第32話
翌朝、曇天と灰が入り混じる城の中庭を眺めながら、真希は歩みを止めた。
いつもならリオルと顔を合わせる朝の時間。しかし、今日に限って、リオルの部屋は鍵がかかったままだった。
控えめにノックをしても、返事がない。侍女も「今朝は殿下の体調が優れないとのことで」と言葉を濁す。
体調不良なのか、あるいは……彼もまた何かを悩んでいるのか。
(“母”と呼んでくれたあの晩から、いったい何が変わってしまったんだろう)
中庭の隅で、レヴィアの姿が見えた。
彼女は王子の側仕えとしての立場を持ちながら、最近は真希の心情にも寄り添ってくれる稀有な存在だ。
「……殿下が今朝、少し熱を持たれて。心配するほどではありませんが、休息が必要かと」
そう言うレヴィアの目には、かすかな不安の色が見える。
真希は思わず問いかけた。
「それだけ……?」
レヴィアは言葉に詰まる。
――実はリオルは夜通しノートを開いたまま、何度も破り捨てるように紙を綴っていた。それを片付けた侍女が怯えるほどの激しさだった、という報告が届いている。
(殿下は、“母”と呼んだあの人との関係を、また誰かに否定されることを恐れているのかもしれない)――レヴィアの胸中にはそんな推測があった。
しかし、それを今ここで伝えるのは憚られた。
真希も、すべてを察しているわけではない。けれど、“あの子”が傷ついているのは間違いないと感じていた。
自分の存在がリオルを追い詰めてしまったのではないか――そんな恐れが、頭から離れない。
「……もう少し待ってみる」
それだけ言うと、真希は背を向けて城内の階段を上っていった。
だが、足元は重かった。
廊下の壁にかかった古びた鏡に、自分の姿が映る。
この国の衣装を纏った女。異世界人。傍から見ればただの客人にも等しい。
そこに教師だった頃の面影は、残っているだろうか。
(私がこの国に来て、リオルと出会った“意味”って何?)
鏡を見つめる自分の瞳は、どこか曇っていた。
そして、その瞳の奥には、ひとりの少女――遥の姿が薄く焼き付いている。
――先生なんて、嘘つきだ。自分が傷つきたくないから綺麗事ばかり言うんでしょう?
あの鋭い言葉。
遥が何を思っていたのか、最後までわからなかった。
――彼女の“事故”が、本当は誰のせいだったのか。
ドクン、と胸が音を立てる。
鮮明に思い出すほど、頭痛が増していく。
あの日、自分が見たのは――夕暮れの通学路、飛び出した小さな影。そして、ブレーキ音の後に地面に散らばった……血の色。
(……私じゃなく、あの子が事故に遭った?)
なぜ、そんな記憶が曖昧なのか。
召喚される際、魂が再構成されたせいなのか。それとも自分が記憶にフタをしているのか――定かではない。
午後になっても、リオルは姿を見せなかった。
「お休みになられている」と侍女が告げるのみ。
真希は、たったひとつの確信を頼りに、足を進める。
――グランなら、何か知っているはず。
老魔導師は、王城の奥にある小さな書斎にいた。
ノートや魔導書が積まれた机の向こうで、深く眉をひそめている。
「あの子のことで相談が……」と切り出しかけた真希の声に、グランは静かに頷いてみせる。
「リオル様の魔力が、不安定な揺れを見せ始めているのだ。……昨日の晩から、呪式の反応が奇妙に上下している」
「あのときの“暴走”みたいになるんですか?」
「あそこまで大きくはないだろうが……弱い炎が燻るときこそ危険だ。何か小さなきっかけで一気に吹き上がりかねない」
グランは、杖の先についた魔石を軽く撫でながら言葉を継ぐ。
「殿下は、噂を気にしておられる。――“本当の母親が生きている”という話だ」
真希の胸が一瞬、締めつけられた。
「リオル様にとっては、“母”と名乗るそなたと、生きているかもしれぬ“実母”とのはざまで、立ち尽くしているのであろう」
それがあの子の熱の正体――“心の揺れ”が身体に表れているのだ。
(私が出ていけば、迷わなくても済むの? でも、あの子は“母と呼んでいい?”と自分で言ってくれたのに……)
