第8話
教室と呼ばれるには、あまりにも静かな場所だった。
王城西翼の書庫棟、その奥にある小部屋。
もともとは学者や賢者の研究用に使われていた空間で、壁一面に本が並び、中央に大きな机がひとつあるだけの質素な部屋だ。
ここが、王子リオルと真希の“学びの場”としてあてがわれた場所だった。
教師としてならば、もっと明るく、人の気配のある空間のほうが良いと思ったかもしれない。
けれど、今のリオルには、これくらいの静けさがちょうどよかった。
――たとえそれが、“孤独の延長”だったとしても。
初日、リオルは真希と目を合わせなかった。
机の左側に座った真希に対し、彼は右端に座ったまま、背筋を伸ばしていた。
きちんと整えられた制服。光の入らない瞳。
無言で、無表情。それでも、そこに座っていること自体が、真希にとっては十分な前進だった。
「おはよう、リオルくん」
返事はなかった。
真希はそれ以上なにも言わず、手元に置いたノートを開いた。
ノートは昨日と同じもの。中には、話せなかった気持ちを書いたページがいくつも並んでいる。
リオルもまた、黙ったままノートを開いた。
支給されたばかりの白紙の帳面。ペンの先だけがかすかに震えていた。
しばらく、二人の間には言葉がなかった。
カリ……カリ……とペン先の音だけが、小部屋の空気を切り取っていた。
真希は文字の練習ページを自分で作り、それを見せてから隣に置いた。
《風》《空》《王》《光》
意味は深く考えず、ただ今この国でよく目にするものを選んだ。
真希が書いた文字は、子ども向けのひらがな混じりの漢字。
この国の文字体系に似たものを彼女なりに模倣して並べたものだった。
(これで、伝わるかな……)
言葉が届かなくても、“模倣”は心の鏡だ。
彼がこの紙に目を向けるか、無視するかで、今の気持ちがわかる。
……数分後。リオルの指が、わずかに動いた。
そして、彼は真希の書いた《風》の文字を、少し不格好に真似して書いた。
震えた字だった。はねも払いも狂っていた。
けれど、確かにそこには“真似ようとした”痕跡があった。
真希は、声には出さず、小さく頷いた。
その後も、ふたりは一言も喋らなかった。
ただ、真希が簡単な単語や図を描き、リオルがそれをちらりと見ては同じように模写する――その繰り返し。
たとえば、家の絵。木。空。動物。
真希は時々、わざとちょっとだけ間違えて描いた。
鳥の羽根が一本多い。家の扉が屋根の上にある。木の幹がねじれている。
リオルは最初、それを黙って書き写したが、数枚目からふと、修正して描くようになった。
(あ……)
真希の胸が、かすかに震えた。
これは、“見ている”証拠だ。
ただ真似ているのではない。“考えている”という意思。
――学びの始まりは、正しさではなく、疑問から始まる。
ひと区切りついたところで、真希はそっと口を開いた。
「リオルくん。今日の授業、おしまいにしようか」
リオルは返事をしなかった。
だが、閉じかけたノートの端を指で押さえ、もう一度ページを開いた。
そこには、真希が書いた《まちがえる》という単語が、ひらがなで繰り返し書かれていた。
《まちがえても だいじょうぶ》
《まちがえることは まなんでいること》
彼はそれを見つめて、しばらく動かなかった。
真希は、続けなかった。
それ以上を求めたら、きっと押しつけになってしまう。
ただ、彼の隣に座る。
それが、今日の精一杯だった。
部屋を出ると、レヴィアが廊下の柱にもたれて待っていた。
「初日としては……静かすぎるほど静かでしたね」
「まあ……逆に言えば、騒がしくなかったってことで」
「リオル様は、貴女を見ていました」
「え?」
「一度だけ。目を伏せていたのに、あなたが“まちがえて描いた鳥”に気づいたときだけ、彼の目があなたを見ていた」
真希は、一拍置いて小さく笑った。
「そうか。じゃあ私、しばらくは間違い担当でいいかな」
「……奇妙な教育論ですね」
「そう? でも、人って失敗の仕方を教えてくれた人のこと、意外と忘れないんだよ」
その言葉に、レヴィアはなにも返さなかった。
けれど、彼女の手元の書簡の角が、ほんの少しだけ丸まっていた。
夜、真希は今日の出来事をノートに書き残した。
『“間違える”ことを許してもらえる場所があれば、
たぶん“自分”というものを、少しだけ好きになれる』
それは、かつて“自分を間違いでできている”と思っていた少女――
野村遥へ向けた、ささやかな祈りでもあった。
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