4-② 記憶
「……千晴様は、五年前に、私が初めて試験を受けたときの、パートナーです……」
たった一言の、端的な真実。
それっぽっちが、喉につかえて、飲み込めない。
「私の姿を見たのをきっかけに、私のことを思い出されたのだと思います。恋が順調に叶っていれば、お相手と過ごした時間が消えた部分を埋めてくれるのですけど……千晴様は、それに当て嵌まりませんから……」
ティアの目は伏せられたまま。重い痛恨の気持ちが彼女を下向かせている。
多分、これまでにも俺みたく試験のパートナーになった人がたくさんいて。その度に天使の行方をくらませるため生まざるを得なかった記憶の空白。
それを埋める代わりが、あの女性にはないのなら。
「それ、って……」
「……はい。千晴様のお力になれなかったんです、私」
自身に呆れ、困ったようにくしゃりと笑う。俺に同意を求めるみたいに、しっかりと顔を上げて。
笑ってくれたのに、全然嬉しくない。
彼女が自分を責めがちだった理由そのものを前にして、何を喜べっていうんだ。
今、口から出してもいい言葉の正解が見つからず、迷う俺の手を肩から剥がしたティアが数歩後ろへ下がる。
「落ちこぼれの天使であったこと、隠していて申し訳ありませんでした」
ティアはこれまでで一番、深く、深く頭を下げた。
彼女の綺麗な金髪をまとめるつむじが、よく見える。
「私は千春様がこれ以上思い出さないよう、姿を消すために天界へ帰ります。紅汰様にはまた、ご連絡いたしますので」
「あっ……おい! ティアっ!」
白翼をはためかせ、俺の静止の声も聞かないで空へ飛び立った。俺みたいな荷物も持っていないからか、一秒も要らず最高速に達したティアはすぐに星より小さくなる。
何も見えなくなっても、俺は路地を作るビルとビルに囲われ、狭くなった空を見上げ続けた。ティアと、こんなにも呆気ない別れ方をしたことがなかったから、どうしたらいいか分からなくて。
「……っ、はあっ……間に合わ……なかったっ……」
どれくらい茫然としてしまっていたか。不意に届いた、荒い呼吸が混じった無念の一言に振り返る。
路地の入口。長い黒髪を垂らしながら膝を掴み、肩で息をする女性。俺に気づき、顔を上げてはっとした様子の女性には、言うまでもなく見覚えがあった。
「……あなたは……もしかして……今の、パートナーですか……?」
途切れ途切れな呼吸の間で俺に問い掛けた女性は、ティアの元パートナーらしい『千晴様』だった。
天使に――ティアに会いたかったのだろう彼女も、今のティアを知れる一要素である俺のことが気になるのだろう。
「そう、です」
「……そっか。私のせいで、また試験、受けさせちゃってるんですね……」
俺の肯定を受けて独り言を零した彼女の声に、俺の知らない後悔が乗る。
伏せた目の周辺は赤みがかっていた。彼女の頬や首筋を流れる汗に、涙はいくつあるのだろう。
「あの……あなた、お名前は? 私は、
「……千寿井です。千寿井紅汰」
「千寿井さん、ですね。……あっ、遅くなりましたが、先程はありがとうございました。困っていたので、大変助かりました」
義理堅い一面があるのか、息を整えた葉崎さんは微笑みながら欠いていた礼を述べ、一礼する。
その姿が猛烈にティアと重なった。俺よりよっぽどティアのパートナーに相応しいと思う。
「……ティアとは、どういう関係なんスか……?」
俺は、前置きなんてすっ飛ばして単刀直入に尋ねた。
相性は良かっただろうに、一体何があったのか。試験のパートナーなんて肩書き自体じゃなく、そこに詰まった過去を教えてほしい。
俺も葉崎さんも、このまま別れるなんて望んじゃいない。
葉崎さんは、俺に応えて語り出す。
「あの子は……ティアは、私が高校受験に失敗して、家に引きこもってしまっていた頃に突然現れたんです」
葉崎さんの独白は、学校での出来事が生活のほとんどである学生の身には衝撃的な始まりだった。
聞いていいのだろうかと悩んだが、話していいと思ってくれた彼女の決意を受け止めるべく、相槌も挟まないよう固く口を閉ざす。
「中学生の時の私の生活は、勉学が大部分を占めていたのに、友人達の中で私だけ第一志望の高校に受かれませんでした。それで周りと比べて塞ぎ込んでしまって……。第二志望には受かったのに、気持ちの問題で通えなくなってしまいました」
勉強に自信があったから、かなり上の方の高校を目指したのだろう。緊張か、体調の問題か、とにかく彼女は人生の分岐点で失敗したのだ。塞ぎ込んでしまうのも無理はない。
「そんなとき、家のベランダに彼女が降り立ったんです。あなたの恋を叶えるお手伝いがさせてほしいと」
想像できた。葉崎さんの家の庭がどうなっているかは知らなくても、白いワンピースの裾を膨らませて、ふわりと舞い降りた天使の姿が。
俺も思い出す。青空を背に、俺のもとまで飛んできた天使を。
「でも、私は恋をするどころか外に出るのもままなりませんでしたから、最初は断ったんです。私じゃなくて他の人がいいだろうって。……なのに、ティアは『外に出られるようになるところから始めましょう』と、私を励ましてくれて。それから毎日、家に来てくれました。トランプやゲームで遊んだり、朝から晩までお喋りをするだけの日を過ごしたり……」
ティアらしい。
表情は引き締めたままでいるのを心掛けたが、あまりに俺の知るティアから全くブレないエピソードに胸の奥が少しほぐれた。
