第13話 何も知らない
例えば、雨に濡れた子猫を拾うようなものだ。彼からしたら、銀貨三枚なんて
「さぞかしいい気分だったでしょうね」
ここに見えない大きな壁がある。金を払う側と、それを受け取る側と。両者は決して、対等ではないのだ。
シャルロッテは、リチャードが己の自己陶酔の為に買い上げた贅沢で、憐憫の結晶だ。
「きっとそういう自分に酔っていたんだわ。とんだ偽善者よ」
嘘のようにすらすらと言葉が出てきた。パトリックもエドガーも、何も言い返してこない。呆気に取られているのかもしれない。けれど、シャルロッテはもう自分を止めることができなかった。
「だから、ばかみたいって言ってやったのよ! こんな仕事、こっちから願い下げだわ!!」
自分の甲高い声だけが、反響するように聞こえた。
沈黙を破ったのは、落ち着いた声だった。
「兄さん。ミス・ウェルナーから手を離してください」
パトリックがまるで壊れた人形かのように、ぎこちない動きで顔を向ける。
「ディック……」
彼の視線の行き着く先、書斎の入り口にすらりとした長身の姿が見える。
「聞こえなかったんですか。彼女から手を離せと、僕は言ったんだ」
ぱたり、と胸倉から男の手が離れて、シャルロッテはまるで宙に浮いたような気分になった。
この騒動の中心、リチャードその人が立っていた。
「ディック、俺は」
さっきまでの威勢が幻だったかのように、パトリックは青い顔をしている。
そして、それは自分も同じだった。握りしめた手から血の気が引いて冷たくなっていく。
「まず、ミス・ウェルナーに謝罪をしてください」
リチャードは落ち着いた様子で、その実彼が今何を考えているのかは分からなかった。微笑んでいることが多い柔和な相貌には表情がなくて、ただただ彫像のように美しかった。
「しかしだな」
「兄さん、あなたがしたことは」
リチャードの言葉にも、パトリックは引き下がらなかった。
「だってお前は
パトリックの言っていることの意味が、分からなかった。
リチャードが字が読めない? それは一体どういうことだ。
「……へっ」
代わりに間抜けな声だけが、シャルロッテの喉から零れ出た。
「兄さんっ!」
リチャードの強い声がパトリックを一蹴する。
怒っている。咄嗟にそう感じた。彼の怒りはパトリックに向けられている。それでも、見えない怒気のようなものがリチャードの周りを取り囲んでいて、空気がぴりぴりとするほどだ。
そのままゆっくりと歩を進めて、パトリックの前に立った。
リチャードは、一度目を閉じて絞り出すようにひとつ大きく息を吐いた。
もう一度彼が目を開けた時、その目に浮かんでいた色をなんと表現していいのか、シャルロッテには分からなかった。
「この方は、何も、知りませんよ」
リチャードはもう、声を荒げることはなかった。彼は兄を諭すように静かに言った。右手でぎゅっと左の腕を握りしめている。
「はっ」
パトリックは釣り上がっていた目をぱっと見開いた。そのまま、その目はこちらへと向けられる。最初は疑っていたようだったが、呆然としたシャルロッテの様子を見て彼も気づいたようだった。そして、パトリックの顔が、分かりやすい後悔の色に塗り替えられる。
「きちんと、ミス・ウェルナーに謝ってください。どんな理由があろうとも、この人の名誉を傷つけていいわけじゃない。そうじゃないと僕は、もう、兄さんと話はしません」
パトリックはぎゅっと唇をかみしめた。そして、かきむしるように前髪をかき上げて、シャルロッテに向き直る。
「その、いきなり決めつけて悪かった」
パトリックは、すとん、といっそこちらも潔くなるほどに深く頭を下げた。一呼吸の間そうしていたかと思うと、すっと背筋を伸ばしてリチャードを見つめる。
「俺は、今日はもう帰る。これからのことは、また今度話をしよう」
すたすたと歩くパトリックを、エドガーがまた慌てたように追いかける。そうして、ここにはリチャードと自分だけが残された。
「ミス・ウェルナー」
そう呼びかけてくれる声は、普段と何ら遜色ない。慈しみとほんの少しの親しさのようなもので彩られた、リチャードの声。
けれど、それにどう返事をしていいのか分からなかった。
そんな資格はもう、自分にはない気がした。
「兄が大変な失礼をいたしました。心からお詫びします」
金色の頭がさっと下げられる。
違う。
謝らないといけないのはシャルロッテの方なのに。けれど、体が動かない。シャルロッテはただただ長身のリチャードを見上げて、硬直するばかりだった。
彼は、どこから聞いていたのだろう。自分が口にしてしまった言葉の数々がこだまして、頭ががんがんする。
「確かに僕は、子供だましみたいな仕事を頼みました。けれど、それは決して、あなたをばかにしていたわけではないんです」
そうだ。言ってしまったことは取り消せない。吐き出してしまった言葉は、なかったことにはできない。
全て、この人の耳に届いてしまったのだ。
「あなたに頼んだ仕事の、本当の意味をお話します。聞いていただけますか」
そして動揺も追及もない静かな声を、シャルロッテはまるで死刑宣告のように聞いたのだった。
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