忘却のアウロラ ―神託都市と星骸の契約者―
@gyokuro33
第1話 星霧の空にて
――記憶の最果てで、彼は空を見上げた。星霧が揺らぎ、永劫の夜に白い波を打つ。だがそこへ辿り着くまで、九条廉は長い長い一日――いや、限界まで圧縮された数千時間分の労働を走り抜けていた。
午前四時。東京都心を見下ろす研究複合ビルの二十七階。壁全面を覆う強化ガラスには、黎明前の真黒な雲と、隙間に滲む鈍い街灯の輪郭が重なっていた。休憩スペースに置かれた自販機は停電モードで沈黙し、床に散らばった紙コップが空調の風に転がってカラカラと鳴っている。そこへ独り、白衣のままふらつく青年の影が伸びた。
「……カフェイン、切れたな」
九条廉――二十二歳。新素材プラズマ触媒のアルゴリズム設計チームに配属されてわずか十か月。にもかかわらず、次世代フルオート量子解析ラインの試作フェーズを、“新卒なのに徹夜が得意”ただそれだけの理由で丸抱えにされた。三週間無休、連続勤務二三八時間。彼の諦観は、すでに疲労という概念を通り越し、ガラスと太陽光が溶け合う白色雑音の中に倒錯した快感を見つける域へ達していた。
廉は自販機の前で一瞬立ち止まる。ポケットのICカードを読ませるだけの簡単な行為。それさえも指が認識を拒み、ICチップが読み取りエラーを起こした。表示パネルが赤く点滅し、彼の影が壁に歪む。さもありなん、と肩を竦めた瞬間、両肩から背骨へ釘を打つような鋭い寒気が走った。視界の端で蛍光灯が激しく瞬く。誰かがブレーカーを操作したわけではない。廉は自身の心拍が歪んだリズムで暴走し始めたことを悟る。
意識に水が流れ込む。頭の内側が重く、耳奥でサイン波の低いうなりが膨らむ。床タイルのパターンが網膜上で伸縮し、遠近感が崩壊する。次の瞬間、廉は壁に片手をつきながらスローモーションの世界で膝を折った。異音――自分の身体を遠くから聞いているような耳鳴りの残響――それだけが確かな実在感を伴っていた。
「……ああ、これは倒れるな」
呟く声には既に主語も述語も抜け落ち、独白というより監査ログに近い。彼は白衣のポケットから震える指でスマートフォンを取り出す。バッテリー残量3%。通知バッジには未読メール九十九件の赤い丸が並び、ほとんどが「至急」「リマインド」「修正依頼」。そして上司からの「直接対話したいので会議室3へ来い」。返信期限は三時間前だ。廉は笑った。失望にも憤怒にも似た乾いた破裂音。涙腺が熱くなる。だが感情にはアクセスできない。今、彼がアクセスできるのは、疲労指数とタスク一覧、そして過負荷による生体エラーログだけだ。
スマートフォンが指から滑り落ち、床に当たって液晶が蜘蛛の巣状に砕けた。その瞬間、画面が白くフラッシュし、通知音が乱反射したように散る。廉の膝は完全に脱力し、床タイルへ軟着陸する前に意識がブラックアウトした。
――脳内に浮かぶのは、意味不明な数式と、月曜の朝礼で聞いた「働きがい改革」というスローガン。唐突なユニオンの署名、同期の退職エピソード、会社支給の貸与PC。二年後の自分は何処にいるだろう――いや、そもそも“自分”とは何だ? そんな思考が断片化し、溶けていく。凍結保存される前の液体窒素タンクへ、アイデンティティを丸ごと投げ込むような感覚。重力が逆さになった。
次に目を開いたとき、天井は存在しなかった。むしろ天井と呼べるものが、遥か遠くの暗闇に吸い込まれ、視界の中心を占めている。硬い床ではなく、粉雪のような冷気が背中を支えている。枕元で水滴が時間を測るように落ち、風鈴のような音を立てた。
――生きている?