「彼女と接するうちに、外が恋しくなりました。また行きたいと思えました。ティアがいてくれた半年間の最後、私は結局、他人と深く関わることにまでは踏み切れず、今すぐに恋はできないと返事をしていまいましたが……定時制の高校に通う決心ができて、今も大学に通えているのは、間違いなくあの子のおかげです」
葉崎さんが目尻に浮かんできてしまった涙を拭う。
今の自分がいるきっかけとなったティアの存在は、彼女の中で途轍もなく大きいのだろう。
「私はあの子の力になれなかった。でも、あの子が私の恩人であることに変わりはありません。あの子を見るまで、あの子を忘れていたのが不思議なくらい、感謝しています。だから、一言お礼が言いたくて、追いかけてきたんですけど……」
ティアの飛行速度は人の足では到底追いつけるものではなかったが、飛び立った彼女の姿を上空に捉え、諦め切れず走ったのだと思う。
確かに謝りたかったはずだ。ティアの目的は、あくまで神より定められた試験に受かること。あまり言いたくはないが、力になれなかったと後悔するなら、葉崎さんの方が自然だ。
何故、ティアまで力になれなかったと悔いているんだ。
恋という、人にとって普遍で不変の幸福を与えてやれなかったからか? それともティアが今の葉崎さんを知らないからか? 恋は難しいという返事と一緒に、定時制高校への登校はティアに伝えなかったのだろうか。
次にもしティアに会えたら、話してやらなければ。……いつになるかは、予想もできないが。
「他にも訊いておきたいことはありますか? 千寿井さん」
「えっ?」
今度は自分が訊く側に回ってもいいか、という確認の体も取った質問だった。そう言われると、機会を失うのがちょっと勿体無くて思案してしまう。
「……じゃあ、変な質問、なんスけど」
「はい」
「ティアとやってたゲームって、なんだったんスか?」
そういえば、と思い当たる節があって興味本位で訊いてみる。
葉崎さんは手を打って「ああ、それはですね」と嬉しそうに笑って答えてくれた。
「格闘ゲームです。兄が、引きこもった私へ気分転換に勉強以外もどうだって貸してくれたんですが、見事にのめり込んじゃって。あの子にもおすすめしたら快く遊んでくれました。あの子、覚えがいいからすぐに強くなって、私もコンピューター以外と戦えるのが嬉しくて、気づけばいっつも夜更かししちゃって……二人でこっそり夜食にカップラーメンを食べたりなんかもして……そしたら、あの子が近所のラーメン屋さんを調べたり、してくれて……今度、行こうって……誘って……くれて……」
葉崎さんの言葉が、少しずつ、変に途切れ出す。
「あの頃は……楽しかった、な……」
何かおかしい。異変に気づいた頃には遅かったのか、葉崎さんの身体が横へ傾いた。
「葉崎さんっ!?」
急に意識を失ったように倒れゆく彼女へ片腕を伸ばし、支え切れずその場に一緒にへたり込む。
熱中症だろうか。路地は影になっていると言えど、日本の蒸し暑さは外にいるだけで体力を蝕む。
身体を冷やせるものもない現状、対処が分からず、何度か呼びかけて肩を揺すった。すると、葉崎さんがうっすらと目を開けてくれたので、俺は安堵の息を大きく吐き出す。
「……あれ、……私、なんで倒れて……」
「お、俺の台詞ですよ……。大丈夫スか……?」
「あ、はい……。大丈夫です。二度も助けてもらってしまったみたいで……ありがとうございます」
申し訳なさそうに微笑んだ葉崎さんは何事もなかったみたいに立ち上がり、服に付いた汚れを手でぽんぽん叩き落とす余裕まで見せた。
だ、大丈夫なのか。倒れるって、結構一大事だと思うのだが。
「あ、あの……気をつけてくださいね。また襲われたり、倒れたりなんかしたら、ティアも心配するだろうし」
なんなら初対面の俺まで心配で、葉崎さんの身を案じて言葉を掛ける。
葉崎さんは、きょとんとした顔で俺を見つめた。
「……ティア、って……?」
彼女が倒れた原因を、その一言で理解する。
「なっ……なんでもないッス! すいません、変なこと言って! でもマジで気をつけてくださいね!」
「え、ええ。ありがとうございます。でも、千寿井さんもお一人で複数に立ち向かうような無茶はあまりなさらないでくださいね。危ないですから」
「しませんしません! 分かってますって!」
腕も首も過剰に振って否定した俺が嘘臭かったのか、葉崎さんは困ったように眉尻を下げたが、それでは、とあっさり背を見せて路地を去っていく。
俺は、彼女の靡く黒髪がビルの輪郭の外へ消えた途端、壁に寄りかかってずるずると下り、座り込んだ。二万もするグレーのパンツが汚れようがどうでもいい。抱えた膝に額を押し付ける。
俺が目の当たりにしたのは、目元が赤らむくらい泣くほど大事だっただろう記憶が、神によって奪われた瞬間だった。
喉から吐き出される、か細い息が震える。
怖いと思う。だって、記憶はその人が生きた証だ。それがこんなにも容易く奪われるなんてこと――自分が自分じゃない何かにされることを、怖いと感じるのは当たり前だ。
ティアが俺を中華料理屋に連れて行ったのも、格ゲーで白咬を倒したのも、暴力はゲームの中だけだって説教したのも、全部、葉崎さんから教わったからだろうに。
それを持っているのがもう、ティアだけだなんて。怖いだろ。
だから。
「……忘れたくねぇ……」
ティアと俺の思い出を、俺だけが手放す。
ただ、それだけが怖くて、寂しくて、嫌だった。
俺の偽物の恋は、存在すんのも烏滸がましいかもしんないけどさ。
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