風と、名前と、忘れられないもの:2

リールの朝は、空気が澄んでいて、風がやさしい。


いつもより少しだけ早く目が覚めた僕は、裏庭へと足を向けた。

陽が昇ったばかりの空の下、濡れた芝が足裏にやわらかく触れてくる。


まだ誰も起きていないかと思ったけれど、そうでもなかった。


「おはよう、スイくん!」


元気な声が響いた。

振り向くと、小柄な女の子がシーツを抱えてこちらへ駆けてくる。


濃い赤茶の髪をポニーテールに束ねた彼女の名前は、ティナ。

年は十歳。たぶんこの孤児院では下から数えたほうが早い。


「おはよう、ティナちゃん。……早いね」


「うんっ! 今日は私、当番だから! お姉ちゃんに言われてね!」


そう言って洗濯かごの中からもう一枚シーツを引っ張り出すと、

彼女はニヤリと笑って言った。


「ねぇスイくん、物干しまで、競争しよっか!」


「……えっ、シーツ持って?」


「もちろんっ! よーい、どんっ!」


掛け声と同時に、ティナは容赦なく駆け出した。


「ちょ、ちょっと待ってってば!」


僕も笑いながら、彼女の後を追いかける。

朝の光が落ちる芝生の上、ふたり分の影が弾んだ。


物干しの下では、背の高い少年が脚立に立って洗濯ばさみを器用に扱っていた。


色の薄い髪と、少しだけ伏せがちな目。

あまり多くは喋らないけれど、いつもまわりをよく見ている子――リクだった。


ティナが大声で叫ぶ。


「おーい、リクー! 今日は私がスイくんとシーツ干すからねっ!」


「はいはい、どうぞどうぞ」


脚立の上から静かに返して、リクが僕に向き直った。


「おはよう、スイくん。……なんだか、昨日より元気そうだね」


「うん。なんだか、今日はよく眠れたんだ」


「そっか。四日目くらいになると、体も慣れてくるのかもね」


「リクくんって、今いくつだっけ?」


「13だよ。……ティナよりはだいぶ上だけど、スイくんより下、ってところかな?」


「僕は16。3つ下か……でも、しっかりしてるよね」


「……よく言われる」


そう答えて、リクはほんの少しだけ口元を緩めた。


「スイくん! 見てて! シャツ干すの得意なんだよー!」


ティナが自信たっぷりに濡れたシャツを手に取り、勢いよく振る。

水しぶきが空に飛んで、リクが思わず身を引いた。


「うわ、ちょっと、飛ばさないで……」


「だってスイくんのシャツ重いんだもーん!」


「……それ、僕の?」


「たぶん! たぶんスイくんの!」


まるで悪気のない笑顔に、僕も苦笑いしか出てこなかった。


「ねーねー、昨日さ。セナお姉ちゃんに“スイくんありがとう”って言われてたでしょ?」


「……ああ、うん。ちょっとしたこと、手伝っただけだよ」


「でもー、顔がちょっと照れてたー!」


「そ、そんなことないって……」


はしゃぐティナを横目に、リクがぽつりと呟いた。


「でも、名前を呼ばれるって、悪くないよね。

……ちゃんと、誰かが“ここにいる”って思ってくれてるみたいで」


その言葉に、僕はふと、何も言えなくなった。


ティナが、小さな手で洗濯ばさみと格闘していた。

でもうまく留まらないようで、何度も滑ってシャツが落ちそうになる。


僕はそっと彼女の隣に並んで、声をかけた。


「貸して。……ここ、こうするといいよ」


「わっ、ありがとう!」


小さな指が僕の手に触れて、

パチン、と音を立ててシャツが風に揺れる。


「やったー! ね、スイくんって、やさしい!」


「……そうかな」


僕は、久しぶりに、人とちゃんと“触れ合っている”気がした。


名前を呼ばれて、名前を返して、

誰かと笑い合って、少しだけ助け合って、

風の下で一緒に並んでいる。


ただそれだけのことが、

どうして、こんなにもあたたかいんだろう。


……もしかしたら、僕は。


この場所で、少しずつ――

“居場所”というものに、触れはじめているのかもしれない。