廉は半身を起こそうとするが、骨が軽すぎる。身体の質量が削られたように、関節が空回りする。だが肌を撫でる温度、肺を満たす冷たい空気、血管を流れる鼓動は確かに現実のものだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは巨大な空洞――直径数百メートルはあろう球の内側に張り付くように、無数の発光体が浮かんでいる。近視だと錯覚するほど間近にあるが、手を伸ばすと遠退き、呼吸に合わせて脈動する。淡い碧と紫と金の火花が、風もないのに螺旋を描いて漂う。
「星霧……?」
思わず零した言葉は理解の範囲外だった。辞書的意味ではなく、視覚情報がその語を内包して脳へ直結した感覚。未知の単語が彼の語彙に自然と溶ける。「視界を満たす光粒――魔力の根源」そんな定義が己の知識として刻み込まれる。混乱が恐怖に転じる前に、廉は深呼吸した。
底なしの円形空間の中央、床面のようで床ではない浅い湖――鏡面の水が張り付くそこに、廉の姿が映った。白衣は黒い焦げ跡と油染みで汚れ、胸ポケットの社章は剥がれ落ちている。だが不思議と疲労感は薄れ、視界はクリアだった。湖面に映る自身を凝視するうち、何かが喉の奥で弾ける。胸骨に沿って、淡い光の線が走った。痛みはない。しかし温度と感情が分離する不快な違和感。思わず手で胸を押さえると、その掌を透かして湖面の反射が揺れた。
〈――来訪者〉
声がどこからともなく響く。風のない洞窟で、天井から滴る水滴が増幅されたような残響。知覚外の波長で届き、聴覚より先に意味だけが脳に届く。廉は咄嗟に振り返るが誰もいない。
〈記憶が軋む。歯車は満ち、門は開いた。汝、名を示せ〉
幻聴か。そう思いながらも廉は返答した。「……九条廉。日本国民、科学技術振興機構下請けの研究員だ。」声が、洞窟の内壁を何度も反響し、徐々に別の言語へ置換される。日本語ではない。だがそれは確かに自身の声だった。しかも、どの言語か解析するより早く意味を理解している。言語野が未知のアルゴリズムで再配列されたような感覚に戦慄が走る。
〈九条廉。記録にない名。外来の証明、転移完了を確認〉
転移――その単語に、廉の胸は強く脈打った。フィクションでしか聞かない概念が、今や鑑定結果のように提示されている。彼は自嘲気味に笑った。「そうか……死んだってわけか」
死。口にした瞬間、状況と感情が同期し、強烈な現実味が背を貫く。過労による心不全。あるいは脳血管破裂。昏倒し、救命措置も間に合わなかった。走馬灯……? いや、ここは単なる共同幻想か? そう考えながらも、廉の手は湖面の水を掬い上げた。冷たい液体が指の間から滴り、衣服の袖を濡らす。その湿りが確かに存在を主張する。
〈“死”は旧世界での終了条件に過ぎない〉
低い声が、湖の向こう側から届いた。揺れる星霧のカーテンが割れ、黒いシルエットが浮かび上がる。人影――いや、見間違うほどに細い骨組みと外殻を持つ機械生命体。蒼い光輪を背に、脚部が水面に触れず浮かんでいる。頭部に相当する位置から覗く孔は、虚無の底で白く光っていた。
〈ここは“アウロラ”――七層の塔を戴く天空都市。その継ぎ目、“星霧の胎”だ〉
「君は、ここの管理者か?」
〈答えは常に汝自身の内側にある。記憶の深度が浅い今、選択肢は二つ〉
影は腕らしきパーツを指差し、零れる光で水面に円環を描く。一つ目の選択肢は湖へ身を沈め、星霧の奔流と同化し、存在を無に還元する“忘却”。二つ目は胎を出て、アウロラの現世へ歩み、代償を支払い続けながら生を継続する“契約”。円環は淡く輝き、映し出されるヴィジョンは、無人の街灯、浮遊する貨物船、血塗れの階段、泣き叫ぶ子ども、燦然と輝く塔の天頂――。
「選択、ね」
廉は深く息を吐いた。労働の漬物石の下で窒息し、終末を願った瞬間さえあった。だが本当に死を受け入れるのかと問われれば、心は躊躇なく拒絶した。彼はゆっくりと立ち上がり、湖面に映る自分と影を見比べた。
「俺は研究者だ。わからないことは先送りにしない主義でね。生きて、観測し、理解してからでないと結論は出せない」
