第2話 銀の猫目のルーシェ
星霧の海を仰いだ夜からひと刻。九条廉は〈黄昏街〉の迷路のような石畳を、薄い朝靄――都市の下層へ沈降してくる星霧の雲――を踏み分けて歩いていた。
路面には昨夜の雨が残した虹色の油膜が流れ、早朝の荷馬車が軋むたびに微細な光滴が跳ね上がる。湿気に満ちた空気は鉄と硫黄の匂いを孕み、異邦人の嗅覚に鋭く刺さった。
(宿代を払うための〈記憶〉を、いつまで切り出して凌げる?)
胸の奥で凍った焦燥が疼く。
この世界の貨幣価値は、硬貨よりも“人生の断片”だった。昨夜差し出した「バドミントン部の敗退試合」は痛手ではない──と思っていた。だが、朝になってラケットを握った感触やシャトルの回転音が思い出せないと気づいた瞬間、廉は言い知れぬ喪失感に襲われた。今はまだ些細でも、積み重ねれば自分が“自分”でなくなる。
白い霧の屋台街を抜け、香草粥の湯気にまぎれて視線を泳がせる。
(帰還方法を探す前に、まず情報網だ)
しかし最下層に近い第四層で“本物”を売る者は少ない。改竄年代記、偽造魔術レシピ、値踏みした記憶の切り売り──胡乱な露店がひしめく中で、彼はふと昨夜のやり取りを思い出した。
──宿屋ムネーメで帳簿に名を記したあと、老婆が薬酒の小瓶を押し付けながら囁いた言葉だ。
「黄昏街で道に迷ったら、“銀の猫目のルーシェ”を頼るといいよ。胸に目が行って思考が抜ける男も多いが、あの娘は筋金入りの情報屋さ。星霧の流れを読む〈解析眼〉と、山羊鞄に詰めた機密ファイルで、この層じゃ知らぬ噂はない」
「ルーシェ……?」
「ルーシェ=ヴァンデル。下層出身の苦労人でね。豊かな胸と早口がトレードマークさ」
冗談めかした調子の奥に、確かな敬意が混ざっていた。老婆は名を口にするたび、まるで上質な薬種を量る時のように慎重な目つきをしていた。その印象が廉の胸に残る。
(彼女を探せば何か掴めるかもしれない──)
けれど、どうやって? 通り一遍の聞き込みでは辿り着けそうにない。思案していたところへ、魚介スープ屋の主人が湯気越しに身を乗り出し、低い声で囁いた。
「本物の情報が欲しいなら〈風鳴りの裏路〉へ行け。荷受け人と“銀の猫目”が出入りする抜け道だ」
皿の底に沈んだ白い魚骨が、霧の粒を纏って虹色に光る。
廉は礼を述べ、代金の代わりに粥屋で見聞きした些細な噂を一つ教えてやった。情報の物々交換──この街の通貨は、やはり記憶と真実だ。
※ ※ ※
〈風鳴りの裏路〉は、三階建て家屋と錆びた渡り廊下が錯綜する薄暗い峡谷だった。無数のダクトが頭上を蛇行し、蒸気が白い瀑布のように垂れている。奥へ進むほど歩道は狭まり、浮浪児や記憶商人の影が壁際に貼り付いていた。
廉は敢えて視線を動かさず、足を速める。何度か袖を引く手があったが、振り払うと諦めは早かった。彼らの目的は財布──あるいは取りやすい〈思い出〉──であって、格好の悪い白衣を着た異邦人そのものには興味がないらしい。
やがて行き止まりの三叉路で、鋭い声が響いた――
「やめてって言ってるでしょ! データは渡さない!」
瞬間、冷えた空気がぴんと張る。
声の主は、背丈のあるフード付きの革コートを纏った若い女性だった。胸元に厚手の革紐で縛られたコート越しでもわかるほど豊かな曲線があり、細い腰との対比が目を引く。桃色がかった銀髪が毛先で跳ね、深紅の瞳に怒りと焦りが混じっている。周囲を囲むのは、顔の下半分を仮面布で覆い、鉤爪付きの短杖を構えた三人の男たち。
「ルーシェ=ヴァンデル。解析屋の嬢ちゃん。」
リーダー格と思しき大男が唸るように言った。
「昨夜〈記憶晶〉の摘発を嗅ぎ付けたのも、お前の“解析眼”だろ? ご注進のおかげで兄弟が二人、評議会の衛士に連れてかれたんだ。埋め合わせには上玉のメモワールが必要でねぇ!」
