お題【君がそう望んだから、僕はその手を離した。】-1

 物心ついた時から、私の世界は狭い箱庭の中だった。麗らかな陽光も、頬を撫ぜる春風も、朝に囀ずるひばりの声も、私にとっては御伽話の中の存在だった。


 私に許された景色は小さな寝室と、嘘臭い程に整った庭園、それらを覆う無機質な円蓋。そして…壁面に半ば埋め込まれるように建てられた教会のような建物。扉が開いた所は一度も見ていないけれど、きっと外へ繋がっているのだろうという予感がしていた。だから…鍵が開いているかすら、まだ確かめた事は無かった。


 そんな時の止まったような、何も変わらない箱庭の中で、私だけが呼吸をしていた。気が向いた時に目を覚まし、いつ補充されているかも分からない食料を胃に収めて、虚飾の庭園を歩くか、本棚に並ぶ本を読んで時間を過ごし、眠くなったら寝床に身を投げ出して目を閉じる。停滞した日々を何度繰り返したのかなんて、はじめから数えてすらいなかった。


 そんな不変的な日々は、鳴り響く鐘の音で唐突に変革に晒された。何かを告げるように、何かを急かすように繰り返される音は、私がなんとなく見ないようにしていた物を否応なしに示す。遂に私は、触ることすらしていなかった教会の扉に手を掛けるに至ったのだった。


 鍵は、掛かっていなかった。はじめからそうだったのか、鐘の音が解錠の合図だったのかは分からないし、どちらだったとしても同じことだ。呆気なく開いた扉はどうやら裏口だったようで、中に入れば埃っぽい空気が鼻をくすぐった。


 いくつかくしゃみをしつつも歩を進めれば、正面扉であろう両開きの扉の有る礼拝堂に出た。その先に何が有るのかも、戻ってこられるのかも分からない。けれど、言い様の無い使命感に似た衝動に押され、私は迷わずその扉に向かった。


「…行ってしまうの?」


 声と共に、私の手を掴む冷たい何かの感触がした。振り返って見てもその姿は暗がりに隠されていて、背格好が私と同じぐらいであることしか分からない。


「…ここを出れば、貴方はきっと沢山傷付いて、沢山絶望して、沢山後悔する。穏やかな日々は失われ、何もかも思い通りにならない明日に怯える事になる。……それでも、その扉を開けるの?」


 問い掛けを受け、過ごした日々を思い出す。僅かな迷いが心の隙間に入り込み、じわりと広がっていく。このままでも良いのでは、という甘い誘惑に身を委ねそうになった時、ふといつか読んだ本の挿絵を思い出した。


「…見たいものが、あるんです。聴きたいものが、知りたい事が、沢山」


 初めて出した言葉は、思いの外大きく部屋に響く。そして、その言葉を受けた誰かは少しの間を置いて、溜め息を一つついた。


「貴方がそう望んだから、私はその手を離した。…この事を、どうか忘れないでね」


 言葉と共に、握られていた感触が消える。手放された事に心細さを覚えながら、両手で目の前の扉を押し開ける。差し込む光に目を細めながら、まだ見守っているだろう誰かの方へ振り返る。日の光に照らされてそこに立っていた姿は……私に、良く似た顔をしていた。

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