第4話 お茶のお誘い

 この男は、今、一体なんと言ったのだろう。


 投げかけられた言葉を理解するのに数瞬を要した。

 お茶。お誘い。そして、目の前の輝かしい男。


「え、あ、はい!?」


 全てが繋がった時、思わず声が裏返った。狼狽えるシャルロッテを前に、彼は余裕の態度を崩さない。


「すみません。よく知らない男にいきなり誘われたら怖いですよね」


 照れ隠しのように彼が笑った。

 そういうわけでは、ないのだけれど。突然の展開に頭がついていかない。


「申し遅れました。僕は、リチャード=カールトンと言います。以後、お見知りおきを」


 流れるように優雅に礼をして、握手を求められた。


 なるほど、Richardリチャードというのか。やっとRのイニシャルの名前を知ることができた。この堂々たる振る舞いに、この名前は妙にしっくりと馴染む。


「シャルロッテ=ウェルナー、です」

 これは当たり障りのないただの挨拶だ。差し出された手に、恐る恐る触れてみる。


 きちんと加減した力で、リチャードはシャルロッテの手を握り返してきた。大きな手に包まれれば、どうしても己の手の小ささを意識させられる。


「ミス・ウェルナー」


 いきなり無遠慮に名前で呼び捨てるようなことを、彼はしない。静かな響きのある声でそう呼ばれれば、なんだか自分まで立派な貴婦人のような気がしてくる。


「あちらの喫茶カフェのケーキが美味しいと評判なんです。けれど、女性客が多くてなかなか僕一人では入りづらいのもあって。もし良ければ、付き合ってくれませんか?」


 リチャードは向かいの喫茶を指さした。確かに繁盛しているようで、テラス席では優雅に貴婦人方がお茶を楽しんでいる。そういえば、ヘンリエッタも以前行って美味しかったと言っていた気がした。


 しかしながら、ここでも付きまとうのは懐の寂しさである。


「あの」

 正直いくらかかるのかが想像つかなかった。席に座って注文をしてから足りないとなれば、大惨事である。


「あ、もちろん僕がお誘いしたのでお代はお支払いしますよ」


 まるで心を読んだかのようにリチャードが微笑む。この人はこんなことも出来るのかと思う反面、考えていることが全て顔に出るのは自分の悪癖だと自覚している。


 リチャードなら一人で座っていても、何の問題もない気がする。いつの間にか、向かいに座りたい女性たちが列をなしているのではないだろうか。そんなところにシャルロッテが座っていたら、視線がぐさぐさと突き刺さるのは必至だろう。


「何かご予定がおありなら無理に、とは言いませんので」

 きちんと引き際も心得ていて、さすがと言わざるを得ない。


 ただシャルロッテだって、まったく興味をそそられないということはない。朗読の約束の時間までにはまだ猶予がある。少し話をするぐらいなら問題はないだろう。


「大した話ができるとは、思いませんが」

 かろうじてシャルロッテがそう応えると、リチャードは満面の笑みを浮かべた。繋いだままだった手をそっと引いてくれる。正しい紳士のリードだ。


「それでは、参りましょうか。ミス・ウェルナー」






 爽やかな風が吹き抜けるテラス席に座りながら、シャルロッテは悩んでいた。ついでに唸っていた。


 先程「本日のケーキ」なるものを給仕が見せに来てくれた。皿の上に整然と並べられたそれらはまるで宝石のように輝いて、シャルロッテの心を一瞬で虜にした。


 願うことが許されるのなら全部食べたいぐらいである。しかしながら、さすがにそれは贅沢がすぎる。そもそも食べきれないし。


 なので、シャルロッテは食べるケーキを選んでいる。選んでいるのだが。


「どうかされましたか、ミス・ウェルナー」

「いえ」


 あまりにも思い悩んでいたからなのか、向かいの席から爽やかな声が投げかけられた。


「その、どのケーキにしようかな、と」

「なるほど。こちらのケーキはどれも美味しそうですから、目移りしてしまいますよね」


 その実リチャードの様は落ち着いたものである。彼はもう、頼むものを決めてしまったのだろうか。


「差し支えなければ、何で悩まれているかをお聞きしても」

 リチャードが静かな声で訊ねてくる。


「チーズケーキが好きなんですけど、チョコレートケーキも気になっていて……」


 何を隠そう、シャルロッテはチーズケーキが大好きである。しかしながら、こちらの喫茶のチョコレートケーキは、有名らしい。見れば大半の客がこれを注文していた。何層にも層が重ねられていてとても美しい。


