第1話

「テネ……くん……ごめんね。私、また……勝手に……」


 血の気を失った唇が、かすかに震える。アイリス・セラフィム・ルクス。その小さな身体を、テネシア・バレンタインはしっかりと腕に抱いていた。


「いいんだ……何も謝ることなんてない……」


 彼女の声は、空気に溶けるように薄く、壊れそうだった。

 テネシアは何度も回復魔法を唱えた。けれど、どんなに魔力を注いでも、その傷は塞がらない。まるで世界が、彼女の命を救うことを拒んでいるかのようだった。


「私……ね……」


 手が震える。心臓が痛い。彼女の命の灯が、今まさに消えかけている。


「治せる。絶対に助ける。だから……お願いだから、目を閉じるな。頼むから……!」


 アイリスの指先が、そっと彼の頬に触れた。まるで風が通り過ぎるような、儚い温もりだった。


「ずっと……一緒にいたかった、のに……」


 その言葉を最後に、彼女の手は力を失い、重力に従って垂れ落ちた。もう二度と、自分の意志では動かない――命を失った人形のように。


「ア……イリス……」


 テネシアの視界が滲む。胸の奥に、何かが崩れる音がした。心の奥底に巣食っていた恐れが現実となり、彼の中で何かが壊れた。


 助けられなかった。自分は、ただ無力だった。


 その瞬間、森に響いたのは、冷たい女の声だった。


「あら、もう終わり?」


 魔女の声と共に、空気が震えた。テネシアの拳が大地を抉り、爆ぜた魔力が波紋のように辺りに広がる。木々が揺れ、空気が唸りを上げる。

 だが、黒衣の魔女はその力の奔流を前にしても、愉しげに微笑んでいた。


「興奮しすぎ。坊や、魔力の制御って習わなかったのかしら?」


 指先がふわりと舞う。

 直後、漆黒の槍が空間に咲くように現れ、一斉にテネシアに降り注いだ。


 彼は咄嗟に魔力をまとわせた腕でいくつもの槍を弾くが、槍の数は増え続け、その速度も増していく。一本が脇腹を穿ち、熱い痛みが走る。


「ぐっ……!」


 膝が折れそうになる。それでも彼は立ち上がり、体内の魔力を絞り出した。怒りと悲しみを力に変えるように、身体が光を放ち始める。


《フル・エンハンス》


 呪文と共に、テネシアの肉体が限界を超えて強化される。魔力が火柱のように燃え上がり、地面がひび割れる。次の瞬間、地を蹴った彼の姿は稲妻のように魔女のもとへと駆けた。


「やるじゃない。けれど――」


 魔女の手のひらが開かれ、巨大な魔法陣が展開される。そこから現れたのは、炎を纏う竜。咆哮と共にテネシアに襲いかかる。


「邪魔だァッ!」


 拳が唸り、竜を打ち砕く。火花と炎が弾け、爆風が周囲を焼く。

 だが、その炎は彼自身にも襲いかかり、皮膚が焼け、煙が立ち上る。


「っ、くそ……っ」


 それでも、彼は怯まなかった。魔女の目前に迫り、拳を振り抜く――が、その拳は、虚空を切った。


「遅いわね」


 冷たい声が背後から響く。振り返る間もなく、無数の黒い薔薇の蔓が地中から伸び、彼の四肢を絡め取った。


「……!」


 ツタが締まり、骨が軋む音がする。鋭い棘が彼の皮膚を裂き、血がしたたり落ちる。


「怒りに任せて突っ込む。お子様ね」


 魔女の指がふわりと動くと、大地が割れ、テネシアの足元が崩れた。彼は渓谷の縁に追い詰められ、踏ん張る足に力が入らない。


「お前だけは……許さない……」


 それでも、彼は言葉を絞り出す。


「絶対に……お前を――」


 言い切る前に、地面が崩落した。

 身体が空中に投げ出され、風が耳を裂くように吹き抜ける。


 遠ざかる空、崩れ落ちる大地。

 彼は落下の中で、ただ一つの名を呟いた。


「……アイリス……すまない……」


 その声をかき消すように、魔女の笑い声が闇の中にこだました。

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