第23話 綿雪のキス

「り、リチャードさん」


 するりと指を絡めるようにして、手を繋がれる。男の手は、シャルロッテの手を包み込んでしまえるほどに大きい。


「ああもう、こんなに冷えて」


 そのまま、リチャードは己の外套のポケットへと繋いだ手を入れてしまう。シャルロッテはリチャードにぴたりと引っ付くような格好で、ともに歩く羽目になった。


「ここで何してるんですか? こんなに寒いのに」

「何って、どっかの誰かさんがこんなに寒いのに馬車で送らせてくれないから、慌てて追いかけてきたんですよ」


 リチャードはあの仕立てのいいチェスターコートの上に、黒いマフラーをしていた。それでも風は冷たいだろうに。


「わ、わたしは暑がりなので!」

「こんな氷みたいな手をした暑がりの人がいるなんて、僕は今はじめて知りましたが」


 シャルロッテの言葉にも、リチャードはあくまで泰然と返す。

 突然吹き付けた風に、シャルロッテはぶるりと体を震わせる。


「だから、大丈夫ですって……へくちっ」


 思いとは裏腹に、体は正直である。これでは寒いと言っているのと何ら変わりない。


「本当に、君って人は」

 諦めたように、リチャードは一つ息を吐いた。


 そして、片手で器用にマフラーを解き、それを無造作にシャルロッテの首にぐるぐると巻き付けた。

 彼の体温のうつったそれは、とてもあたたかった。


「あの、でもリチャードさん」

 これでは、彼が風邪をひいてしまう。そう思うのに、リチャードは四つ角の前で指差して訊ねてくる。


「おうち、こちらの方向であってますか?」

「あ、えっと次の角を左に」


 こうなるともう、完全に彼のペースだ。繋いだ手を解こうにも、こんな風にきゅっと握られてしまってはそれもできない。


「たまたま僕も散歩したい気分だったんです。お気になさらず」


 リチャードはそれだけ言うと、黙りこくってしまった。

 しんしんと雪が降りつもる音がする、気がする。


 石畳を歩いていく、自分の靴とリチャードの靴が見える。


 これだけ身長が違えば、どちらかがどちらかの歩幅に合わせざるを得なくなる。シャルロッテの三歩が彼の二歩に等しくて、こっちがじれったくなるほどだった。


 当然のようにリチャードは、シャルロッテに合わせて歩いてくれていた。

 ちらりと隣を見遣れば、緑の瞳と目が合った。


 リチャードはぎゅっと繋いだ手を握り直す。同じ温度になった手はまるで溶け合うようで、互いの境界線が曖昧になるみたいだ。


「よかった。ちゃんとあったかくなってきましたね」


 寒さを一瞬忘れるほどに顔が熱くなって、どきんと心臓が跳ねる。シャルロッテは思わずマフラーに顔を埋めた。


 ふわり、とリチャードの匂いがした。彼が好んでつける柑橘の香水と、それと彼自身の匂い。彼に抱きしめられているような、そんな錯覚にさえ陥りそうになる。


 どうしてだろう。自分を包む全てがあたたかくて心地いいのに、それと同じぐらい落ち着かなくなる。


 シャルロッテは空いている方の手でマフラーの端を握った。


「こういう結末はどうでしょうか?」


 さっきの『王様と金糸雀』についてだ。この雪を見ていたら、思いついた。


「金糸雀は大きな岩を一人で砕けたら呪いが解けると言われていて、毎日ちょっとずつ嘴でつつくんです。それで、本当にちゃんと岩を穿つことができたら、呪いが解ける」


 これなら、ご都合主義にはならないだろう。ちゃんと努力の先に結果があるのなら、納得できる。


 リチャードもきっとそう言ってくれると思ったのに、彼は端整な横顔を曇らせた。


「それは、少しやだな」


 シャルロッテは、二度瞬きをしてまじまじとリチャードを見上げた。

 彼が物語に対して否定的な意見を述べるのははじめてだった。


 シャルロッテを傷つけたと思ったのだろう。慌てて取り繕うようにリチャードは言った。


「ああ、なんというかそうだな……別に悪くはないと思うんです。これは僕の個人的な感想で」


 言い訳をするように、わしゃわしゃと髪をかき上げる。いくつか降り積もった雪が、金色の髪から零れ落ちた。


「ただ、その物語には王様がいらないなと思って」


 リチャードは、灰色の空を見上げてゆっくりと言った。


「王様の物語には金糸雀がいるのに、金糸雀の物語には王様がいない。それはすごく寂しいことに思えたんです」


 言葉とともに白い息が吐き出されて、空に吸い込まれるようになる。


 確かに、彼の言う通りなのかもしれない。これは、読者の望む結末ではないのだろう。シャルロッテは頭の中で石を砕く案をそっとゴミ箱に入れた。


 次に浮かんできたのはこんな疑問だった。


「どうして、一人では呪いは解けないんでしょうか」

 独り言のようにシャルロッテは呟いた。


「例えば山を超えてどこかへ秘境へ辿り着くとか。強くなるとか、もっとそんなことで解けたらいいのに」


 それなら、頑張れる。けれど、誰かのキスは頑張ってもどうにもならない。そんなのあんまりだ。


