名前を呼ばれた日:4

数時間後の午後。


僕は、がたがたと揺れる馬車の中にいた。


 


粗末な木の座面。軋む車輪。干からびた藁の匂い。


窓と呼べるほどの開口部から、かろうじて外の景色が見えた。


 


神官たちは、何も説明してくれなかった。


ただ、「辺境の保護施設へ移送する」とだけ。


 


“保護”――

そう言えば聞こえはいいけれど。


 


(……結局、“処分”と同じだ)


 


神の審判にすら見放された魂。


何の役割も持たず、誰にも求められない存在。


 


その“余り物”を、とりあえず片隅にまとめておく――

きっと、それがこの“移送”の意味なのだろう。


 


車窓の外では、緑が揺れていた。


深い森と、ひくい丘陵。

その向こうに、雲の切れ間から金のような陽が差し込んでいた。


 


静かな風景だった。


でも、心の中には、何もなかった。


ただ、空っぽな体が揺られているだけ。


 


……それでも。


 


ほんの、ひとかけらだけ――


 


まだ、願ってしまっている自分がいた。


 


(もう一度……誰かに、名前を呼ばれたい)


 


それは、あの病室で生まれた小さな願い。


たった一度だけ僕を見てくれた、あの声。


――“スイくん”と呼んでくれた、あの温もり。


 


あの声に、もう一度、会えたなら。


名を呼ばれることに、もう一度意味を感じられるなら。


 


……それだけで、いいと思った。


 


 



 


馬車が止まったのは、日が傾きかけた頃だった。


 


車輪が土の上で最後のひと鳴きのように軋み、神官が無言で荷台を開けた。


案内もなく、ただ扉の向こうへと促される。


 


僕は重い腰を上げ、外へ足を踏み出した。


 


空気が、違った。


 


冷たくはないけれど、どこか澄んでいて、静かな匂いがした。


目の前には、小さな石造りの門。


その奥に、木造の屋根と白壁の建物がいくつか並んでいた。


 


保護施設――リール孤児院。


 


門の手前で、誰かがこちらを見ていた。


 


風が、そよぐ。


草を揺らし、ひとりの少女の髪をやさしく撫でた。


 


彼女は、僕と同じくらいの年頃に見えた。


細くて、背筋のまっすぐな子だった。


色素の淡い瞳が、静かにこちらを見つめている。


 


その眼差しに、怯えも、好奇心もなかった。


ただ――確かに、僕を“見て”いた。


 


そして、まっすぐに言った。


 


 


「こんにちは。……君の、名前は?」


 


 


その瞬間、時間が止まったような気がした。


 


風の音も、陽の匂いも、足元の土の感触も――


全部、遠ざかっていった。


 


ただ、あの声だけが、鼓膜の奥に残った。


 


“君の、名前は?”


 


 


……聞いたことがある。


 


そう思った。


でも、思い出せない。


 


夢の中で、誰かに手を引かれたときの声。


名前を呼ばれて、立ち止まった記憶。


 


過去か、願いか、幻か――


どこにも確証はなかったけれど、僕は確かに思った。


 


(……この声を、知っている)


 


少女は、静かに微笑んでいた。


その瞳は、やさしく僕の輪郭をなぞるように、存在を確かめていた。


 


(……ここで、また名前を呼ばれるんだ)


 


そう思っただけで、胸の奥が、熱くなった。


 


言葉はすぐには出てこなかったけれど、僕は、確かに――頷いた。


 


それが、この世界で。


僕がもう一度、“名前を呼ばれる”物語の、最初の一歩だった。

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