第5話 下層スラムの真実

 第三層の夜明けを背に、九条廉とルーシェ=ヴァンデルは貨客混載エレベータの陰から滑り降り、再び第四層のさらに下――「零層」と呼ばれる非登録区画へ踏み込んだ。

 空気は灰色の星霧を孕み、鼻腔の奥がひりつく。天井を覆う排気ダクトは錆で穴だらけとなり、不法電源ケーブルが蜘蛛の巣のように垂れ下がる。集合住宅の外壁には剥げた賃貸広告が貼り重なり、路地の至る所に〈記憶買取〉と殴り書きの看板が下がっていた。


 「正式な地図もないスラム。評議会は“整理予定地区”と呼ぶけど、実質見捨てられた場所よ」

 ルーシェの声は低い。赤い瞳が暗闇を映し、ときおり光る。

 「君の故郷だと宿の婆さんが言っていた」

 彼女は肩をすくめた。「生まれた長屋はもう崩れたわ。ここじゃ記憶を売らなきゃ家賃も払えない。だから皆、忘れてもいい思い出を切り取って現金に換える――いや、換え させられる 」


 舗装の割れ目から染み出る星霧水を避けながら進むと、小広場に出た。錆びた公衆噴水の傍らで、十人ほどの行列が出来ている。列の先には可搬式診断機を据えた移動屋台。

 「見て」ルーシェが囁く。

 診断機のキャスターに跨った男が列の少年のこめかみに接触端子を当てる。緑の診断灯が瞬くと、少年はぼんやりと笑い、掌に薄青いチップを握らされて去った。その後を医療白衣風の女が追い、案内人の金属杖で肩を叩いて通路へ誘導する。

