしめた。
視界がかすむ。
手のひらが、震えていた。
けれど、心の奥で、確かに声がした。
あの日、名前を呼ばれた時の声。
あの夜、最後に交わした言葉。
(……守らなきゃいけない。
……名前が消える前に――)
けれど今はまだ、その時ではなかった。
もう少しだけ、牙を隠していなければ。
セナが、小さく呟いた。
「……誰も、呼ばないんだね」
僕は、頷けなかった。
それが、この世界の“正しさ”だからだ。
競りは、続いていた。
名も、祈りもないままに。
壊された魂たちが、次々と“処理”されていく。
冷えた空気の中で、誰一人、泣くことはなかった。
そして、次に呼ばれた番号は――
「X-017、状態極小、鎌形、使用歴不明。五金貨から」
虚還ノ縫が、ひときわ鋭く震えた。
終わりが、近づいていた。
*
破壊するのは、簡単だった。
この場所を焼き払えば、何もかもが終わる。
競売も、商品も、名前を奪った仕組みも――すべて、壊せる。
けれど、それでは“救えない”。
ただ焼くだけでは、声は戻らない。
名を呼ばれなかった子たちは、そのまま灰になるだけだ。
僕は、セナの手を取った。
彼女の虚還ノ縫が、今にも暴れ出しそうに脈動していた。
けれど、その力を振るえば、ここにある“全て”が消えてしまう。
魂まで、二度と戻らない場所に沈む。
「壊さない」
僕は、静かに言った。
セナが目を見開いた。
「……じゃあ、どうするの……?」
言葉は、出なかった。
その代わり、僕はゆっくりと歩いた。
棚の奥へ。
まだ競りにかけられていない、名も与えられない魂武器たちの前へ。
手を伸ばす。
一つ、短剣を。
もう一つ、砕けた弓を。
掌が、それを“呑み込もうとする”のがわかった。
僕の力が、いつものように反応していた。
魂を刃にし、自分の中で武器化するために。
でも、僕は拒んだ。
違う。これは、戦うためじゃない。
これは、“覚えておく”ためのものだ。
魂たちは、最初は戸惑っていた。
けれど、僕の中に入った途端――沈黙した。
誰も、声を上げない。
誰も、姿を現さない。
ただ、ひとつの場所に眠るように、そっと、僕の奥に身を寄せた。
“安置”。
戦わせることも、形にすることもなく、
ただ、そこに“いさせてあげる”だけの場所。
それが、僕にできる、唯一の“救い”だった。
一振り、また一振り。
僕は、黙々と手を伸ばし続けた。
焼かれた片手剣。
砕かれた大盾。
失われた大鎌。
指先で触れるたび、胸の奥に深く沈んでいく。
魂たちは、どれも――優しかった。
泣き声もあげず、ただ、静かに僕の中に身を預けた。
「……なんで、そんなこと……」
セナの声が、かすかに滲んだ。
彼女は、もう立っていられなかった。
膝をつき、ただ見つめていた。
「そんなことして……スイ、壊れちゃう……」
僕は、答えなかった。
代わりに、最後の一振りを手に取った。
それは、リィナの“響奏ノ細剣”の柄だった。
刃はもう折れていた。けれど――音が、かすかに響いていた。
僕の中に、それをしまう。
その瞬間――
胸の奥で、音が割れた。
まるで、氷にヒビが入るような感覚。
けれど、それは外側じゃなかった。
僕の魂そのものに、亀裂が走ったのだとすぐに分かった。
息が、止まった。
内側から、引き裂かれるような痛み。
視界が白く染まり、音が遠ざかる。
けれど、僕は倒れなかった。
まだ、終わってない。
まだ――全員、迎えてない。
魂を、武器として使うのではない。
魂を、名前のないまま殺すことでもない。
ただ、“ここにいた”という証を、
誰にも消されないように、抱きしめていく。
それが、僕の選んだ戦い方だった。
僕は、振り返った。
セナが、泣いていた。声もなく、ただ、涙だけを流していた。
彼女の目は、僕の胸の奥を見ていた。
そこに、“誰か”がいることを、確かに感じ取っていた。
僕は頷いた。
そして、声には出さずに、誓った。
――君たちはもう、売られない。
――もう、捨てられない。
――もう、“忘れられない”。
それだけを、胸に刻んだ。
そして、僕は、立ち上がった。
魂たちを抱えたまま。
声なき名前たちを、胸に刻みながら。
戦わず、ただ歩く。
名を守るために。
それが、僕の唯一の“刃”だった。
*
「……何をしている?」
その声が響いたとき、空気が、変わった。
倉庫の奥。封鎖された通路の向こう。
金属の扉を開けて現れた男がひとり。
黒革の外套、金の縁取り。
顔は笑っている。けれど、目だけが笑っていなかった。
「これは“展示品”だ。勝手に触るな」
彼の背後には、数人の私兵。
仮面をつけ、無言で武器を構えている。
無音の警告。
そして――殺意。
「……返してもらおうか。商品を」
男が手を伸ばす。
スイは、それを見ていた。
黙って、セナの前に立つ。
胸の奥に沈んでいる“子どもたち”が、微かに震える。
「これが、“商品”?」
その言葉を、喉の奥で噛み砕く。
魂が削られていく感覚のまま、
ただ、目の前のその男を見た。
「返せと言うのか。
“名前”を剥がして、壊して、売ったその手で――まだ、返せと言うのか……?」
男は笑った。
「名前? そんなものは、最初から“価値”がない。
大事なのは、力だ。用途だ。お前の中にあるそれも、“使う”なら許そう。
だが、しまっておくなら――それは“無駄”だ」
スイの唇が、わずかに震えた。
魂が、中で軋む。
「……無駄?」
「無駄だとも。
用途を与えられず、価値もなく、ただ“存在しているだけ”のものに、意味などない。
それが、ここの掟だ」
その言葉に、何かが切れた。
スイは、目を見開いた。
セナが、息を呑んだ。
虚還ノ縫が、微かに軋んだ。
スイの胸の奥から、声が出た。
喉を裂くような、
肺を潰すような、
魂を叩き割るような、
そんな声が。
「名前を――奪うな!!」
空間が、揺れた。
空気が割れた。
魂たちが、奥で一斉に震えた。
棚に封じられていた残骸たちが、
微かに、ひとつずつ――音もなく共鳴する。
名前を呼ばれなかった魂たちが、
その声に、静かに反応していた。
男は目を細めた。
嘲笑の影が、その口元に浮かぶ。
「――愚かだな」
刹那、私兵たちが動いた。
刃が抜かれ、足音が滑る。
だが――
スイは、戦わなかった。
ただ、セナの手を取り、声を低く言った。
「逃げるよ。今は、守らなきゃいけないものがある」
セナは、頷いた。
その目に、迷いはなかった。
魂を斬るためじゃない。
魂を守るために、僕は立つ。
名前を、奪わせない。
もう二度と、誰にも――
刃を抜かずに、
スイは駆けた。
沈黙の魂たちを胸に抱き、
その全てを“存在ごと”連れて、
闇の中を、振り返らずに走った。
背後で怒声が響く。
金属音が鳴り、闇市場がざわつく。
けれど、そのすべてが、もう遠くにあった。
「名前を――絶対に、渡さない」
スイは、何度も呟いた。
それは、誓いだった。
魂に刻む、決して消せない祈りだった。
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