影は微動だにしない。星霧の渦巻が周囲を加速し、風が生まれた。湖面が波立ち、白い飛沫が廉の頬を打つ。影が問いかける。
〈代償を支払う覚悟は? 記憶は貨幣。魔術は刃。失えば戻らぬものばかり〉
「記憶――」
廉は拳を握り、己の胸に当てた。そこにある温度が、自分がまだ“自分”である証明だ。忘却を恐れる心は、あの研究棟のブラックホールより遥かに暗い。しかしそれでも生を望む。未踏の法則を明らかにする欲求は、恐れを凌駕する。
「構わない。俺の人生は、思い出のためだけにあったわけじゃない。積み上げてきた思索そのものが俺だ。仮に記憶の欠片を削られても、解析と探求の意志まで奪われるとは限らない。だから――“契約”を選ぶ」
言い終えると同時に、湖面の円環が高く跳ね上がった。水の柱が天へ伸び、星霧の光粒が稲妻のように閃く。光柱の中心に立つ廉の影が三重に伸び、心拍を刻むごとに周囲の空間が膨張する。視界が白一色になり、重力が再度反転したように足元を失う。
――そして、落下。
気付けば彼は石畳の上に倒れていた。湿り気を帯びた硬い感触。鼻腔に鋭い鉄と油の匂い。耳に届くのは、遠くで打ち上げる蒸気笛と、何層もの通路を行き交う人々の喧騒。視界を上げると、そびえる塔――いや、七つの円環が積み重なった巨大な浮遊都市が頭上を占めていた。層ごとに異なる色彩の照明が縁取り、地平線の代わりに暗蒼の空が広がる。その空は、従来知る大気成層圏ではあり得ないほど近く、近視の裸眼でまじまじと星雲の粒子構造を識別できるほど鮮明だ。光は沈まず、影は途切れず、日と夜が未分化のまま都市を照らす。
周囲を囲む建造物は鋼と石が折り重なる工業様式。配管と鋲がむき出しの壁に、蒸気が白く吹き出す。歩道を行く住民――その衣装はシルクの飾り布をあしらった革コート、光沢のある義肢、浮遊式の照明器具を肩で担ぐ者。廉はその雑踏の中で完全な異邦人としてうずくまった。
「おい、大丈夫か?」
甲高い少年の声がかかった。顔を上げると、銅色のゴーグルを額に掛けた少女――いや、声に違わぬ少年かもしれない――が立っていた。肩掛け鞄には鋼製の測定機械と紙束が詰め込まれ、衣服は油と墨でまだら模様だ。彼は廉の白衣を見て目を瞬かせる。
「見ない服だな。上層の診療所の人? こんな下層で迷ったら危険だぜ」
廉は口を開きかけたが、言葉が詰まる。日本語が適切でないと直感し、脳裏に浮かぶ未知の単語群を選んで発声した。「……ここは、アウロラの……どの辺りだ?」
少年は眉をひそめ、手袋の親指で空を指した。「ここは第四層“黄昏街”。観光には向かない貧民層だけど、飯は安くてうまい。兄ちゃん、転落事故にでも遭った? 背中、ひどく濡れてるぞ」
廉は指摘されて背後を触れ、湖面で濡らしたまま乾いていない白衣に気付く。だが詳細を説明する語彙も余裕もない。子ども相手に個人情報を垂れ流すのは危険だ。混乱を悟られまいと、軽く頭を下げた。
「少し歩けば宿屋がある。休むといい。星霧が濃くなる前に」
星霧――再び耳にする単語に、廉は息を呑む。視線を空へ戻すと、群青の大気に白銀の粒子がゆっくりと渦を巻いている。その光の海は地表まで降り注がず、都市と天空の境界で滞留し、まるで生き物のように脈を打っていた。
立ち上がり、背伸びをすると関節が乾いた音を立てる。疲労は残っているが、地球で感じた重力とは違う種類の圧力が体を包み、逆に筋肉を軽くさせている。廉は深呼吸し、指先を動かしながら自分に言い聞かせた。
「まずは環境の把握。貨幣単位、流通網、エネルギー源、知的基盤。帰還方法を考えるのはその後だ」
少年は目を丸くし、やがておどけたように笑った。「研究者か学者だな。頭脳派は下層じゃ珍しい。それでも謎の白衣を着て歩くのは目を引くから気を付けなよ。星骸(アステルレリック)持ちと勘違いされて絡まれるぜ」
星骸――新たな固有名詞。少年は廉に紙片を差し出した。そこには歯車と翼をあしらった紋章と、宿屋の簡易地図が殴り書きされている。受け取る手の甲に星霧の小片が降り、淡い光で文字を照らした。
「ありがとう。名前を聞いても?」
「ああ、俺はルーミ。うちの親父は修理工をしてる。困ったら『蒸気街工房』を訪ねな」