迷いと不安が絡み合い、頭の中が真っ白になる。
グランはそんな真希の表情を一瞥すると、淡々と口を開いた。
「……ところで、そなたの“罪”は、まだ終わっていないのだろう?」
まるで、ずばりと心の奥に踏み込むような言葉だった。
「わ、私の……罪、ですか?」
「かつてあの子を救えなかった――そう思っているのではないか? 真希よ、そなたが抱える“後悔”が、この世界で何を成すか、そろそろ自ら見定めねばならん」
動揺が声から漏れそうになり、思わず唇を噛む。
ハッキリとは打ち明けた記憶はないはずだが、グランはどこか悟っている。
自分が“誰かを救えなかった”後悔を抱えていることを。
「……私、ずっと思い込んでたんです。あの日、事故に遭ったのは私自身だって。でも、最近、記憶が違う形をしてる気がして……」
頭痛が一段と増し、額に手をあてる。
あの夕暮れの情景。横断歩道の先で、小さな女の子が振り返らずに走っていった姿。
――そして、耳を刺すような衝突音。血の匂い。泣き叫ぶ誰かの声。
「私が助けられなかったのは……遥っていう、教え子の女の子だったかもしれない」
声に出すと、胸が裂けるように苦しい。
自分の“死”の記憶と、遥の“事故”がどうつながっているのか、まだはっきりしない。
「そなたがもし、己の罪を見つめることを避けるなら、この世界で得られるものはないだろう」
厳しくも温かいグランの瞳が、真希を見据える。
「だがそれと同時に、そなたは“その子”――リオル様を救おうとしている。……その先に、答えがあるのかもしれんぞ」
部屋を出た後も、真希の足はふらついた。
記憶の混濁と、リオルへの想い。すべてが絡み合い、自分でもわけがわからなくなる。
階段を下り、王子の部屋に近づく。
ドアを叩くと、中で控えていたレヴィアがすっと出てきた。
「殿下は、少し熱が下がったようです。……今なら、面会は叶うと思います」
ホッと安堵する半面、心臓が締めつけられる。
扉を開けば、リオルはベッドに横たわり、うっすらと瞳を開いていた。
「ごめんね、調子悪いのに。無理しなくていいから……」
真希が囁くように言うと、リオルはかすかに首を横に振った。
手元には、いつものノート。そこには乱れた文字が走っている。
破りかけたページの端には、《あえない? ほんものの はは》と読める走り書きがあった。
(やっぱり、その噂を気にしていたんだね……)
真希はそっとベッドの縁に座り、リオルの肩に触れた。
まだ火照る肌に、切ないほどの弱さが残っている。
リオルは唇を震わせながら、かろうじて声を絞り出した。
「……“まき”は、“ごめんね”って……いわないの?」
「――え?」
「みんなが、ぼくに“すきにしていいよ”って言う。……でも、それってぼくが“まちがってる”かもしれないってことだよね」
耳を疑う。
優しい言葉が、逆に彼を追いつめているなんて。
(自由にしていい、君の好きにしていい――そこに込めた私の願いが、あの子を不安にさせていた?)
リオルはノートの端を指でつまみ、くしゃりと潰すように握る。
そして、震える声で続けた。
「“おかあさん”じゃないかもしれない。でも、“おかあさん”でいてほしい……。……こんなの、わがままかな」
「わがままじゃないよ」と返したいのに、声が出ない。
真希はただ、彼の頬に触れる。
「私こそ、言葉が見つからないの。ごめんね」
それは、教師の言葉でも、継母の言葉でもなかった。
ただひとりの人間としての、本音。
リオルは目を閉じる。
小さな身体に、今どれだけの不安が覆いかぶさっているのか――考えるだけで悲しくなる。
そのとき、扉の外でレヴィアが低く息を呑む声が聞こえた。
「大変です、外が……!」
真希が慌てて振り返ると、窓の外の灰空が急激に揺らめいているように見えた。
何か巨大な力が、空気ごとひずませているかのような嫌な気配。
――魔力の波動だ。しかも、城の内部から発生している。
リオルの手が、かすかに痙攣のように震える。
“あの子の内なる力”と、城を覆う何かの魔力が共鳴している?