「風、気持ちいいね……スイくん」


背後からそっと声がかかる。


振り返ると、洗濯籠を抱えたセナが、僕の数歩後ろに立っていた。

濃いグリーンアッシュの髪が、風に乗って揺れる。

陽の光がその輪郭を透かして、まるで空気ごと柔らかくなるようだった。


「……うん。気持ちいいね」


短く答えると、セナはふわりと笑った。


その笑顔を見ていると、どうしてか胸の奥がそっと温かくなった気がする。

なのに、言葉がうまく続かなかった。


その空気を感じ取ったのか、近くにいたリクが声を上げた。


「スイくん、行ってきたら?」


「……え?」


「セナお姉ちゃんが来たのに、シーツ干しで足止めしてるのも、なんか変だしさ」


「でも、まだ……」


僕が言いかけると、リクはいつもの調子でふっと肩をすくめて、


「あと、やっとくから」


短く、でも確かな声。


その言い方が、どこか大人びて聞こえて、

思わず、僕は小さく息をついた。


「……ありがと」


そう言って、僕は洗濯かごをティナに預け、

セナの方へとゆっくりと歩き出す。


セナはなにも言わずに、

ただ軽く手を差し出した。


その手を取ると、彼女は僕を引いて歩き出す。

ためらいも、戸惑いもなく。


孤児院の裏手から、少しだけ登った小さな丘の上。

そこは、背の高い一本の木がぽつんと立つ場所だった。


枝が大きく広がっていて、木陰はちょうど二人が座れるくらいの広さ。

風が葉を揺らす音が、ざわざわと耳に優しい。


草の匂い、陽の匂い。

ここに来るのは初めてなのに、どこか懐かしい気配がした。


セナが木の根元に腰を下ろし、

その隣に、僕も静かに座る。


風がふたりの間を通りすぎて、

少しだけ、空の音が近く感じた。


しばらくの沈黙のあと。

セナがぽつりと口を開く。


「……ねぇ、スイくん」


「うん?」


「“忘れたい記憶”って……ある?」


風に乗るように、やさしく落とされた問いかけ。


僕は、その意味をすぐには掴めなかった。

けれど、セナの声がどこか遠くを見ているように思えて――

胸の奥が、すこしだけ軋んだ。


「……あるかもしれない」


答えた僕の声は、思っていたよりも静かだった。


「でも、忘れたくない記憶の方が……多いかも」


セナはそっと僕の方を見た。

その目は、エメラルドグリーンの湖のように揺れていた。


「そっか……」


ただ、それだけ。


肯定も、否定もしない。

セナはただ、そこにある風のように、僕の答えを受け取った。


「スイくんってさ、時々すごく……遠い目をしてるときがあるよね」


「……そう?」


「うん。たぶんね。なんとなく……そう見えるの」


セナの声は笑っているのに、どこか、ひとりで寒さを抱えているような響きがあった。


僕は何も言えなかった。

ただ、風に揺れる彼女の髪を見ていた。


……この人は、きっと。


僕なんかより、ずっと誰かの“痛み”に寄り添える人だ。

それなのに――そんな人が、どうして“忘れたい記憶”なんて言葉を口にするんだろう。


けれど、それを訊くことはできなかった。


空を見上げると、

雲のない空が、どこまでも高く広がっていた。


セナは、木の葉越しにその空を見上げながら、

誰にも聞こえないような小さな声で、こう言った。


「……忘れられないのと、忘れちゃいけないのって、違うんだよね」


その言葉の意味を、僕はまだ知らなかった。


でも――

心の奥で、何かが静かに揺れた。


丘の上の木陰で、僕たちはしばらく、何も言わずに風の音を聞いていた。


言葉がなくても、そこにあったのは、確かに“ぬくもり”だった。


まだ踏み込めない記憶。

けれど、隣にいる誰かの存在が、それをそっと包んでくれるような――

そんな時間だった。

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