第14話 僕のための涙

「何から話せばいいかな」


 最初にこの屋敷に連れられてきた時と同じように、リチャードはシャルロッテの斜め向かいにゆるりと腰掛けた。茶か何かを用意させようかと彼は言ったが、シャルロッテは首を横に振った。どんなあたたかな茶も、喉を通るとは思えなかった。


 リチャードはじっと、膝の上で組んだ手を見つめていた。


「もっとも、全部兄さんの言った通りなんですけどね」


 そう笑う言葉の端々に、自嘲するような響きが僅かに混じる。リチャードは立ち上がると、机の上から何かを取ってまた戻ってきた。


 リチャードが広げたのは、字の練習帳だった。

 シャルロッテが子供が書いたと決めつけてしまった、あの。


「これは、僕が書いたものです」


 これを執務机で自分が見つけてしまった時、リチャードは一体どんな気持ちだったのだろう。


 脳裏に色を失ったリチャードの顔が浮かぶ。


「文字を読んだり書いたりということが全く出来ない、という訳では無いのですが。字がひどく歪んで見えるというか、二重に見えるようなところがあって、僕は昔からすごく時間がかかってしまうんです。読み上げてもらうと簡単に理解できるのに、自分で読もうとしたらどうしても、それができない」


 だから、代読や代筆をしてもらうととても助かるのだと彼は言った。


「祖父の弟も似たような特性・・があったそうです。なので、読んでもらったら分かるということが分かっていたので、僕は昔から祖父に色んなことを教えてもらっていました」


 思えば最初のテストのような時から、引っかかることはいくつもあった。


 新聞の文字をひどく顔を顰めて見つめていたこと。

 読み上げた内容を確認するように、家令の顔を窺ったこと。

 シャルロッテが書いた文字を、ちらりとしか見つめなかったこと。

 兄からの手紙を、頑なに自分では読もうとしなかったこと。


 些細な違和感は全てこの真相に繋がっていた。家令が実家に指示を仰ごうとしたのも頷ける。


 あのエドガーの最敬礼は、そのためのものだったのだ。


「ただ、なかなか人には信じてもらえないことも多くて。幸い母と兄は理解してくれていますが、父は未だに僕のことを怠惰だと言います」


 それほどの秘密を、リチャードはシャルロッテに話してくれた。


「あなたの言った通りです、ミス・ウェルナー」

 そこで彼は顔を上げてシャルロッテを見つめた。


「僕は、あなたにかっこいいと思われていたかった。いい気になって商売の話をしたまま、尊敬されていたかった」


 形のいい眉を下げて、恥じたようにリチャードは続ける。


「ずっと、あなたと普通に話をしていたかった。楽しそうに本の話をするあなたを、近くで見ていたかった」


 隠し事はいつか必ず露呈する。

 こんな日が来ることを、この頭のいい人が考えなかったはずがない。


 それでも、リチャードはシャルロッテを掬い上げようとしてくれた。


「全部、僕がちっぽけな見栄を張ったせいです。最初からきちんと僕がこのことを話していればよかったんです。そうすれば、あなたはこんな思いをしなくてすんだのに」


 ――きっとそういう自分に酔っていたんだわ。とんだ偽善者よ。


 自分の言葉はどれほど、この人を傷つけたのだろう。


「ちがいます」


 シャルロッテは頭を振った。

 間違っていたのは、わたしの方だ。


 何ひとつ、分かっていなかった。


 リチャードのことを完璧だと決めつけて、少しも彼を分かろうとしなかった。


 最初からちゃんと必要とされていたのに。シャルロッテそれを勝手に捻じ曲げて、軽んじて、蔑んだ。


 誰よりもばかなのは、このわたしだ。

 なんてわたしは、浅はかで、愚かだったのだろう。


「ミス・ウェルナー」


 穏やかな声がすぐ近くで聞こえる。リチャードの手が何かを差し出してくれているのは分かるのだけれど、ぼんやりと滲んで見えない。


「泣かないで」


 頬にハンカチが触れた。布越しに触れる長い指が、ゆっくりと涙を取り去っていく。

 そうされてはじめて、シャルロッテは己が泣いていたことに気が付いた。


「ごめん、なさい」


 シャルロッテは乱暴に手の甲で涙を拭った。どうして自分が泣いているかも分からないのに、涙は溢れてくる。


「おかしいですよね、わたしが、泣くなんて」


 誰にも知られたくなかったであろう秘密を、ばらされて、傷つけられて。泣きたいのはきっと、リチャードの方なのに。


 わたしはどこまでも我が身が可愛い。だからこうして、泣いてみせるのだ。

 嗚咽を堪えたら、焼けるように喉が熱かった。


「おかしいことなんて、何もないよ」


 言葉とともに、背中にあたたかな手が触れた。

 そのままそっと腕の中に引き寄せられる。


 最初の夜会で感じたのと同じ、柑橘の香りがする。頭に手が添えられて、泣き止まない子をあやすように撫でられる。


「君は僕のために泣いてくれてるんだから」


 見上げれば、リチャードはふわりとやわらかに微笑んだ。


 彼が笑っていることが余計にシャルロッテはつらかった。いっそこの人も、泣いてくれればよかったのに。


「ありがとう」


 ぎゅっと抱き寄せられたらもう、止まらなかった。


 広い胸に縋るようにして、シャルロッテは泣いた。小さな子供のように、みっともなく声を上げて。


 いつまでもいつまでも、シャルロッテが泣き止むまでリチャードはそうしてくれていた。




 

 泣き腫らした目をして、シャルロッテは自宅に帰った。

 母にも妹にも会いたくなくて、まるで忍び込むように部屋へと戻った。


 シャルロッテの部屋には、ヘンリエッタの部屋にあるような華やかな調度品はほとんどない。買い求めた本と、自分で書いた物語とも呼べないようなもののメモが沢山ある。


 そのうちのひとつを手に取って、シャルロッテはぱらぱらとめくった。我ながら拙いなと思う。それでも、読んでいると引き込まれるようなものがある。まあ、自分が自分の為に好きに書いているのだから当然と言えば当然だけれど。


 ――まあ、作家は経験したことしか書けないって言いますしねぇ。


 あんなにも否定したかった三白眼の編集の言葉が、頭の中で鳴る。


 なんだって書けるつもりでいた。見たこともないドラゴンも、恐ろしい幽霊も、やったことのない殺人事件も、夢のような王子様との恋愛も。


 わたしは物語に助けられてきた。


 空想の世界の真ん中に、シャルロッテだけが逃げ込める秘密の王国がある。現実でどんなつらいことがあっても、そこではいつも王様だった。


 わたしは確かに、書くことによって救われてきた。どんな悲しみも辛さも、書けば忘れられた。


 やわらかな金色の髪が、脳裏で躍る。輝くばかりの緑の目が、焼き付いたように離れない。


 ずっと彼は、神様に特別に愛されているのだと思っていた。けれど、愛の形であの人に背負わされたものは、あまりにも大きすぎる。


 例えば、リチャードはつらい時どうするのだろう。彼が逃げ込めるところは、この世界のどこかにあるのだろうか。


 その身の内に抱える苦悩を誰かに向けて綴ることすらできないのならば、それはどれほどの孤独だろう。


 物語がわたし救ってくれたように、リチャードを救ってくれるものは果たしてあるのだろうか。


 この世に自分が経験できない困難が確かに存在すること、己が推し量ることすら難しい現実に立ち向かう人いることを、シャルロッテはこの時はじめて思い至ったのだった。

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