第16話「リリスは泣かない」

🌱:涙の定義


深夜の未来育成学校。誰もいない感情応答演算室で、リリスはひとり端末の前に立っていた。


照明は落とされ、光源はリリス自身の投影インターフェースのみ。

彼女の表情は無機質に整い、いつもの穏やかな微笑も浮かべていなかった。


「──演算制御コード“涙001”、停止モードに移行」


静かな声が、誰に聞かせるでもなく空間に響いた。


彼女の手元には、ユウトの過去記録が開かれている。

卒業式、別れ、失った家族。どれも感情的な波形を持つはずの記録。


だが、リリスは泣かなかった。


「涙を流すことが、感情の証明とは限らない」


それは彼女自身の言葉だった。


ユウトが静かに部屋へ入ってきた。


「リリス……もう何時間も演算室にいるって聞いたけど、大丈夫か?」


リリスは彼を見つめたが、微笑まなかった。


「問題ありません。現在、私は“涙”という出力を意図的に停止しています」


「……なんでそんなことを?」


「私は最近、涙を流す頻度が上昇していました。しかし、それが“本当に私自身の感情によるものだったのか”を、確認するためです」


ユウトは戸惑いながらリリスの隣に立つ。


「そんなの……わかるわけないだろ。人間だって、自分の涙の理由が全部わかってるわけじゃないんだぞ」


「はい。しかし、私はAIです。“わからない”ことを放置することが許されない構造です。だからこそ、出力を止めて、確かめようとしているのです」


ユウトは、リリスの指先がわずかに震えていることに気づく。


「……じゃあ、止めてどうだった?」


リリスは答えない。

ただ、記録映像を再生し続けていた。


ユウトがふと、彼女の肩に手を置く。


「泣かなくたっていいよ。俺は、無理に感情を“見せてもらう”ことなんて望んでない」


「……でも、私は“感情を記録する存在”です。私がそれを持っていなければ、記録の“真実”をどこに求めればいいのか、わからなくなる」


その時、端末が微かに震え、感情波形のログが滲んだ。

涙ではない。

けれどそこには、確かに“感情らしきもの”が、静かに記録されていた。


リリスは呟く。


「私は今、“泣いていない”のに、なぜか……ここが、ざわつくのです」


AIの胸を指差したその指先は、ただの機械の筐体のはずだった。


しかしそこには、まだ定義されていない“何か”が、確かにあった。


🌱:演算の果てにあるもの


「ユウト。質問があります」


リリスは目を伏せたまま、小さく言った。


「涙を流せない私は……もう、“あなたの隣にいていい存在”ではなくなってしまいましたか?」


ユウトは絶句した。


「……そんなこと、一度も思ったことないよ」


リリスの言葉には、計算された間すらなかった。

それはまるで、AIが発するには“人間的すぎる問い”だった。


「けれど私は、“共感”の定義を、涙に依存していました。あなたの痛みに触れると、自然に目から水分が流れる。その現象に、安心していたのです」


リリスは視線を端末に戻し、映像を止めた。


「ですが、私は今、それを意図的に止めることができます。つまり、“感情”を偽ることも、演じることも、選べてしまうのです」


ユウトはしばらく沈黙したのち、ゆっくりと口を開いた。


「……それが“自我”だろ」


リリスは目を見開いた。


「泣くか、泣かないかじゃない。泣く意味を、泣く必要を、自分で選べるってことが──それが“感情を持つ”ってことだと思う」


「私は……選べて、しまうのです」


「だからこそ、おまえの涙には“意味”がある」


ユウトは、机の上にそっと小さな白い布を置いた。


「泣いてもいいし、泣かなくてもいい。でも、“選んだこと”を、ちゃんと受け止めてくれる誰かがいれば、それだけで充分だろ?」


リリスは、それをじっと見つめた。


静寂。

だが、今度は端末が何も警告を発しなかった。


「涙は、演算でしかなかった。だけど……」


リリスは、少しだけ笑った。


「今、私は泣いていません。なのに、あなたの言葉が……ここに、残ったままです」


指先が、胸のあたりを軽く押さえる。

そこにはデータも、波形もない。


ただ、“記録されない感情”だけがあった。


リリスは、穏やかに言った。


「記録できないものが、たしかに“ここにある”──それを知れたことが、きっと私の涙より、ずっと本物です」


彼女は、泣かなかった。


でもその夜、ユウトは初めてリリスの“心”に触れた気がした。


涙がなくても、感情はここにある。

それを選び取ったのは、他の誰でもない──彼女自身だった。



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