風と、名前と、忘れられないもの:2
リールの朝は、空気が澄んでいて、風がやさしい。
いつもより少しだけ早く目が覚めた僕は、裏庭へと足を向けた。
陽が昇ったばかりの空の下、濡れた芝が足裏にやわらかく触れてくる。
まだ誰も起きていないかと思ったけれど、そうでもなかった。
「おはよう、スイくん!」
元気な声が響いた。
振り向くと、小柄な女の子がシーツを抱えてこちらへ駆けてくる。
濃い赤茶の髪をポニーテールに束ねた彼女の名前は、ティナ。
年は十歳。たぶんこの孤児院では下から数えたほうが早い。
「おはよう、ティナちゃん。……早いね」
「うんっ! 今日は私、当番だから! お姉ちゃんに言われてね!」
そう言って洗濯かごの中からもう一枚シーツを引っ張り出すと、
彼女はニヤリと笑って言った。
「ねぇスイくん、物干しまで、競争しよっか!」
「……えっ、シーツ持って?」
「もちろんっ! よーい、どんっ!」
掛け声と同時に、ティナは容赦なく駆け出した。
「ちょ、ちょっと待ってってば!」
僕も笑いながら、彼女の後を追いかける。
朝の光が落ちる芝生の上、ふたり分の影が弾んだ。
*
物干しの下では、背の高い少年が脚立に立って洗濯ばさみを器用に扱っていた。
色の薄い髪と、少しだけ伏せがちな目。
あまり多くは喋らないけれど、いつもまわりをよく見ている子――リクだった。
ティナが大声で叫ぶ。
「おーい、リクー! 今日は私がスイくんとシーツ干すからねっ!」
「はいはい、どうぞどうぞ」
脚立の上から静かに返して、リクが僕に向き直った。
「おはよう、スイくん。……なんだか、昨日より元気そうだね」
「うん。なんだか、今日はよく眠れたんだ」
「そっか。四日目くらいになると、体も慣れてくるのかもね」
「リクくんって、今いくつだっけ?」
「13だよ。……ティナよりはだいぶ上だけど、スイくんより下、ってところかな?」
「僕は16。3つ下か……でも、しっかりしてるよね」
「……よく言われる」
そう答えて、リクはほんの少しだけ口元を緩めた。
*
「スイくん! 見てて! シャツ干すの得意なんだよー!」
ティナが自信たっぷりに濡れたシャツを手に取り、勢いよく振る。
水しぶきが空に飛んで、リクが思わず身を引いた。
「うわ、ちょっと、飛ばさないで……」
「だってスイくんのシャツ重いんだもーん!」
「……それ、僕の?」
「たぶん! たぶんスイくんの!」
まるで悪気のない笑顔に、僕も苦笑いしか出てこなかった。
「ねーねー、昨日さ。セナお姉ちゃんに“スイくんありがとう”って言われてたでしょ?」
「……ああ、うん。ちょっとしたこと、手伝っただけだよ」
「でもー、顔がちょっと照れてたー!」
「そ、そんなことないって……」
はしゃぐティナを横目に、リクがぽつりと呟いた。
「でも、名前を呼ばれるって、悪くないよね。
……ちゃんと、誰かが“ここにいる”って思ってくれてるみたいで」
その言葉に、僕はふと、何も言えなくなった。
*
ティナが、小さな手で洗濯ばさみと格闘していた。
でもうまく留まらないようで、何度も滑ってシャツが落ちそうになる。
僕はそっと彼女の隣に並んで、声をかけた。
「貸して。……ここ、こうするといいよ」
「わっ、ありがとう!」
小さな指が僕の手に触れて、
パチン、と音を立ててシャツが風に揺れる。
「やったー! ね、スイくんって、やさしい!」
「……そうかな」
僕は、久しぶりに、人とちゃんと“触れ合っている”気がした。
名前を呼ばれて、名前を返して、
誰かと笑い合って、少しだけ助け合って、
風の下で一緒に並んでいる。
ただそれだけのことが、
どうして、こんなにもあたたかいんだろう。
……もしかしたら、僕は。
この場所で、少しずつ――
“居場所”というものに、触れはじめているのかもしれない。