 「一次切り取り」ルーシェの拳が震える。「二時間前の記憶を部分抽出。鮮度が高いから高値になる。けど処理が荒いと情緒が崩れるわ」


 列の後方、幼い妹を抱いた少女が順番を待つ。妹は熱に浮かされたように頬を染め、咳をこぼす。

 「治療費を買うための取引か……」廉は言葉を失った。

 読み取り機の男が叫ぶ。「次! 子供向けは今なら上乗せだぞ!」

 少女の瞳が揺れた――その瞬間、前につんのめり、腕の中の妹が哮り声を上げて泡を吐いた。

 診断機の男は眉をひそめた。「病気? 感染性かもな。減額だ減額」

 「お願い、薬を……!」少女の声は掠れ、列の大人たちが視線を逸らす。


 廉は一歩踏み出した。しかし腕を掴む手がある。ルーシェだ。

 「止めたら? ――でもね、ここのルールは“自己責任”って言葉じゃ片付かない。救えば他の誰かが列に並ぶだけ。あなたの記憶を削っても終わらないわ」

 「それでも目を背けたくない」

 廉は《カリスト》を思い浮かべる。魔力残弾はまだ乏しい。力づくで解決は無理だ――なら。

 彼は鞄を開き、昨夜ルーシェから渡された星霧資格証を取り出した。身分保証上限三百蒸気ルクス、貨幣換算で下層の薬代なら十分に足りる。

 「これを売る。査定は通るだろ?」

 ルーシェが瞠目した。「本気? あなたの身分証なのに」

 「偽造は得意だったよ、研究所時代にな。別件用にまた作るさ」


 資格証を掲げて屋台に割り込むと、人々の視線が集まる。診断機の男が舌打ちしながら装置のスキャナを廉へ向けた。

 「上層ギルド認証か。悪くない」

 「対価をその子に。医療用バイアルと食糧パックを」

 男は肩をすくめ、金属引き出しから封印薬パックを二つ押し出す。受け取った少女は何度も頭を下げ、妹を抱いて闇路へ消えた。

 列がざわつく。子どもたちの目が廉へ集まり、いくつかの手が戸惑いがちに拍手を送った。


 ルーシェが呆れ半分で笑う。「善人ぶったわね」

 「君に教えられたんだ。ここでは《忘れたくない》ものが支えになる」

 ルーシェの笑みがふっと陰り、目を逸らす。「……昔、私も列に並んだ。母が肺霧症で倒れた夜。まだ十一歳。解析眼が目覚めたばかりで数字の羅列しか世界を見られなかった」

 廉は息を飲んだ。「自分の記憶を売ったのか?」

 「ううん、売れなかった」彼女の指が胸のペンダントに触れる。

 「診断機に拒絶されたの。目の解析層が特殊すぎて測定不能だった。それで医者は母を見捨てた。薬は買えず、母は翌朝――」

 言葉が途切れた。喉奥で硬いものを呑み込む仕草。

 「ごめん。言わせたくなかった」

 「いいの」ルーシェは微笑む。「だから私は解析眼で稼いで、同じ目に遭う子を減らすって決めたの。記憶を売らなくても、生きられる仕組みを作る」

 廉は頷き、心の中で小さく誓った。――彼女の目標を手伝おう。自身の帰還方法を探す道と交わるかはわからないが、星霧が示す未来より大切なものがあるはずだ。


 *  *  *


 スラムの最奥、崩れた工場跡に立つ巨大なタンク屋根の下。地面に刻まれた魔術陣から白光が噴出し、二人組の男が担ぐ木箱が光の柱に包まれている。

 「記憶晶の“圧縮儀式”だ」ルーシェの声が低く鋭い。「この貨物が上層へ流れると、評議会はますます記憶を管理できる」

 「止める手は?」

 「箱の封印を破ると儀式結界が反転して暴走する。ここ一帯が吹き飛ぶわ。迂闊には近づけない」


 その時、工場の高所歩廊で外套を翻す影が一つ。ラシェルだ。騎士団は既に取引を掌握していた。

 「捕まえるつもりじゃない。泳がせて上層で一網打尽?」廉が眉を寄せる。

 「違う、騎士団は元締めごと“処分”する気」ルーシェの解析眼が結界層を読み取り、震えた。「結界の中枢式、破裂型に書き換えられてる……彼ら、スラムの人間ごと燃やすつもりよ!」


 結界が轟音を上げ、タンク屋根に亀裂が走る。広場の人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。

 「カリスト、魔術式改竄は?」

 〈空間安定フィールド展開で強制停止可能。ただし魔力残弾十二%では使用者記憶負荷が臨界〉

 廉は唇を噛む。失う覚悟はある。しかし今度こそ戻らないかもしれない。

 「私が補助するわ」ルーシェがそっと肩に触れた。「記憶負荷は解析眼で分散させる」

 「そんなこと――」

 「母の形見を護るために得た目よ。使わせて!」


 廉は深く頷いた。「わかった。指示を」

 ルーシェが解析線を結界層へ重ねる。「外周第七層、座標β。そこに最初の切れ目がある!」

 廉は跳躍し、銃槍を突き立てる。星霧が渦を巻き、結界外殻がゆがむ。

 「次、γ! δ!」

 四点目を打ち込む頃、結界の光は脈動を乱し、白から茜へ変わる。ラシェルが歩廊から魔術矢を放ち妨害するが、《カリスト》は光の盾を自動生成し弾き返した。


 「今よ!」ルーシェが叫ぶ。

 廉は中心制御陣へ銃口を向け、残弾すべてを星霧弾に変換する。脳髄が軋み、胸骨の奥で記憶がきしむ。

 ――走るのは、母親の浴衣の柄。幼い頃の手の温度。

 撃ち放たれた弾が制御陣を貫き、広場に白閃が咲いた。暴走しかけた魔力が逆流し、結界が眩い霧となって散る。


 轟音が止み、タンク屋根の亀裂は消えた。残骸の静寂。生き残った住人が茫然と座り込み、遠くで赤子の泣き声が上がる。

 廉は膝をつき、肩で息をした。頭蓋の内部が空洞のように軽い。

 「記憶は?」ルーシェが不安げに覗く。

 「……大丈夫。カリストが……」

 〈保管率八二%。損失部位:研究棟夜食の詳細味覚記憶〉

 廉は苦笑した。「サンドイッチのマスタードが消えたかもしれない。でも生きてる」

 ルーシェは安堵のため息をつき、そっと彼の背を支えた。


 高所歩廊ではラシェルが動きを止め、通信水晶で誰かに状況を報告している。やがて騎士団の影は後退した。破裂計画が潰え、証拠を抱えたまま総員退避――上層の命令系統が混乱している証だ。


 *  *  *


 夕刻。零層から少し上がった高架廃駅。

 線路際に腰を下ろす廉に、ルーシェが缶入り栄養粥を差し出した。

 「効くわよ。私が列に並んだときに欲しかった味」

 「ありがとう」

 蓋を開けると、香草と豆の素朴な匂いが立ちのぼる。廉は一口すすり、笑った。

 「うん。マスタードよりいいかも」

 ルーシェの目尻がほころぶ。「記憶を預けても味覚は残るわ。――ねぇ、覚えてて。記憶を奪われても、こっちに“作り直す”ことはできるの」

 「解析眼の信念か」

 「そう。忘却は終わりじゃない。思い出は再構築できる。だから――あなたの灯を、ちゃんと取り戻そう」


 夕焼けが星霧を金と紫に染め、二人の影を長い線に伸ばした。

 遠くでは騎士団の索敵灯が再び燈っている。だが零層の闇に紛れた彼らを見つけるのは容易ではない。

 廉は空を翔(かけ)る霧の潮流を見つめ、胸に生まれる小さな決意を確かめた。


 “忘れてもいい過去”と“絶対に失いたくない灯”。

 その境界を選び取る力が、星霧と記憶の世界を変える鍵となるかもしれない――。

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