第5話

 俺は、生きていた。

 この事実だけで、今夜は祝杯をあげていいレベルである。


 森はまだ燻っていた。

 コウスイカ(仮)は爆発四散し、テツウロコ(仮)は炎上自滅。

 俺はというと、かろうじて爆風の外、地面を這って逃げ切った形だ。


 そして今、

 俺は――歩いている。

 ふらつく脚取りで、森を抜け、帰路を辿っている。


 この足取りには意味がある。

 なぜなら俺は、今や――火を起こせる男なのだ。


「……あの石、持って帰らないと」


 そう、小さな、だが確かな革命の象徴――火打石(仮)である。

 これこそ、今日得た最大の戦利品。


 ――そして我が家(仮)に帰還。


 小屋の輪郭が見えた瞬間、安心感が全身を包み込む。


 ツタと枝で組んだ屋根は健在だ。雨はきっちり防いでいる。葉の重ね方も完璧とは言えないが、俺なりに考えた末の“構造”である。


 それは良かった。

 問題は――俺が、びしょびしょだった。


 え、なんで?


 いまさらながら気づく。

 家は雨をしのいでいたのに、俺はその外で、全編フルスロットルの死闘を繰り広げていたのである。


 火をつけ、爆発を起こし、モンスターを焼き、森を駆けて、粘液に絡まれ――


 そう、自分の家を作っておきながら、その恩恵をまったく受けずに外を走り回っていた。文明を得て、なお野蛮に過ごす。もはや矛盾。自己否定の極みである。


 俺は、屋根の下に座り込んだ。屋根はしっかりしている。それなのに俺は全身ずぶ濡れだ。


 そして、ようやく“体温”というやつが、致命的に足りていないことに気づいた。


 寒い。


 寒いぞこれは!!


 恐るべきはアドレナリンである。

 あの戦闘(?)の最中、俺の五感は鋭く、冷静で、的確だった。


 だが、安心した今――急に寒気が襲ってきた。


 ここで頼るべきは、あいつしかいない。

 そう、火打石(仮)――この異世界における、俺の初めての“神器”。


 今度こそ、俺の手で火を起こす。


 まずは、小枝と葉っぱをかき集める。できるだけ乾いてそうなものを、指の感覚を頼りに選別。幸い、マイホーム(仮)の屋根の下には、少しだけ“乾き”という概念が存在していた。


 枝、ちぎった葉、アルミの切れ端。すべてを総動員して、俺は小さな焚き火の素を作った。


 そして、火打石。


 スマホなしでも、火は起きるのか?


 試してみるしかない。


 カチ、カチ。


 数回の失敗。そして――


 ビシュッ。


 火花が飛んだ。わずかに。

 だが、飛んだ。


 集中する。狙う。狙って、石を――打つ!


 息を吐きながら角度を変え、


 シュッ。


 ポッ……!


 ついた。


 小さな葉の先端から、ちろちろと舌のように赤が広がっていく。


 焚き火の誕生である。


 火を囲み、気づけば、俺は丸まっていた。濡れた服は、火で少しずつ乾いていく。


 火がゆらゆらと揺れ、時折ぱちりと弾ける。その音が、子守唄のように響く。


 もう、眠っていいんじゃないか?


「……ほんとに、今日は……生き残っただけで……満点……」


 まぶたが重い。火の光が、ゆらゆらと夢の中に溶けていく。


 火の明かりが、俺の寝顔を照らしていた気がする。


 俺は火のそばで眠った。

 びしょ濡れの帰還から、文明の灯を起こし、

 ようやく、“夜を越える力”を手に入れて。


 *


 夢を見ていた気がする。


 あったかいこたつの中で、ミカンを剥いている夢だ。白い筋がきれいに取れたミカンを口に放り込むと、甘さが舌に広がる。隣にはツナマヨおにぎり――ではなく、なぜか大福が鎮座していた。しかも二段重ね。上に乗っていたのは、謎の生き物だった。青白く光りながらぬめぬめしていて、やたらと香っていた。


「……くさいっ」


 俺は跳ね起きた。現実だ。しかも、割とくさい。粘液臭が、体のどこかにまだこびりついている気がする。焚き火はすでに灰になりかけ、かろうじて炭の奥で赤い火が名残惜しげにゆれていた。


