5.願わくば、ふたつ

5-① 似たもの同士

 これで最後。


 日本語で書く答えにはいらないピリオドを、キーボードのエンターを大袈裟に叩くように打つ。

 げんなりするほど穴開きだった数十枚のプリントの空白を、始業式という提出期限を目前として補い切れたことに、俺は肩の力を抜いた。


「……おーわり……」


 解答欄が埋まった課題プリントの束の上へシャーペンを転がす。うんと伸びをして、ずっと丸まっていた背を反らせば、身体のあちこちから音が鳴った。

 そんなに長く同じ姿勢でいただろうか。ふと、勉強机の上のデジタル時計を見れば、三時間は机に齧りついていたと気付き、どっと疲労が増す。


 腹も減った。残り少ない夏季休暇を存分に満喫し、遅めに起きて食べた朝食も、まだ昼前だというのにエネルギーとして使い果たされたらしい。


「飯、食うか……」


 軋む膝を無理矢理動かし、クーラーの効いた自室から空気がぬるい廊下へと出て、一階に下りる。

 母さんは朝から出かけたらしい。今朝、ラップを掛けて食卓に置かれたままの朝食を見て父さんに尋ねれば、仲良しな魔族のママ友と遊びに行ったとのこと。


 なので、今日は昼食を自分で用意する日だ。ちょっと嬉しい。千寿井家では炊事を補欠シェフの俺か父さんが担当する場合、冷蔵庫にあるものならなんでも使っていい決まりなので、好きな量を好きな味付けで食えるのだ。


 母さんの料理に不満があるわけじゃないんだが、冷凍食品の唐揚げに気兼ねなくレモン汁を掛けられるのは、快適と言わざるを得ないだろう。


「あ、紅汰。課題はもう終わったのかい?」


 リビングに入ると、テレビを見ていた父さんが俺へと振り向く。

 母さんの行方を訊いたついでに、今日で課題を終わらせる予定だと伝えていたので、一階へ顔を出した俺の課題の進み具合を気に掛けてくれたようだ。


「全部終わった。今日はもう暇だし、俺が飯作るよ」

「それは嬉しいけど、その前に父さんと買い物に出ようか」

「えっ、な、なんだよ。珍しい……」

「母さん、今日買い物に行く予定だったんだけど、ママ友さん達から急に誘われたみたいでね。買い物は僕がしておくから行っていいよーって送り出したんだ」

「ああ……まあ、荷物持ちくらいならするけど……」

「じゃあ早速行こう。ちょっと早く課題終わらせた紅汰に、ご褒美も買ってあげたいし」

「それ母さんになんか買うついでだろ」

「デザートじゃなくて、ステーキ肉とかでもいいよ」

「マジで俺用じゃん……!?」

 

