第46話 再生の音、微かな始まり

いつもより、少し早起きした。


窓を開けると、冷たい風が部屋を撫でた。冬の入口。もう、朝にギターを触るには指先が固い。けれど——。


それでも、俺は今日も弦を張る。


弾く理由が、やっと見つかったから。







陽葵の病室は、昨日と同じ匂いがした。無機質な消毒液と、何かを諦めた空気。でも、それはもう過去の話になるかもしれない。


「……おはよう」


陽葵は、カーテン越しにそっと俺を見た。目に宿る光は、数日前よりずっと静かで、そして澄んでいた。


「おはよう」


それだけの挨拶が、妙に重く感じる。何もかもが壊れそうで、でも、壊したくないから、俺たちは言葉を慎重に扱う。


「……昨日、夢を見たの」


陽葵がぽつりと呟いた。ベッドの上で、手を組んでいる。


「高校のときの、定期演奏会の夢」


「あのホールの?」


「うん。……あなたが、後ろから見てる夢。演奏してる私を。何も声をかけずに。静かに」


「……夢、か」


「でも、なぜかそのとき、すごく嬉しかった。——私の音を、誰かがちゃんと聴いてくれてる気がして」


その言葉に、胸が詰まった。


俺は、彼女の音から逃げた。


だけど、彼女はずっと、それでも「誰かに届く音」を信じていた。


病室の隅に置いてあった黒いケースに、彼女の手が伸びた。開かれたその中には、ホルンがあった。錆びついてはいない。丁寧に磨かれていた。


「……吹いてみたの。昨日の夜」


「え?」


「すごく音が割れて、でも、確かに響いたの。……自分の中でね」


陽葵は、目を伏せながら、微笑んだ。


「ねえ、私、少しずつでいいから、音楽に戻ってみてもいい?」


「……もちろん」


気づけば、俺の声も震えていた。


逃げていたのは、俺の方だったのかもしれない。


「でも……私ひとりじゃ、怖いかもしれない」


その声に、俺はそっとギターケースを開いた。木の香りと、柔らかい光のような弦の響き。


「だったら、俺と一緒にやろう」


はっきりと、言った。


「また、音楽を。あの日の続きを。……今度はちゃんと、隣で聴いてるから」


陽葵の目に、涙が浮かんだ。


それは、悲しみじゃない。


——再生のはじまりの、涙だった。







リビングの真ん中、ホルンとアコースティックギターが向かい合っていた。


不思議な光景だった。かつて同じステージに立っていたふたりが、大学に入ってからはまるで別の道を歩いてきた。もう交わることはないと思っていたその音が、今、ふたたび並んでいる。


「……緊張する」


陽葵が笑った。珍しく、素直な表情だった。頬にまだ微かに熱が残っている。病み上がりの体は本調子じゃない。でも、彼女の目だけは確かに「前」を向いていた。


「俺も。……でも、楽しみでもある」


俺はギターのペグを軽く回しながら、弦を確かめた。


「曲は?」


「……あの曲がいい」


陽葵が言った。


「あのとき、私がひとりで吹いてた——卒業式のあの曲」


俺の手が止まる。


あの日。高校の体育館で。最後の演奏で、俺は指揮台の脇で見ていただけだった。


陽葵のホルンだけが、天井に向かって真っ直ぐに響いていた。


でも彼女は、誰にも届かなかったその音をずっと覚えていた。


「ギターで合わせられる?」


「……やってみる」


俺たちは、深く息を吸った。


リズムも、テンポも、キーも完璧じゃなかった。


でも、そこには確かに「合っている」音があった。


陽葵のホルンが、静かに旋律をなぞる。繊細で、けれど芯のある音色。


俺のギターがそれを支えるように、コードを刻んだ。


ふたりの音が、ひとつになった。


——その瞬間、俺は理解した。


あのとき、陽葵が言った「誰かが聴いてくれている気がした」っていう言葉の意味を。


俺は、ずっと彼女の音を恐れていた。


才能に、過去に、責任に。


でも今、ただ音を重ねることで、こんなにも素直になれる。


曲が終わるころ、陽葵の肩が小さく震えていた。


「……ありがとう」


「こっちこそ」


「私ね、もしかしたら——」


言いかけて、彼女は目をそらした。


「……まだちゃんと聴こえてるわけじゃない。でも、今のは心で聴こえた気がしたの」


 それは、多分本当のことだった。


 耳じゃなく、心で感じた音。


 言葉よりも深く、表情よりもまっすぐに届くもの。


「……じゃあ、次も一緒にやる?」


「うん」


陽葵が笑った。


この微かな始まりを、俺は一生忘れないだろう。


こうして、俺たちは再び音を重ね始めた。


これは、再生の音——


そして、最初の約束の始まりだった。

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