「助かる。俺は……」
名乗ろうとした瞬間、胸に鋭い痛みが走った。記憶の貯蔵庫がきしむような感触。湖で契約を選んだ時の代償――まだ始まったばかりかもしれない。廉は痛みを飲み込み、笑みを作った。「九条廉。よろしく、ルーミ」
少年は満足げに頷き、人混みを縫って去っていく。彼の背中に取り付けられた小型動力炉が、星霧を吸い込み微かな光を放った。背を追いながら、廉は手の内に残る紙片を握る。紙面に染みる汗が冷たい。
空を覆う星霧の海が、今も絶えず形を変えている。そこには恐ろしくも魅惑的な未知が充満していた。廉は白衣の裾を翻し、一歩を踏み出す――新たな法則と出会うため、そして失う前に自分自身を確かめるために。
湖を出てから宿屋に辿り着くまでの道程は、夢の断片を拾い集めるように曖昧だった。廉は朽ちた石段を上り、錆びたレールに沿って市場通りを抜け、油紙傘の屋台が並ぶ横丁へ入った。ここでは銅貨ではなく“記憶の欠片”が等価値として扱われるらしいと、通りすがりの露店主が語っていた。星霧を凝縮した結晶管に、忘却された思い出を音声として封じ込める技術があると言う。客はそのカプセルを購入し、自身の空白に当てはめて代替記憶として利用するのだそうだ。にわかには信じ難いが、路地に漂う甘い香油の匂いや、聞き慣れない弦楽器の節が、彼の脳へ直接タグ付けされ、忘れ難いデータとして固定されるのを感じていた。
やがて路地の奥、ランプの灯りが半ば消えかけた三階建ての木造建築――看板には『宿屋ムネーメ』と古めかしい文字が揺れている。室内へ足を踏み入れると、暖炉の薪が爆ぜ、焦げたパンと薬草酒の香りが迎えた。受付の老婆は星霧を集めた杖を頼りに歩み寄り、廉を見上げると目を細めた。
「異邦の匂いがするねぇ。払えるものはあるかい?」
問いに口籠もる廉を見て、老婆はため息をつき、棚から粗末な帳簿を取り出した。「名前と来歴、それと忘れても良い記憶を一つ書きな」紙面に刺さるペン先が、一瞬だけ光を放った。廉は逡巡の末、自分の学生時代の部活動――バドミントン部の地区大会敗退――という瑣末なエピソードを記入した。ペンが走った瞬間、脳裏のその記憶が霞がかり、シャトルの軌道が再生できなくなった。代償は完了し、一泊の滞在権と引き換えられたのだ。
部屋は屋根裏同然の狭さで、窓からは星霧が舞う空がよく見えた。廉は硬いベッドに身を預け、初めて深く息を吐いた。シーツに染み込むハーブの香りが、過労の余韻を静かに溶かしてゆく。『自分を犠牲にしろとは言わない』と笑った主任の声が、遠い幻のように反響する。それがどれほど空虚な言葉だったか、今ならはっきり理解できる。
明日から何を失うことになるのか。それを測る天秤はまだ見つからない。だが星霧の空は残酷なほど美しく、未知は恐ろしくも魅力的だった。廉は目を閉じ、宿屋の安い枕の中で、再び世界が変わるまでのわずかな休息を受け入れた。
――星霧は夢の中でも螺旋を描いた。廉は虚空に散ったテトリスブロックのような記憶断片を掴もうと手を伸ばした。幼い日に祖母と折った千羽鶴、文化祭で焼いた固いクッキー、最後に故郷の駅を発ったとき雨に濡れたプラットホームの匂い。指先ですくっても、それらは白金色の粉となり、星霧へ溶け込んでいく。彼の背後には湖面の影が立ち、空洞の声で告げる――〈代償は常に累積する。歩むほどに、空白は深まる〉。
跳ね起きたとき、屋根裏部屋の窓辺に朝という概念はなかった。アウロラには恒星の周期が存在せず、都市全体が星霧の密度を時間指標として生活サイクルを刻んでいるらしい。珪藻ランプの器械音がリズムを奏で、遠くで汽笛が重なる。宿屋の廊下に出ると、参加貴族の使用人らしい若者が巨大なトランクを運んでおり、星霧を遮断する魔術紋様を点灯させながら通り過ぎた。衣装の肩章が示す紋章は、
食堂へ降りると、賑わう卓の上で滋養粥と呼ばれる淡緑色のスープが大鍋で煮えていた。粥と言いつつ中身は藻類とスパイスと穀粉を練ったもので、廉の味覚には薬草エキスに似た苦味を伴う。だが一晩で携帯食も尽きた今、贅沢は言えない。彼は銅色の匙ですくい、舌の上で転がしながら周囲の会話を拾った。