 信じられない。疲れで耳までイカれたか。誕生日や試験の成績などといった特別な祝い事以外で、母さんより俺を優先する父さんが珍しくて目を見張る。

 父さんは間抜けな面をしてるだろう俺に微笑むと、いつの間にか手にしていた車のキーと母さん愛用のエコバッグを持って玄関へと歩き出した。


 一人でばつの悪さを感じつつも遅れて後を追い、父さんに続いて家を出て、鍵が開けられた車の後部座席へ乗り込む。

 助手席でいい気もしたが、そこは母さんの定位置だ。父さんと二人きりで出かけるだけで少し気まずいのに、隣に座りもするのはさすがに照れ臭い。


「紅汰。窓に付けときなさい」


 運転席と助手席の隙間から差し出されたのは、黒く薄っぺらい物体。磁石で窓枠にくっつけられる日除けだった。


「これ、いつも母さんが乗るときに父さんが付けるよな」


 つまり助手席用なので、後部座席の窓には微妙に合わないそれを上枠だけ固定して取り付けた。

 発進し始めた車の振動に合わせて、宙ぶらりんな下枠がこつこつと窓を叩く。


「そうだねぇ、もう癖みたいなものだから。してあげないと落ち着かなくて」

「世話焼きもそこまで行くと介護の域だろ……」


 もはや失礼まである。神父様の前で夫婦の誓いをしたにしても、程度というものはあるべきだと思う。

 老いる速度が人間と吸血鬼で異なるために、やれる機会が訪れないことを、今のうちにしているにしたって。


「……父さんって、母さんのどこが好きなんだよ」


 脳裏にうっすらと浮かび上がってきた疑問を、俺は見て見ぬふりをせず、声にした。

 思えば、俺の父親は紛れもなく、自分の意志で異種族と結婚した人だった。俺と違って、心の変化の原因に苛まれずに、異種族との恋を経ている。俺の理想を体現する、一人。


「随分と恥ずかしいことを聞くなぁ」

「全然恥ずかしそうじゃねぇけど……?」


 ハンドルの操作には一切の乱れがない。シートベルトに縋らずとも、安心して身を預けられる運転だ。

 親だというのに、いまいち距離感を測りかねるが、いつも余裕があって頼れる人である。

 

「まぁ、父さんはまず、あの人が誇らしいからね」


 聞き慣れない称賛の言葉に、目が覚めるような感覚を覚える。

 素敵だとか、可愛らしいだとか、腐るほど聞いた父さんから母さんへの賛辞の数々。

 しかし、愛ではなく尊敬を込めたその一言は、俺の知る限り一つたりともなかった。


「誇らしい……?」

「うん。僕はあの人ほど、誰かのために在る人を知らない」


 父さんの声色は、どこか寂しそうだった。

 誰かのために在る人。その評価で俺が真っ先に思いつく姿は、母さんではなかったけれど。愛した伴侶か、産んだ子か、はたまた崇敬する真祖様か、いっそ全員か。削った身を、砕いた心を、誰かへ躊躇なく手渡す人に、父さんは母さんを挙げるらしい。


「だから僕は、あの人のために在ろうって決めたんだ。あの人が頑張りたいときはその力になるし、一息つきたいときは支えられる人になろうって」


 俺の知らないいつかの日に、神父様の前で結んだ夫婦の誓い。

 父さんが馬鹿みたく律儀に守っているそれは、俺達で言う使命みたいに、父さんを縛る制約なんかじゃなかったんだ。

 この人もまた、この人の意志で、母さんのそばにいる。


「そのためなら、苦手なトマトジュースだって喜んで飲むよ」


 俺の耳、本当にぶっ壊れたかもしれない。

 吸血鬼と人間のハイブリッドなくせに欠陥の目立つこの身体、どうやらびっくりしすぎると声も出ないらしい。あんぐり開いた口に拳は突っ込めそうでも、息が通る音さえ零れなかった。


 初耳だぞ、それ。物心ついた頃から行われていた定例インチキ儀式に、そんな真実が隠されてるとか思わないだろ。

 父さんの徹底ぶりにもはや呆れ返った俺は、ずっこけるかの如く後部座席に倒れ込む。


「……やっぱバカップル……」

「あっはっは、嫌そうだなぁ。でも、父さんは紅汰もこうなりそうだと思うけど」

「は!? 俺の何見てそう言って……!」

「んー……親としての勘、かなぁ」

「勘かよ……」

「うん、勘。……だけど、夜花さんの言う通り、運命みたいな出会いがあったら、紅汰は相手を大切に出来る子だって信じてるよ」


 常識を説くみたいに言う父さんの運転は、やはり穏やかなものだった。このまま眠れてしまいそうなほど。

 平然とした様子で注がれる信頼へ、そうかよ、とだけぶっきらぼうに返した俺は、座面に当てた耳を父さんの声以外のもので満たす。


 頑張りたいときは力になり、疲れたときは支えもする。

 吸血鬼が混じった俺も、そうしてやりたいって思うけど。


 でも、あんたが知らないわけないだろ、父さん。

 優しさってものは、相手がいなきゃ使えないんだ。

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