 朝だ。


 森の奥から、小鳥の鳴き声(たぶん)が聞こえる。声の主が鳥かどうか、正直かなり怪しい。だが、音の質としては“さえずり”である。つまり、朝である。


 体が、じんわりとだるい。寝返りを打っただけで背中のあちこちが悲鳴を上げた。昨日の死闘――いや、生還劇が夢じゃなかったことを、関節の痛みが証明してくれている。まったく、律儀な肉体だ。


 火の力はすごい。濡れた服はほぼ乾いており、体温も、それなりに維持されている。だが、次なる敵が現れた。


 ――渇き。


 喉がカラッカラである。


 いや、俺は昨日“飲水による撃沈”という、非常に教訓的な出来事を経験したばかりである。にもかかわらず、この肉体はあくまでも喉が渇いたというのである。

 まったく、人間とはなんと愚かで、なんと水に弱い存在なのだろうか。


 前回はあんなに清らかな見た目に騙されて、腹を盛大に下したのだ。今度こそ慎重に行こう。


 森をさまよい、汗と不信感に塗れながらようやく再び辿り着いた水場は、前回の泉とは別の、小さな流れ込みのある浅瀬だった。

 石が敷き詰められたような底に、澄んだ水がさらさらと流れている。見た目良好。匂いなし。悪意、不明。


「さて……いけるか?」


 水を少量、掌で掬って口に含む。ごくり。

 数分待つ。腹が暴れない。いける。これは、いける!


 俺はようやく喉を潤しながら、水面を覗き込んだ。そこで、見つけてしまったのだ。


 ――奴らを。


 銀色に輝く平たい魚体。細長い体をくねらせて泳ぐその群れは、異様なほどに“整って”いた。


 それだけなら、まだよい。


 問題は、全員が。


 ――俺の方を見ているのだ。


「お前……なんで、そんな見てくるんだよ……?」


 思わず声が出た。


 魚は、普通こうではない。逃げる。群れる。あるいは無関心を装う。それが魚の美学ではないのか?


 だが、こいつらは違った。完全なる“対面姿勢”で俺を見ていた。目が、正面から。正真正銘の“正面”である。平たい顔を、やや上向きに傾け、じっと。じぃぃぃっと。


 見られている。見続けられている。無言で、無遠慮で、異様に真正面から。


「真正面すぎるだろ……!」


 震える声で呟いたその瞬間、俺はこいつの名を得た。


 真正面魚(仮)。


 命名即決である。俺の脳が自動翻訳した名だ。


 こいつらは、異世界における“目ヂカラ系魚類”の代表である。

 名前を与えたからには、付き合わざるを得ない。


 これまで俺が口にしたのは、あのユウリカの実(仮)だけだ。だが、糖分と繊維だけで生きるには限界がある。


 欲しいのは、タンパク質。そして、焼き魚。


「……なあ、お前ら。そこまで堂々とされると、もう……な?」


 これは挑発だ。明らかに。

 言葉なき意志表示。「さあ、かかってこい」と魚に言われたのは、生まれて初めてだ。


 ならば――受けて立とう。


 選択肢はない。

 網も釣り糸もない俺にできるのは、ただひとつ。


「手づかみしかないよなあっ!!」


 気合いとともに、俺は水に飛び込んだ。


 バシャッと音を立てて浅瀬に突っ込み、真正面魚の群れに向かって、両手をぶんっと突き出す。


 こいつら、逃げない。むしろ、「おう、来いや」と言わんばかりに、こちらを見据えたまま動かない。


 ――ありがとう。君たちのそのナメた態度、今だけは感謝する!


 がしっ。


 掴んだ。


 銀の体が、ヌルッとした感触を残して暴れたが、俺の指はもう離さなかった。


「とったどーーー!!!」


 言った。叫んだ。水を滴らせたまま、勝ち誇って。


 これは、勝利である。異世界における、初めての“魚類確保”の瞬間である。


 帰還。マイホーム(仮)へ。


 火は、再び起こした。火打石(仮)との息もだいぶ合ってきた気がする。文明の歩みとは、つまり“慣れ”である。


 料理法?そんなもん、


 “ただ焼くだけ”だ!!


 木の枝を串のように通し、焚き火の上にそっとかざす。


 火の上で、真正面魚(仮)はじゅうじゅうと音を立てた。

 皮がパチパチとはぜ、脂が炭に落ちて煙を上げる。


「……うまそう……」


 塩も味噌も醤油もないのに、なぜこんなに“飯感”がある?


