第5話 夢の終わり
「……ですから、あのお話の鏡の中を行き来する設定がまた秀逸で。こちらの先生の作品はいつも雰囲気作りが素晴らしいんですけど」
それからシャルロッテは好きな本について延々と話した。
はじめは変に急き立てられるように話していたのだが、リチャードがところどころ的確な相槌を入れてくれるおかげで、ひどく喋りやすくなっていった。
息もつかずに話し続けたせいで喉が渇いていて、おもむろにカップを手に取ったところで気が付いた。
「あっ」
しまった、またやってしまった。
持ち上げたカップはすっかり空になっていて、そこでやっと我に返った。そんなことにも気づかないぐらい、シャルロッテは夢中で話し込んでいたのだ。
十八歳の成人までに大方が婚約をして、なんなら婚姻も終える貴族の子女の常で、自分も見合いだけは何度かしたことがある。最初の何回かは、シャルロッテも真面目に取り組んでいた。趣味だとか好きなものだとかに一生懸命に返事をして、その結果として丁重なお断りを賜った。
「あの、退屈じゃなかった、ですか?」
シャルロッテがここから学んだことは一つ。
男の人は自分の話をするのが好きなのだ。だから、別にシャルロッテの話なんて、どうでもいいのだ。
大して面白くない話でも、からくり人形のように首を振って愛想笑いを浮かべるのが求められているということは理解したが、シャルロッテにはそれがどうしてもできなかった。そして、現在に至る。
母は気難しい姉に縁談を宛がうことは早々に諦めて、今はヘンリエッタの婿入りの相手を選ぶのに邁進している。
「いいえ、続けてください」
なんてことないようにリチャードはポットを手に取り、これまた流れるような所作でシャルロッテのカップに二杯目を注ぐ。
続けて彼自身のカップにも。
きっとリチャードも内心では辟易しているに違いない。そう思うとさっきまでの熱は嘘のように冷めて、急に不安が込み上げてくる。
「すみません。わたしずっと、自分の話ばかりしてしまって」
そう言う声が次第にか細くなっていくのが、自分でも分かる。
「どうして、そう思うんですか?」
首を傾げると、陽の光を集めたような金色の髪がさらりと揺れる。彼は心の底から分からないと言ったきょとんとした顔をしていた。こんな顔もできるのだなと思うのと同時に、そういう顔をすると僅かな少年みのようなものも感じる。
「僕が話してくれとお願いしたんですから、当然のことです」
リチャードはまた、柔和な笑みを浮かべる。
「まるで、本当に読んだことない本の世界にいるみたいでした。ですから」
元々リチャードはきつい印象を与える顔立ちではないが、こうも自然に先を促されると、彼が本当に楽しんでくれていたような気がしてくる。
「はい……」
しかしながら、一回流れを断ち切ってしまうと再開するのはなかなか難しい。さて、どこまで話したかなと振り返ったところで、シャルロッテは自分の影がテラスに思いの外長く伸びていたことに意識が向いた。
太陽は西に傾き始めていて、夕方の風が吹き始めている。
「い、今何時ですか?」
「今ですか? えっと」
リチャードは胸元から金の懐中時計を取り出すと、それをぱかりと開いた。
「三時を少し過ぎたところですね」
朗読の時間は三時半である。ここからなら必死で走れば、ぎりぎり間に合うか。
「所用があったのを失念しておりまして。本日はこれで失礼いたしますわ」
おもむろに椅子から立ち上がったシャルロッテに、リチャードは申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、僕が引き留めてしまったせいで」
そんなことはまるでない。ただシャルロッテが自分語りに熱中していただけの話だ。
「いえ、ありがとうございました。では」
挨拶もそこそこにシャルロッテは、走り出そうとする。当然正しい淑女の振る舞いではないが、背に腹は代えられない。
「待って」
掛けられた声に、ぴたりとシャルロッテは動きを止めてしまった。急がなければ間に合わなくなると分かっているのに、足が動かない。
「どちらに向かわれるんですか? 僕のせいなので、お送りします。大切なご予定に遅れてしまったら大変だ」
これがリチャードの厚意であると、シャルロッテでも分かる。
けれど、これほど扱いに困る厚意もなかった。
わたしは、今からくそじじいのところでおおよそ口にはできないような卑猥な小説を朗読して、小金を稼ぐんです。
そんなこと、口が裂けても言えない。しかも相手は、聖人のような美しさと気品を兼ね備えた男なのだ。
「大切な予定、というほどのものではないです。でも、行かなくてはならなくて……本当は、行きたくないんですけど」
それにもし、キンドリー侯爵の屋敷に通っていることがバレたら、リチャ―ドは先日のエヴァンの件についても勘づくだろう。あれが自業自得だったと思われても仕方がない。
「大丈夫です。ちゃんと一人で行けますので」
夢のような時間だった。このままずっとこの人と話していたい、思うぐらい。
けれど夢は夢だから、ちゃんと目を覚まさなければならない。
シャルロッテの現実は
「ミス・ウェルナー」
名前を呼ばれるとともに、きゅっと手首を掴まれた。決して痛いというほどの力ではないのに、シャルロッテは振り払うことができなかった。
この手を振りほどいたら、もう二度と、彼に出会えることはない気がした。
「とても大丈夫なようには見えないよ」
あたたかな声は、まるで心の隙間に入り込んでくるように響く。
「行きたくないのなら、行かなくていいと思う」
振り返ってしまったら、澄んだ緑の瞳と見つめ合った。それは真摯な光を湛えて、凛と輝く。
「何か僕に、お役に立てることはありますか」
シャルロッテはなんと答えようかと悩んで、しばしの間呆然とした。
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