第47話 雨上がりのリスタート
金曜日の午後、大学のキャンパスは週末を目前にした浮ついた空気に包まれていた。俺は講義を一本終えたあと、学内のカフェテリアで昼食をとっていた。
陽葵とは、今朝別れ際に「今日も来られそうなら、また音出してみよう」と約束をしていた。あの夜以来、彼女は少しずつではあるけれど、確かに変わってきている。
……いや、正確には変わったのは俺のほうかもしれない。
「なあ、最近さ、お前……陽葵さんと、なんかいい感じじゃね?」
対面に座っていたのは、軽音サークルの友人・谷口だ。いつも通り、カレーに生卵を落としてかきこみながら、妙に鋭いツッコミを入れてくる。
「そうか?」
「そうだよ。前は“元同じ部活の人”って感じだったのに、今は……なんていうか、違う。お前の目が優しすぎる。キモい」
「うるさい」
「いやマジで。人にギター教える時も“そこ違うぞ”とかクールに言ってたのに、陽葵さんには“……無理すんなよ”とか“今日はやめとこうか”とか……あれ絶対惚れてるだろ?」
図星だった。
けれど、それを認めるには少しだけ時間が必要だった。
「……でもさ、あの人、あんだけ気強くて怖いって言われてるけど、最近はちょっと変わってきてるよな」
谷口の言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。
「それは……本人の努力だよ。俺なんかより、ずっと、強い」
「ふーん」
谷口はにやにや笑いながら、ジュースを吸った。
「でも、お前がそばにいたのは大きいと思うぜ。……なあ、今度さ、陽葵さんも連れてバンド練やんね?」
「吹奏楽と軽音は別物だろ」
「違ぇーよ。音楽は音楽だろ。ほら、なんかカホン叩く子とかさ、ホルンとアコギとボーカルと……面白くね?」
そんなふうに、周りの人間が「繋がろう」としてくれていることが、今は何よりも嬉しかった。
*
午後五時、俺はアパートの部屋で陽葵を迎えた。
白いワンピースの上に、淡いグレーのカーディガン。体調は完全じゃないにしても、顔色はかなり良くなっていた。
「……来たよ」
「いらっしゃい。無理、してないか?」
「してない。来たかっただけ。……その、音……また合わせたくなったの」
俺は頷き、ギターを抱える。
彼女はケースからホルンを取り出し、丁寧に構えた。
昨日より、少しだけ表情が柔らかい。
「……ねえ、これからも、ずっとこうしていられるかな」
「わかんない。でも、今は——できる」
その瞬間、部屋に音が生まれた。
雨上がりのような、やわらかくて、でも確かな音。
陽葵のホルンと、俺のギターが再び重なり合う。
それはまるで、昨日の続きの夢を見ているようだった。
*
週末、俺たちはとある小さな音楽サロンのステージにいた。
軽音サークルの先輩が定期的に開いているアコースティックライブイベント。そのリハーサル枠をひとつ譲ってもらったのだ。陽葵が「他人の前で音を出す」のは、高校最後の定期演奏会以来になる。
観客はまだいない。ただ、サークルの仲間が数人、控えめに見守っているだけ。
だが、それでも彼女の手はわずかに震えていた。
「大丈夫。ここでなら、失敗してもいい」
俺の言葉に、陽葵は小さく頷く。
「……ううん、失敗しない。だって、わたし……もう一度吹きたいって、思ってるから」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
これは、陽葵自身の意思だった。誰かに強いられたものじゃない。逃げ場からじゃなく、前を見て選んだ音。
彼女がホルンを構える。
静かな会場に、最初の音が鳴った。
——やさしくて、澄んでいて、それでいて、どこか懐かしい。
それは、俺の記憶の中にあった陽葵の音色だった。でもそれ以上に、今この瞬間を生きている、彼女だけの音だった。
「……綺麗だったよ」
「……ほんとに?」
「ああ。最高だった」
リハを終えて帰る途中、陽葵がぽつりと言った。
「昔ね、わたし、お母さんに言われたの。“ホルンなんか、女の子らしくない”って。“そんなの吹いてるから友達もできないのよ”って」
俺は言葉を失った。
彼女がずっと背負っていた“何か”。それが、少しだけ明かされた気がした。
「でも、今日吹いて思ったの。——好きなんだって。やっぱり、音楽が。ホルンが。だから……もう、誰にどう思われてもいい」
そのときの陽葵は、泣きそうな顔で、でもどこか吹っ切れた笑顔だった。
「……じゃあさ」
俺は立ち止まり、彼女の隣に並ぶ。
「俺と、また一緒にやろう。ゆっくりでいいから。音楽を」
「……うん」
彼女は、涙をこらえながら、けれどはっきりと頷いた。
そしてその夜、俺はひとつ、心の中で決めた。
——もう、彼女をひとりにしない。
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