名前を呼ばれた日:4
数時間後の午後。
僕は、がたがたと揺れる馬車の中にいた。
粗末な木の座面。軋む車輪。干からびた藁の匂い。
窓と呼べるほどの開口部から、かろうじて外の景色が見えた。
神官たちは、何も説明してくれなかった。
ただ、「辺境の保護施設へ移送する」とだけ。
“保護”――
そう言えば聞こえはいいけれど。
(……結局、“処分”と同じだ)
神の審判にすら見放された魂。
何の役割も持たず、誰にも求められない存在。
その“余り物”を、とりあえず片隅にまとめておく――
きっと、それがこの“移送”の意味なのだろう。
車窓の外では、緑が揺れていた。
深い森と、ひくい丘陵。
その向こうに、雲の切れ間から金のような陽が差し込んでいた。
静かな風景だった。
でも、心の中には、何もなかった。
ただ、空っぽな体が揺られているだけ。
……それでも。
ほんの、ひとかけらだけ――
まだ、願ってしまっている自分がいた。
(もう一度……誰かに、名前を呼ばれたい)
それは、あの病室で生まれた小さな願い。
たった一度だけ僕を見てくれた、あの声。
――“スイくん”と呼んでくれた、あの温もり。
あの声に、もう一度、会えたなら。
名を呼ばれることに、もう一度意味を感じられるなら。
……それだけで、いいと思った。
*
馬車が止まったのは、日が傾きかけた頃だった。
車輪が土の上で最後のひと鳴きのように軋み、神官が無言で荷台を開けた。
案内もなく、ただ扉の向こうへと促される。
僕は重い腰を上げ、外へ足を踏み出した。
空気が、違った。
冷たくはないけれど、どこか澄んでいて、静かな匂いがした。
目の前には、小さな石造りの門。
その奥に、木造の屋根と白壁の建物がいくつか並んでいた。
保護施設――リール孤児院。
門の手前で、誰かがこちらを見ていた。
風が、そよぐ。
草を揺らし、ひとりの少女の髪をやさしく撫でた。
彼女は、僕と同じくらいの年頃に見えた。
細くて、背筋のまっすぐな子だった。
色素の淡い瞳が、静かにこちらを見つめている。
その眼差しに、怯えも、好奇心もなかった。
ただ――確かに、僕を“見て”いた。
そして、まっすぐに言った。
「こんにちは。……君の、名前は?」
その瞬間、時間が止まったような気がした。
風の音も、陽の匂いも、足元の土の感触も――
全部、遠ざかっていった。
ただ、あの声だけが、鼓膜の奥に残った。
“君の、名前は?”
……聞いたことがある。
そう思った。
でも、思い出せない。
夢の中で、誰かに手を引かれたときの声。
名前を呼ばれて、立ち止まった記憶。
過去か、願いか、幻か――
どこにも確証はなかったけれど、僕は確かに思った。
(……この声を、知っている)
少女は、静かに微笑んでいた。
その瞳は、やさしく僕の輪郭をなぞるように、存在を確かめていた。
(……ここで、また名前を呼ばれるんだ)
そう思っただけで、胸の奥が、熱くなった。
言葉はすぐには出てこなかったけれど、僕は、確かに――頷いた。
それが、この世界で。
僕がもう一度、“名前を呼ばれる”物語の、最初の一歩だった。
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