*
「風、気持ちいいね……スイくん」
背後からそっと声がかかる。
振り返ると、洗濯籠を抱えたセナが、僕の数歩後ろに立っていた。
濃いグリーンアッシュの髪が、風に乗って揺れる。
陽の光がその輪郭を透かして、まるで空気ごと柔らかくなるようだった。
「……うん。気持ちいいね」
短く答えると、セナはふわりと笑った。
その笑顔を見ていると、どうしてか胸の奥がそっと温かくなった気がする。
なのに、言葉がうまく続かなかった。
その空気を感じ取ったのか、近くにいたリクが声を上げた。
「スイくん、行ってきたら?」
「……え?」
「セナお姉ちゃんが来たのに、シーツ干しで足止めしてるのも、なんか変だしさ」
「でも、まだ……」
僕が言いかけると、リクはいつもの調子でふっと肩をすくめて、
「あと、やっとくから」
短く、でも確かな声。
その言い方が、どこか大人びて聞こえて、
思わず、僕は小さく息をついた。
「……ありがと」
そう言って、僕は洗濯かごをティナに預け、
セナの方へとゆっくりと歩き出す。
セナはなにも言わずに、
ただ軽く手を差し出した。
その手を取ると、彼女は僕を引いて歩き出す。
ためらいも、戸惑いもなく。
*
孤児院の裏手から、少しだけ登った小さな丘の上。
そこは、背の高い一本の木がぽつんと立つ場所だった。
枝が大きく広がっていて、木陰はちょうど二人が座れるくらいの広さ。
風が葉を揺らす音が、ざわざわと耳に優しい。
草の匂い、陽の匂い。
ここに来るのは初めてなのに、どこか懐かしい気配がした。
セナが木の根元に腰を下ろし、
その隣に、僕も静かに座る。
風がふたりの間を通りすぎて、
少しだけ、空の音が近く感じた。
しばらくの沈黙のあと。
セナがぽつりと口を開く。
「……ねぇ、スイくん」
「うん?」
「“忘れたい記憶”って……ある?」
風に乗るように、やさしく落とされた問いかけ。
僕は、その意味をすぐには掴めなかった。
けれど、セナの声がどこか遠くを見ているように思えて――
胸の奥が、すこしだけ軋んだ。
「……あるかもしれない」
答えた僕の声は、思っていたよりも静かだった。
「でも、忘れたくない記憶の方が……多いかも」
セナはそっと僕の方を見た。
その目は、エメラルドグリーンの湖のように揺れていた。
「そっか……」
ただ、それだけ。
肯定も、否定もしない。
セナはただ、そこにある風のように、僕の答えを受け取った。
「スイくんってさ、時々すごく……遠い目をしてるときがあるよね」
「……そう?」
「うん。たぶんね。なんとなく……そう見えるの」
セナの声は笑っているのに、どこか、ひとりで寒さを抱えているような響きがあった。
僕は何も言えなかった。
ただ、風に揺れる彼女の髪を見ていた。
……この人は、きっと。
僕なんかより、ずっと誰かの“痛み”に寄り添える人だ。
それなのに――そんな人が、どうして“忘れたい記憶”なんて言葉を口にするんだろう。
けれど、それを訊くことはできなかった。
空を見上げると、
雲のない空が、どこまでも高く広がっていた。
セナは、木の葉越しにその空を見上げながら、
誰にも聞こえないような小さな声で、こう言った。
「……忘れられないのと、忘れちゃいけないのって、違うんだよね」
その言葉の意味を、僕はまだ知らなかった。
でも――
心の奥で、何かが静かに揺れた。
丘の上の木陰で、僕たちはしばらく、何も言わずに風の音を聞いていた。
言葉がなくても、そこにあったのは、確かに“ぬくもり”だった。
まだ踏み込めない記憶。
けれど、隣にいる誰かの存在が、それをそっと包んでくれるような――
そんな時間だった。
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