「星霧値が昨日より上がったらしい」「エリオット騎士団が下層視察とか」「星骸保持者は告知義務があるんだってさ」「なのに市場じゃ闇取引が増えてて……」
情報は断片的だが、共通して不穏。廉はポケットの中で拳を握った。契約という言葉が、胸の奥で鈍く脈動する。まだ何も知らないうちにリスクは伴う。だが同時に、危機こそが新しい理論を呼び込む土壌だ。
宿屋の帳場で老婆に礼を告げ、路地へ出る。空には依然として星霧が渦を巻き、周縁光が金属骨格のビルを虹色に染める。地球の大気散乱とは異なる屈折率を示すその現象に、廉の胸は科学者の好奇心で高鳴った。彼はメモ用紙を取り出し、光の波長と粒子径の予想値を走り書く。だがインクは紫外線反応で別の紋様へ変貌し、読めなくなった。
「紙も魔術加工か……研究材料には事欠かないな」
呟きながら歩を進めると、市街地を一望できるテラスへ出た。そこからは第四層の外周橋が遠巻きに見え、その向こうに第三層“暁市場”の発光帆船が浮かんでいる。気流より上に広がる視界に浮かぶ複数の輸送気嚢は、帆布に星霧蓄光糸を織り込み、ゆっくりと都市の斜面に寄り添うように航行していた。
廉は欄干に手を掛ける。指先に触れる金属は、真鍮と未知金属の合金で、温度変化に応じて星霧を凝結させない特性を持つようだ。分析と試算の式が頭に溢れ、目の奥が疼く。研究魂が再燃し始める。同時に胸の痛み――失ったはずの記憶が波紋のように揺れ、空白を際立たせる。自分が何を忘れたのかを忘れる恐怖。まるで透明な蛇が背骨を滑るような寒気だ。
「思考停止はするな。仮説を立て、確率を割り出し、行動を選択する」廉は自分に言い聞かせた。科学者として燃え尽きても、人間として溶けてはいけない。自律のための手綱を握り続ける――それが彼のアイデンティティ最後の砦だった。
石畳を踏みしめ、彼は塔の中心へ向かう通りを歩き出す。その背へ星霧が形を変えて追い、仄かな光で輪郭を彩る。行き交う人々は誰も気付かないかのように視線を逸らし、しかし囁き声だけが後を引く。「外来の光だ」「星骸の兆しか」「神託は間近い」。噂の種はあっという間に根を張り、都市の血管を流れるだろう。
中央街区“黄昏広場”は、円形の石舞台を中心に露店と簡易ステージが取り囲む社交の場だった。上層から吊り下がる巨大な導光板が常夜灯代わりに鈍い橙を投げかけ、その下に立つ白大理石のモニュメント――翼を折った巨鳥の彫像――が意味深に影を伸ばす。土台に刻まれた碑文は古い文字体系で、廉には読めない。だが星霧が光の筋を流し込み、断片的に翻訳データが脳裡へ刷り込まれる。「落星」「贖罪」「再生」。三つの語が交互に瞬き、彫像の翼が一瞬だけ、本物の羽根のように揺れた気がした。
視界の周縁が淡く歪む。脳がオーバーフローを示すサインだ。廉はモニュメントから離れ、広場を横切る風に身を晒した。路面に描かれた魔術交通標線が靴底でかすれ、微弱な光を放って再生する。ここでは文字すら呼吸し、石が記憶を語る。世界そのものが巨大な有機的インターフェースなのだと、彼は直観で理解した。
「この都市を解析する。それが帰路を見つける鍵になる」
広場を後にする背に、彫像の影がゆっくりと形を変えていくことに、彼はまだ気づいていない。やがて影は人型へ凝集し、無声のまま星霧へ解けた。誰の記憶が削られ、誰の願いが新たに刻まれるのか――アウロラは今日も静かにその身を回転させ続ける。
その夜更け、宿屋の屋上へ忍び出た廉は、手摺越しに広がる星霧の海へ指を伸ばした。指先に小さな光粒が触れ、淡く明滅しながら彼の体温を測るように震える。「俺はまだ、自分を見失っていない……はずだ」言葉は夜気に溶け、遠雷のような都市鼓動と重なる。光粒は一度だけ強く瞬き、やがて彼の指から離れ、宙へ舞い上がった。空では星雲が深呼吸し、塔の上層を紫紺に染めている。廉は唇を引き結び、胸の奥で再び誓った。――必ず真実を掴み、この世界でも自分でもない何者かの手から、記憶という名の未来を奪わせはしない。
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