「殿下、落ち着いて。大丈夫だから……!」
必死に声をかけても、リオルの意識は朦朧とし始める。
熱のせいか、魔力が暴れる前兆なのか――真希の胸は、かつての大暴走の悪夢が蘇って震えた。
(どうすればいい? 私がそばにいても、ダメなの? 何を言えば、あの子の不安を拭えるの?)
咄嗟に、真希はリオルの手を強く握った。
「私ね……守りたいんだよ、君を。たとえ私が間違っていても、君だけは……」
そこまで言いかけて、思考が揺らいだ。
――“守れなかった”記憶が、はっきりと脳裏に浮かびあがる。
夕暮れの校庭、走り去る少女。
あのとき、どうして引き止められなかったのか。もっと早く言葉をかけられなかったのか。
(遥……私はあの子を“守れなかった”んだ。事故から、助けられなかった)
視界が暗くなるほどの頭痛。
まるで封じていた記憶の“蓋”が、今まさにこじ開けられようとしている感覚。
「……っ」
リオルは弱々しい呼吸をしている。
真希は思わず目をぎゅっと瞑り、自分の奥底に沈んだ記憶へと向き合おうと決意した。
――そうだ、私はあの日、遥を……
瞬間、部屋を満たす空気が一気に重くなった。
ベッドの周囲にかすかな光がちらつく。リオルの魔力が身体から漏れ出しているのが、視覚的にもわかる。
「ダメ、抑えて……!」
もしこのまま魔力が噴出すれば、周囲を巻き込む危険がある。
しかし、まだ大暴走には至っていない。今なら間に合う――
「リオル、聞いて……お願い、私の声を聞いて!」
真希は震える声で、ぎこちなく言葉を継ぐ。
頭の中をぐるぐる回る“罪”への恐怖を、意を決して吐き出すように。
「私……昔、救えなかった子がいたの。私が怖くて、言葉をかけるのをやめて、見て見ぬふりをしてしまったあの子を……」
泣きそうになるのをこらえながら、必死に声をつなげる。
遠い記憶と現在が、歪むように交差していく。
「その子は……私のせいで、事故に遭った。私がもっと早く駆け寄ってれば、避けられたかもしれない。――それが、私の罪……」
自分で口にするたび、胸の奥を鋭い刃で抉られるような痛みが走る。
これこそが“真実”なのか。あの日、自分が見たあの子の姿――血だまりに倒れた遥の姿がフラッシュバックする。
「でも、私は君を同じ目に遭わせたくない。だから、君が‘母’って言ってくれた時、本当に嬉しかった。失うのが怖くて、どうしたらいいかわからなくなった……」
声が震え、涙が一筋、頬を伝う。
リオルはうわごとのように何かを呟きながら、それでも目を開けようとしている。
部屋の灯りが揺れ、魔力の粒子がひそやかに震えている。
少しずつ、落ち着いてきたのか、あるいはあの子自身が“何か”に気づいたのか。
真希はリオルの手をさらに強く握りしめた。
「私は君を守りたい。でも……私自身が許されていない気がして、ずっと怖かった。遥を救えなかった私が、君を救えるのかって……」
その瞬間、かすかな声が耳を打った。
「……まき、に……いて、ほしい」
リオルの声だった。かすれた囁き。
ハッとして顔を上げる。
彼のまぶたは重そうに下がりながらも、確かな意思を宿していた。
「ぼく、あなたが……わるいなんて、……おもわない」
魔力がかき乱していた空気が、すうっと鎮まっていく。
リオルの震える声は、真希の心を直接揺さぶるように響いた。
(私が、悪いんじゃない――? そんなはずない。私は……あの子を……)
混乱と苦しみ、ほんの少しの安堵。それらがごちゃ混ぜになったまま、真希は言葉を失う。
けれど、リオルの手が少しだけ力を取り戻して、真希の指を握り返してきた。
「……もう、すこし、そばにいて」
それは、彼なりの精一杯の願い。
真希は、泣き笑いのような声で「うん」と小さく返事をする。
ドアの外で待機していたレヴィアが、そっと息を吐く気配がした。
どうにか、最悪の暴走は回避できたようだ。
(私の罪はまだ消えない。でも、それでもあの子は“いてほしい”と言ってくれた……)
そんな小さな光が、暗闇の中で灯る。
遥との事故、そして自分が異世界に来た“真相”が、ゆっくりと輪郭を帯び始めるなかで。
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