首吊り桜の巫姫

銀狐

百鬼、桜下に集う

 霧崎町の背骨たる狐狼山の懐深く、人の踏み入ること能(あた)わざる禁域あり。


 魂結神社と、人は畏れ、あるいは密やかに口にする。其処に至る参道は、獣の呼気めいた湿った苔に覆われ、夜霧は腐爛した臓腑より漏れ出ずる瘴気のように澱む。


 朽ち果てた鳥居は、太古の怪物が顎を開けたるが如く、昏き虚空を噛んでいた。


 鳥居を潜れば、社殿の残骸を睥睨(へいげい)し、一本の巨大な桜がぬらりと聳え立つ。


 名を「首吊り桜」。されど、春ともなれば爛漫と咲き誇る通常の桜に非ず。その枝々より無数に垂れ下がるは、縄にあらず。


 人の腸(はらわた)を引き伸ばしたるが如き、ぬめりたる艶を帯び、臍の緒めきて微かに脈打つ、禍々しき「怨念の触手」なり。


 夜ごと、その触手にて自ら縊れし魂魄を引き寄せ、啜り、己が糧とする生ける絞首台。故に、魂結の桜は、今宵もまた新たな首を求めて枝を垂れるのであった。


 今宵、その桜の根元には、現世の理から外れたる者どもが集っていた。


 頭蓋骨を連ねた錫杖を地に突き立てるは、骨堂冥翁と名乗る老人。百衲衣に身を包み、その隻眼には青白き燐光が燻っていた。


 嘗て隆之が属した『特殊事象技術研究本部』-通称 "特技研"-が開発したという呪詛塗れの義眼である。



「ふむ……此処の桜は、まことによく肥えておるわい」


 冥翁の唇が、蚯蚓(みみず)のように蠢く。その義眼は、常人には視えぬ桜の正体を見透かしていた。枝々に絡みつく触手が、贄を求めて蠢く様を、愉悦の色を隠さずに眺めている。



「冥翁、計測完了です」


 傍らに控えるは、鉄宮朔夜。特技研が生み出した隆之の後継、実験体No.13。


 その肉体は、既に半分以上が霊的なエネルギーで稼働する義体へと置換されている。彼の義手から伸びた銀色の霊子ワイヤーが、生き物のように桜の枝に絡みつき、データを吸い上げていた。


 機械仕掛けの右目が焦点を結ぶ度、朔夜の脳内に埋め込まれた戦術予測AIに、此処で果てた者たちの断末魔がデジタルノイズとして流れ込む。



『――タスケテ――』

『――クルシイ――』

『――カエリタイ――モウ――』


 朔夜の表情は、能面のように変わらない。ただ、冷たい金属の指先が、無意識に自らの首筋を撫でた。


 ここで死ねば、あの忌々しき旧世代の失敗作――No.9、小野瀬隆之を、超えられるのだろうか……? そんな乾いた思考が、電子回路を掠めては消える。


 冥翁が懐から取り出した古びた瓢箪。傾ければ、中から零れ落ちたのは、粘つくような黄泉の泥。それは地の底より湧き出でたる呪詛の凝縮体か。


 泥は桜の根元へと吸い込まれ、其処に膝をついていた白衣の女の裾を濡らした。杉原螢子。元は産婦人科医であったというこの女の掌には、奇妙なことに、臍の緒の形をした古い瘢痕が浮かんでいた。



「……胎盤のような匂いがしますね。此処の霊は、皆、『産み直されたい』と願っているのでしょうか」


 螢子の声は、ホルマリンに浸された標本のように、感情の温度を欠いていた。彼女が瘢痕の浮かぶ掌でそっと桜の幹に触れた瞬間、古木の樹皮が裂け、まるで血の涙のように、粘り気のある樹液が噴き出した。


 其の傍らで、古びた町誌を紐解いていたのは風巻時雨という男。血の涙が零れたと同時に、町誌の頁がひとりでにぱらぱらと捲れ、特定の名が墨で塗り潰された箇所でぴたりと止まる。



「明治四十三年、昭和十九年、平成五年……桜が花を咲かせる度、この近辺での自殺者が倍増している。記録上は事故や病死として処理されているが……」


 時雨の指が、消された死者の名を怨念のように辿る。彼の背後では、カシャリ、と乾いたシャッター音が響いた。


 カメラを構えるは、夜凪累という陰鬱な貌の青年。現像された写真には、しかし、この場の誰も写ってはいない。ただ、逆さ吊りになった、蒼白い顔の少女たちの姿だけが、幾重にも重なって焼き付いていた。



「……姉さん?」


 累の掠れた声が、夜気に溶ける。その声に呼応するかのように、首吊り桜の枝々が一斉にうねり始めた。千本の黒い舌が、千本の縊れた首が、生者の頸を求めて蠢き、伸びる。



「待て……! 此処はもう『現世』じゃない! 境界が曖昧になっている!」


 鰐淵巌。元刑事であり、今は私立探偵としてこの町の闇を追う老人が叫ぶ。懐から取り出したのは、自らの血で赤黒く濡れた五円玉。長年の経験と微弱な霊感が、この場の異常性を告げていた。だが、彼の警告は、既に狂宴の幕開けを告げる鐘の音に掻き消されようとしていた。

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