第3話: 縫い留められた名前

夜は、静かだった。

虫の声も、風の揺らぎも、まるで遠い記憶の中で鳴っているように思える。


僕は、ふと目を覚ました。


眠りが浅かったわけじゃない。

寒かったわけでも、悪い夢を見たわけでもない。


ただ――

何かが呼んでいる気がした。


そんなはずはないのに。

でも、確かに胸の奥が、なにかに触れられたような感覚を覚えていた。


薄手の毛布を肩から滑らせ、そっと体を起こす。

同室の子たちは、静かな寝息を立てている。


僕は音を立てないようにベッドを抜け出し、廊下へと出た。

木の床はひんやりしていて、足裏がわずかに冷たい。


(……眠れない、わけじゃない。だけど……)


どこか、胸がざわついていた。


窓の外を見ると、中庭の隅にぽつんと明かりが灯っていた。

あたたかい橙色のランプの光が、風に揺れている。


誰かがいる――そう思った瞬間、

僕の足は、自然とそちらへ向かっていた。


ドアを開け、夜の空気が頬をなでる。


風がやさしかった。

けれど、どこか“寂しさ”を運んでくる風だった。


そしてその中に、ひとつだけ背中が見えた。


小さなランプの光のそばに、

椅子に腰掛けて、うつむいて針を動かしている――セナの姿だった。


僕は声をかけるタイミングを迷った。

その指先が、あまりにも静かに、丁寧に糸をすくっていたから。


でも、その迷いは必要なかった。


「……スイくん、やっぱり来た」


顔も見ずに、セナがそう言った。


「えっ……どうして」


彼女は、ゆっくりと針を置いて、

それからランプの灯りの向こうで、微笑んだ。


「なんとなく……そんな気がしてたの。スイくん、今夜は来るって」


その言葉に、胸の奥がふっと揺れた。


誰かに“待たれていた”ということが、

こんなにもあたたかく感じるなんて。


僕はセナの向かいに腰を下ろした。

夜の空気が、二人の間をそっと流れていく。


まだ言葉は少ないけれど、

この時間は、確かに“僕たちのもの”だった。



「……なに、してたの?」


静かに腰を下ろしながら訊くと、セナは膝の上の布を両手で整えた。


「刺繍。……今、みんなの名前を少しずつ縫ってるの」


布の端には、小さな丸い模様が連なっていた。

そのひとつひとつに、丁寧な文字で名前が刺されている。


リク、ティナ、ユマ……見覚えのある子たちの名前が並んでいて、

その隣に、まだ針を通していないスペースがひとつだけ、ぽつんと空いていた。


「これ……孤児院の子たち?」


「うん。なんとなく、作りたくなって」

セナは言いながら、そっと指で糸を撫でた。


「名前ってさ、呼ばれたら嬉しいだけじゃなくて……

誰かのことを想いながら“縫う”って、それだけでもすごく、あたたかいの」


その言葉に、僕はふっと目を伏せた。


風が髪を揺らす。

夜の中なのに、彼女の声にはちゃんと“陽だまり”があった。


「……すごいね。細かいし、きれいだ」


「ありがとう。でも、まだ半分も終わってないんだ」


セナは苦笑しながら、布を少しだけ持ち上げた。


「このまま完成したら、額に入れて食堂に飾るのが目標」


「目標って……」


「ちっちゃいでしょ?」


そう言って、くすくすと笑うセナの笑顔に、僕は少しだけ胸を撫で下ろした。

……ほんとうに、この人は、あたたかい。


「……ねぇ、セナ」


「なぁに?」


「なんで……そんなに、名前にこだわるの?」


僕の問いに、セナはしばらく黙ったまま布を見つめていた。


けれど、やがてぽつりと呟くように答えた。


「……うまく言えないけどね」

「誰かの名前を刺すときって、なんだかその人の“輪郭”をもう一度なぞってる気がするの」


「輪郭?」


「うん。その人の声とか、歩き方とか、笑い方とか――そういうの、全部ふっと思い出すの。

それをひと針ひと針、布に留めてる感じ。……だから、なんとなく、忘れたくなくて」


それは、“祈り”にも似た言葉だった。


誰かを“記憶する”ために名前を縫うなんて、

僕は一度も考えたことがなかった。


けれど、彼女の指先が描く刺繍の軌跡には、確かに“優しさ”が宿っていた。


「スイくんの分もね、ちゃんと縫うつもりだったんだよ」


セナはふっと視線を下げ、少し照れたように笑った。


「でも、まだうまくいかなくて。……なんでだろうね」


「え?」


「たぶん……スイくんの名前って、まだこの場所に“ちゃんと馴染んでない”からかも」


彼女の言葉に、僕は思わず息を呑んだ。


“馴染んでない”――

その響きが、心のどこかに、柔らかく刺さった。


「ごめんね、変な言い方だったかな」


「……ううん、そうじゃない」


僕はかぶりを振った。


むしろそれは、今の自分にぴったりな言葉だった。


まだここに来て日が浅い。

自分という存在が、この世界に溶けきっていない。

だからこそ、名前さえも“布に縫い止められない”。


それは、どこか納得のいく感覚だった。


「……完成したら、ちゃんと渡すね」


「……うん。待ってる」


目が合った瞬間、

セナはまた、あの“受け止めるようなまなざし”で僕を見つめていた。


その目を見ていると、

言葉以上のものが伝わってくる気がした。


しばらくして、セナがふと目を伏せる。


「スイくん、時々ね――

すごく、遠くを見てるみたいな目をしてる」


「……そう?」


「うん。笑ってるときも、どこか“過去の何か”に触れてるみたいな……そんな感じ」


胸が、静かに疼いた。


「……それって、そんなに変?」


「変じゃないよ。でも――」


セナはゆっくりと、膝の上の布を閉じながら言った。


「……もしスイくんが、忘れたいことがあるなら。

それを抱えたままでも、ここにいていいんだって思ってほしいな」


その言葉に、僕は答えられなかった。

でも、心の奥のどこかが、静かにほどけていくのを感じた。


「おやすみなさい、スイくん」


セナが立ち上がり、そっと布を抱えながら微笑む。

そのまま背を向けて歩き出す――けれど、

数歩だけ進んだあと、ふと振り返って。


「……スイくん」


「うん?」


「……いい名前だよ」


それだけ言って、彼女は背を向けたまま、夜の廊下へと消えていった。


夜風が、そっと頬をなでていく。


どこかで誰かに、名前を呼ばれること。


それがこんなにも、あたたかいものだと――

僕は、この夜、はじめて知った気がした。

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