ルーシェ――宿屋で耳にした名前。廉の脳裏で点が線になる。
彼女は背後に回り込む者を鋭く牽制しつつ、腰のポーチを握った。そこには魔術式を簡易表示する水晶レンズが付いている。
「悪事を止めただけよ。逆恨みなら他所で──」
返答を待たず、男の一人が杖を振る。空気に赤黒い尾を引く魔術陣が展開し、鎖のような光条が伸びた。ルーシェは辛うじて跳んでかわすが、フードが弾け、豊かな胸元を包む緋色のブラウスがわずかに覗き、肩口から血が滲む。
「ッ……!」
彼女は痛みを押し殺し、指先で宙に不可視の式をなぞった。解析眼で読み解いた魔術封断――だが発動寸前、別の男が背後から粗い麻袋を被せる。
(まずい)
廉は反射的に飛び出した。
「やめろ!」
声は潰れ、喉が焼ける。三人の視線が同時に向く。得物を持たない異邦人に、一瞬だけ侮りの緩みが走った。
「勘弁しろよ客人。こりゃ俺たちと〈記憶〉の貸し借りだ」
だが廉は怯まず、地面に転がる鉄パイプを握った。
(交渉は不能。逃走も不可能。選択肢は──)
次の瞬間、男の杖が光を帯びた。魔力圧の衝撃が空気を裂き、廉の耳を噛むような甲高い共鳴音が響く。
脳髄が痺れる感触。星霧が呼応し、視界が青白く反転した。
――選べ。
昨夜、湖で聞いた声に似た囁きが脳裏を掠める。
魔術を行使する代償は〈記憶〉。だが使わねば、彼女は──。
「……くそっ!」
廉はパイプを捨て、無意識に両掌を前へ突き出した。呼吸と心拍を星霧の脈動へ同調させる。言語野に浮かんだ未習の呪文が舌の上で形を取り、ほとんど咆哮のように迸る。
「〈星紋・第一式 環光槍(アステル・ルミナス)〉!」
瞬間、掌の前で星霧が凝縮し、鋭い光槍となって射出された。
男の魔術陣を貫き、壁面を抉り、粉塵と閃光が轟く。衝撃波に叩きつけられた二人は呻き声を上げて崩れ落ちる。残る大男は叫び声をあげ、鎖の光を廉へ打ち込んだ。
稲妻のような鎖は肩を掠め、白衣を焦がす。焼けた繊維と皮膚の匂い。痛みが遅れて押し寄せる。が、その痛覚より鋭い何かが廉の頭蓋を刺し貫いた。
――記憶断裂。
小学三年の教室。白線で区切ったミニバスケットコート。得点を決めた時の歓声。
それが、ページを破り捨てるように消える。
膝が折れかけるが、歯を食いしばる。
(まだ終わらせない!)
廉は再度両掌を構える。光槍の残滓が螺旋を描き、別の式へ再編される感触。だがその瞬間、背後から細い声が飛んだ。
「待って! もう十分!」
麻袋を払いのけたルーシェが、肩で息をしながら手を伸ばしていた。彼女の瞳が測量器のように煌めき、廉の周囲に漂う星霧の流速を読み解く。
「これ以上打てば、あなたの記憶が崩れる!」
廉は拳を震わせ、光を霧散させた。
残った大男は膝をついて歯噛みし、怨嗟を呑み込むように唸る。
「覚えてろよ……ヴァンデル。評議会の影は長い」
仲間を担いで闇へ消える背を見届けると、廉はその場にへたり込んだ。胸が酷く締め付けられるのは魔力の反動か、それとも失った記憶の重さか――。
* * *
廃アパートの屋上。錆びた給水塔の脇で、ルーシェが持ち歩く応急箱の包帯が廉の肩に巻かれる。
「魔術痕、思ったより浅いわね。初めて撃ったにしては上出来」
「褒めてる場合かよ……」
廉は痛みで顔をしかめつつも、先ほどの異変に意識を向けた。胸奥の空洞感が冷たい。
「小学生の頃の……ある試合の記憶が、抜け落ちた」
口にした瞬間、喪失が具体的な重量を持った。己の古い体験と感情が、輪郭ごとなくなっている。
ルーシェは包帯を固定しながら、赤い瞳をわずかに伏せた。コートの前が開いて豊かな胸元を押さえる仕草に、包帯の端がふわりとかかり、彼女の横顔が夕陽に透ける。
「それが“代償式魔術”よ。星霧を回路に引き込み、自分のメモワールを焼いて燃料にする。経験豊富な術者は、切り離す記憶を緻密に選ぶけど……初撃で狙うのは難しいわ」
