第46話 再生の音、微かな始まり
いつもより、少し早起きした。
窓を開けると、冷たい風が部屋を撫でた。冬の入口。もう、朝にギターを触るには指先が固い。けれど——。
それでも、俺は今日も弦を張る。
弾く理由が、やっと見つかったから。
*
陽葵の病室は、昨日と同じ匂いがした。無機質な消毒液と、何かを諦めた空気。でも、それはもう過去の話になるかもしれない。
「……おはよう」
陽葵は、カーテン越しにそっと俺を見た。目に宿る光は、数日前よりずっと静かで、そして澄んでいた。
「おはよう」
それだけの挨拶が、妙に重く感じる。何もかもが壊れそうで、でも、壊したくないから、俺たちは言葉を慎重に扱う。
「……昨日、夢を見たの」
陽葵がぽつりと呟いた。ベッドの上で、手を組んでいる。
「高校のときの、定期演奏会の夢」
「あのホールの?」
「うん。……あなたが、後ろから見てる夢。演奏してる私を。何も声をかけずに。静かに」
「……夢、か」
「でも、なぜかそのとき、すごく嬉しかった。——私の音を、誰かがちゃんと聴いてくれてる気がして」
その言葉に、胸が詰まった。
俺は、彼女の音から逃げた。
だけど、彼女はずっと、それでも「誰かに届く音」を信じていた。
病室の隅に置いてあった黒いケースに、彼女の手が伸びた。開かれたその中には、ホルンがあった。錆びついてはいない。丁寧に磨かれていた。
「……吹いてみたの。昨日の夜」
「え?」
「すごく音が割れて、でも、確かに響いたの。……自分の中でね」
陽葵は、目を伏せながら、微笑んだ。
「ねえ、私、少しずつでいいから、音楽に戻ってみてもいい?」
「……もちろん」
気づけば、俺の声も震えていた。
逃げていたのは、俺の方だったのかもしれない。
「でも……私ひとりじゃ、怖いかもしれない」
その声に、俺はそっとギターケースを開いた。木の香りと、柔らかい光のような弦の響き。
「だったら、俺と一緒にやろう」
はっきりと、言った。
「また、音楽を。あの日の続きを。……今度はちゃんと、隣で聴いてるから」
陽葵の目に、涙が浮かんだ。
それは、悲しみじゃない。
——再生のはじまりの、涙だった。
*
リビングの真ん中、ホルンとアコースティックギターが向かい合っていた。
不思議な光景だった。かつて同じステージに立っていたふたりが、大学に入ってからはまるで別の道を歩いてきた。もう交わることはないと思っていたその音が、今、ふたたび並んでいる。
「……緊張する」
陽葵が笑った。珍しく、素直な表情だった。頬にまだ微かに熱が残っている。病み上がりの体は本調子じゃない。でも、彼女の目だけは確かに「前」を向いていた。
「俺も。……でも、楽しみでもある」
俺はギターのペグを軽く回しながら、弦を確かめた。
「曲は?」
「……あの曲がいい」
陽葵が言った。
「あのとき、私がひとりで吹いてた——卒業式のあの曲」
俺の手が止まる。
あの日。高校の体育館で。最後の演奏で、俺は指揮台の脇で見ていただけだった。
陽葵のホルンだけが、天井に向かって真っ直ぐに響いていた。
でも彼女は、誰にも届かなかったその音をずっと覚えていた。
「ギターで合わせられる?」
「……やってみる」
俺たちは、深く息を吸った。
リズムも、テンポも、キーも完璧じゃなかった。
でも、そこには確かに「合っている」音があった。
陽葵のホルンが、静かに旋律をなぞる。繊細で、けれど芯のある音色。
俺のギターがそれを支えるように、コードを刻んだ。
ふたりの音が、ひとつになった。
——その瞬間、俺は理解した。
あのとき、陽葵が言った「誰かが聴いてくれている気がした」っていう言葉の意味を。
俺は、ずっと彼女の音を恐れていた。
才能に、過去に、責任に。
でも今、ただ音を重ねることで、こんなにも素直になれる。
曲が終わるころ、陽葵の肩が小さく震えていた。
「……ありがとう」
「こっちこそ」
「私ね、もしかしたら——」
言いかけて、彼女は目をそらした。
「……まだちゃんと聴こえてるわけじゃない。でも、今のは心で聴こえた気がしたの」
それは、多分本当のことだった。
耳じゃなく、心で感じた音。
言葉よりも深く、表情よりもまっすぐに届くもの。
「……じゃあ、次も一緒にやる?」
「うん」
陽葵が笑った。
この微かな始まりを、俺は一生忘れないだろう。
こうして、俺たちは再び音を重ね始めた。
これは、再生の音——
そして、最初の約束の始まりだった。
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