 隣で歩く男は、くすりと笑う。


「何がおかしいんですか」

 シャルロッテが頬を膨らませると、リチャードはますます顔を綻ばせる。


「いや、なんだか勇者の修行みたいだなと思って」


 言われてみれば、そうだ。


 勇者は分かりやすくていい。


 強くなって、武器を集めて、魔王を倒す。

 そうして富と名声を手に入れて、幸せになれる。世の中がみんな、こんな物語ならよかったのに。


「シャルロッテは頑張り屋さんですね」

 そんなことはまるでない。強情なだけだ。


「わたしは……ただ可愛げがないだけです」


 シャルロッテがそう答えると、リチャードはまたくすりと笑った。


 そこからはまた無言で二人で歩いた。


「あ、ここでいいです」


 この角を曲がればもう、家だ。見つからないようにするなら、見送りはここまででいい。


「では」

 リチャードは繋いだ手を解いて、シャルロッテに向き直る。


 そうだ。このマフラーを返さなければ。シャルロッテは慌てて首の黒いマフラーを解いた。首筋にまた冷たい風が触れる。


「いいよ」

「でも、」


 彼はきっと沢山マフラーを持っているだろう。けれど彼は今来た道を、この雪の中またカールトンの屋敷まで歩いて帰るのだ。マフラーがなければ当然寒いだろう。


「いいから」


 緑の瞳に不思議な色が宿る。リチャードはふいに、その目を眇めた。両手でそっと、シャルロッテの頭に積もった雪を払う。


「持っていて。いらなかったら捨ててくれていいから」


 声には張り詰めたような重みがあって、何も二の句が継げなくなる。リチャードはシャルロッテの手から、マフラーを抜き取った。


「呪いが一人では解けないのは」

 くるりと、またマフラーがシャルロッテの首に巻かれる。


「それは多分、呪いが自分で自分にかけるものだからです」


 穏やかな顔から微笑みが抜け落ちて、いっそ近寄り難いほどに透明感が増す。粉雪が光の欠片のように彼を彩っている。リチャードは、いっそこの世のものとは思えないほどに美しかった。


「自分で自分に?」


「そう。呪いは、誰かにかけられたと思っていても、結局は自分が自分自身にかけるものだから。だから、かけた本人には解けなくて、誰かに解いてもらわないといけないんだと、僕は思います」


 完成とばかりに、きゅ、っとマフラーの端を引き結んでリチャードは笑った。


「リチャード、さん?」


 シャルロッテには、リチャードがどこか遠くに行ってしまいそうに見えた。

 手を伸ばそうとしたら、腰に手を回された。こつん、と額が肩口に触れる。


「すぐに離すから、今だけここにいて」


 頭の後ろに手を回されて、その胸に顔を埋めるようになってやっと、自分は今この男に抱きしめられているのだとシャルロッテは気が付いた。


「王様はきっと、金糸雀といて幸せだったから。だから、ああしたんです」


 腕の中から見上げれば、長身は僅かに屈んだ。

 顎に手を添えられて見つめ合う。その目の中に、自分だけが映っている。


 もつれた髪がそっと梳かれて、耳にかけられた。


「シャルロッテ」

 吐息が耳朶に満ちる。腹の底に響くような低音に、シャルロッテはかすかに身を震わせた。


 リチャードは静かに金の睫毛を伏せる。


 何か、何かを言わなければならない。そう思うのに、喉まで凍ってしまったかのように声が出てこない。


「君は、強くて美しい人だ。だから、これ以上、自分を削ったりしないで」


 ふいに、やわらかさとあたたかさが、頬に触れる。

 想像していたよりも唐突に、それは訪れた。


 時間にすればほんの一瞬。

 まるで、頬に落ちた綿雪が溶けてしまうような、そんな微かなキスだった。


「へ」


 なんだ、これは。


「それじゃあ、いい夢を。おやすみなさい」


 それだけを言い残して、男はくるりと踵を返す。


 雪煙が舞うように踊って、チェスターコートの背中はすぐに見えなくなる。残されるのはシャルロッテ一人きり。


 なんだ、こんなにも、簡単なことだったのか。


 そっと、頬に触れてみる。


 勿論、それと分かるものは何もない。ただすべらかさだけが指先に触れる。シャルロッテはしばし頬を押さえて立ち尽くした。


 シャルロッテは今まで色んな恋愛小説崩れを書いてきた。こんな男は現実には存在しないと、何度も言われた。


 けれど、実際はどうだ。

 男の人がこんな風にキスしてみせるだなんて、知らなかった。


 むしろ晴れやかにさえなってきて、シャルロッテは笑ってしまった。そりゃあ薄いとも浅いとも言われるはずだ、と。


 そのままふわふわと漂うような心地で、シャルロッテは家に帰った。男物の黒いマフラーは妹の目には地味に映ったのか、今度は取り上げられることはなくてちゃんとシャルロッテの元にある。


 その夜、シャルロッテはそのマフラーをぎゅっと握りしめて眠りについた。

 夢は、見なかった。

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