「……知らなかった。けど、そうするしか」
廉は手を握りしめる。天秤にかけたものが正しかったのか、答えは出ない。
ルーシェは肩をすくめ、くしゃりと笑った。
「ま、あんたが助けてくれたおかげで命拾いしたのは確か。礼はするわ。情報屋としてね」
そう言うと胸元のペンダントを外し、薄い金属板を廉へ渡す。
「〈星霧資格証〉——簡単に言えば身分の仮認証キー。下層で衛兵に止められたらそれを見せな。拾ったって言えばいい」
「それで通じるのか?」
「あたしのギルド印だもの。情報の“質”で食ってるから、嘘は吐かない」
風が給水塔を鳴らし、遠くの浮遊帆船が汽笛を上げる。
「さっき、あの男たちが言ってた……評議会の影。何なんだ?」
ルーシェは空を見上げ、仄紫の雲を透かす塔の輪郭を睨んだ。
「神託評議会は、星霧や魔術の全規格を牛耳ってる。下層の記憶商人はグレーゾーンだけど、最近は取締りが厳しい。彼らの利権が揺らぐと、こうして私みたいな仲買人に恨みが向くのさ」
「なるほど……」
廉は視界の端で自分の掌を見た。星霧が滞留し、指先に淡い光の線を描く。魔術は甘美な毒だ。喪失を対価に強大な力をもたらす。
「記憶が“燃料”って仕組み、いつ誰が作った?」
「定説じゃ、千年前の〈落星〉で世界が壊れたあと、人類が生き延びるために魔術学派を再編したって……でも正史は評議会が書き換えてる。私は裏付けのない物語より、街に落ちてる一次情報を信じるわ」
彼女の“解析眼”が薄く輝く。鋭さと、僅かな哀しみを宿した光だった。
「それで、あんたは? 自分のルーツはどこにあるの?」
「……遠い場所だ。帰る方法を探してる。でも今はそれより、借りを返したい」
廉は立ち上がり、星霧資格証を握り締める。
「君の情報網に協力させてくれ。まずは、この世界の基本構造を理解したい。経済、魔術、階層システム……全部だ」
ルーシェは目を丸くし、やがて楽しげに口笛を吹いた。
「面白い外来(よそびと)ね。じゃあ試験課題。〈記憶晶〉の闇取引ルートを一緒に追う? 邪魔が入る前に証拠を掴めば、上層へのコネも作れるかもよ」
「望むところだ」
廉は頷き、痛む肩を回してみる。まだ魔術の痕は熱いが、星霧がひと筋、傷をなぞるように流れ、痛覚を薄めた。
その刹那、脳裏の空白が微かにざわめく。失ったはずの小学生時代のコートサイド──歓声と汗の匂い──が薄い膜の向こうで揺れたが、手を伸ばす前に消えた。二度と届かない蜃気楼。
歯を食いしばり、廉は新たな決意を炎のように胸に灯した。
記憶を削って得た力なら──その力で、この世界に穿たれた虚構の綻びを暴いてみせる。
たとえ、さらに深い忘却を背負うとしても。
* * *
日暮れ。〈黄昏街〉のランプに火が入り、露台に吊るされた結晶灯が宵の色を映す。
廉とルーシェは人混みに紛れ、裏市場へ続く貨物リフトへ向かった。足元には夜風に揺れる星霧が絡まり、二人の影を銀色に縁取る。
「そういえば」ルーシェが歩きながら囁く。「魔術を撃つとき、詠唱を使ったでしょ? あれ、どこで覚えた?」
「……覚えがない。口が勝手に動いた」
「へぇ。外来人の言語適応、面白いね。解析眼でも完全に追えなかったわ」
彼女は含み笑いを浮かべる。廉は苦笑し、胸の空隙に手を当てた。
夜気の中で、星霧が静かに明滅する。
失われた少年の記憶──
しかし、その欠落すら彼を突き動かす原動力となりつつあった。
アウロラは無数の謎を抱えて夜へ沈む。
そして九条廉は、薄闇の路地で初めて魔術の痛みと甘さを識り、決して後戻り出来ない航路に足を踏み入れたのだった。
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