 我慢できなかった。

 皮がこんがりしてきたところで、俺は魚を枝ごと持ち上げ――


 かぶりついた。


「……っ!!」


 瞬間、全身に電流が走る。


 うまい。

 うますぎる。

 なにこれ!?このジューシーさ、この香り、この熱と脂のコントラスト!


 これが、肉の力か。

 人類が火を使い、魚を焼いて生き延びてきた理由が、五感で理解できた。


 ふっくらした白身が口の中でほどけ、

 わずかな苦味と甘さが混ざり合い、

 それが、飢えた俺の舌と脳に、直撃する。


 目が、思わず潤む。

 この異世界で、初めて“ちゃんとした食べ物”にありつけた瞬間だった。


 口の中に広がる、うま味。


 この差は大きい。心の栄養価が段違いである。


 これはただの食事じゃない。これは、文明の第二歩なのだ。


 それだけで、今日は――祝日にしていい気がした。


 だが、俺は思ってしまった。


 これは、たまたま上手くいっただけじゃないか?


 真正面魚は俺を挑発してくれたし、火打石(仮)は運よく火花を出してくれた。

 でも、次は? 次も“うまいことやれる”保証はどこにもない。

 この世界には、俺の知らない植物やら巨大獣やら、そして謎のにおいまで、ふんだんに取り揃えられているのだ。


「……道具がいる」


 俺はポツリとつぶやいた。


 真正面魚を手づかみしたせいで、爪の奥までヌルヌルが残っている。


 強さの象徴でなく、もっとこう……日用品でいい。

 今俺に必要なのは、聖剣でもバールでもなく、“道具”。

 すなわち、生活力である。


 こうして始まった、俺の“文明第三歩”計画。


 火は手に入れた。魚も刺した。

 では、次に我が文明が欲するものは何か?


 ――刃物である。


 魚の腹を裂くにも、枝を削るにも、今の俺は素手でゴリゴリするしかない。これはいけない。文明人を名乗るにはあまりにも無粋だ。せめて包丁くらい欲しい。

 いや贅沢は言わない。爪切りレベルでもいい。刃物、それだけでいいのだ。


「ならば作るしかあるまい、石の刃!」


 というわけで、俺は“刃探し”の旅に出た。


 狙うは――黒曜石だ。


 そう、あの黒いガラスのような火山の産物。中学の理科で習った覚えがある。マグマが急激に冷えて固まると、割ると鋭い刃のような破片になる、と。実際、原始人はそれで矢じりやナイフを作っていたらしい。


 要するに、「黒曜石(仮)さえ見つければ勝ち」なのである(いや勝ちではない)。


 問題は、ここに黒曜石が存在するかどうかだ。


 火山の痕跡……地熱とか温泉とか、そういうものがあれば望みはあるが、生憎と昨日まで俺がうろついていた界隈はじめじめした森林地帯だった。


 だが、幸運にも思い当たるフシが一つある。


 確か小屋を出て、少し歩いた先で地面が温かい場所があったのだ。足裏で感じた微かなぬくもり。最初は日光で温まったのかと思ったが、朝方なのにほんのり暖かかった。ひょっとすると、あれが地熱というやつではないだろうか?


 いても立ってもいられなくなった俺は、最低限の荷物を抱え、そこへ向かった。


 濡れる雑草をかき分け、軽い上り坂になっている獣道(らしき道)を進む。


 ほどなくして、景色が変わった。


 背の高い樹木が途切れ、地面は剥き出しの岩肌を覗かせている。所々に白い湯気のようなものが立ち上り、鼻をつく硫黄じみた臭いが漂ってきた。ビンゴである。微地熱エリア、発見だ。


 そして、その中心部に近づくにつれ、さらにおあつらえ向きのものが見えてきた。


 黒い石片が点々と、しかも割れ口が鋭い!見た目からして“それっぽい”!手に取ると、重さはしっかり、角は尖って、光沢も怪しく美しい!


「黒曜石(仮)、ゲットだぜ!」


 興奮するのも無理はない。俺はついに、“刃になりそうな石”を手に入れたのだ。


 そこからの俺は、もはや炭鉱夫である。


 大小さまざまな黒曜石(仮)を拾いまくり、ついでに謎の白っぽい石(軽石っぽい)もポケットに詰めた。用途?知らん。工作心をくすぐられたから拾った。DIYあるあるである。


 両手いっぱいに石を抱え、俺は軽快な足取りで来た道を引き返した。

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