「なるほど、それは難題だ」

 リチャードは頷く。思う存分悩め、ということだろうか。


「飲み物はお決めになっていますか?」

「あ、はい。どちらでも大丈夫です」


 ケーキセットはコーヒーか紅茶を選べるようなのだが、シャルロッテはそれはどちらでもよかった。そんなことよりももっと大切なことがあったので。


「では」

 リチャードがさっと目配せをすると、給仕がすぐにやってくる。そのまま彼は、


「チーズケーキとチョコレートケーキのセットを、ひとつずつ。飲み物はどちらも紅茶で」


 頼んでしまった。


「承知いたしました」

 あまりにも鮮やかな手際に、シャルロッテは何も口を挟むことが出来なかった。


「あの、カールトン、さん」

「はい。楽しみですね、ケーキ」


 そう微笑まれればシャルロッテはもう、何も言えなくなってしまった。

 なお、見惚れていたわけではない。


 しばらくすると、給仕がまたやってきた。ポットとカップ、続けて小さな砂時計が置かれて、この砂が全て落ちてから茶を注ぐようにと言われる。


 そして最後に、金縁の美しい皿がテーブルの上に置かれた。そこには、シャルロッテが頼んだケーキが一つずつ載せられている。


 はてさて、どうすればいいのだろう。窺うように整った顔を見つめたら、

「良ければ、一口いかがですか」


 リチャードはチョコレートケーキの皿をシャルロッテの側に寄せた。口元には、余裕のある笑みが浮かんでいる。


「はい?」


 これは単なる親切心なのか、それとも揶揄からかいを含んだものなのか。

 表情だけなら、どちらとも取ることができる。


 最初から、シャルロッテが食べたいものを頼んでくれるつもりだったのかは分からない。ただ、あまりにも手慣れている。


「せっかくなので味見をされては、と思いまして」

 リチャードはそれ以上何も言わなかった。


 二人の間に沈黙が落ちる。もしかして、この間を楽しんでいるのか。


 きっと星の数ほどの女に、同じことをしているんだわ。そうでなければおかしい。


 けれど、ケーキが気になっているのは、事実である。シャルロッテは意を決してフォークを取って、そっとチョコレートケーキをすくった。


 ぱくりと頬張れば、濃厚なチョコレートの風味が広がる。それと豊潤なコーヒーの香り。生地はアーモンドだろうか。全てが一体となって調和を成している。


 おいしい。すごく、おいしい。


 ふと、視線を感じて皿から顔を上げたら、リチャードがじっとこちらを見つめていた。なんだかまるで眩しいものでも見るように、緑の目を細めて。


「あ、あのすみません」

 なんということだ。ケーキに夢中になっていて、この顔のいい同席者のことを失念していた。


「いや、こんなに美味しそうに食べてもらえるなら、このケーキは幸せだな、と思っていただけです」


 何を食べてどうやって育てば、こんなことがするりと口から出てくるようになるのだろう。


 恥ずかしさが限界に達してそっぽを向けば、ちょうど砂時計の砂が全て落ちたところだった。リチャードはその大きな手でポットを手にしたかと思うと、流れるような所作で茶を注ぐ。


 そうして満たされたカップが、シャルロッテの前に置かれた。


 何から何まで、いっそ腹立たしくなるほどに完璧である。カップと交換のように、シャルロッテはチョコレートケーキの皿をリチャードの近くに押しやった。


「もう少し召し上がっていただいても、僕は構いませんが」


 シャルロッテはふるふると首を横に振った。さすがにこれ以上はだめだ。そっとチーズケーキの方の皿を引き寄せて、紅茶を飲む。華やかな香りのそれはケーキにもよく合う。きっといい茶葉が使われているのだろう。


「お休みの日は何をされているんですか?」


 ふと、リチャードはチョコレートケーキにフォークを入れながらそんなことを訊ねてきた。


 シャルロッテは、ちびちびとチーズケーキを食べ始めたところだった。だから、


「そんなことを聞いてどうなさるんですか?」


 つい、言ってしまった。

 ああ、とうとう頭がどうかした女だと思われた。


 十代の小娘でもあるまいし、思っていることと口にすることを分けるぐらいの分別はあるつもりだったのに。


 シャルロッテは、食べかけのチーズケーキが載った皿まで齧りそうなほどに見つめたまま、顔を上げることができなかった。


「いえ、僕は本屋巡りが好きなのですが、もし良ければご一緒出来ればなと思いまして」


「……へっ」


 恐々顔を上げれば、リチャードの顔色は少しも変わらなかった。他人に好印象を与える笑顔の見本市のような、やわらかな笑みを湛えたままである。


「あなたのことをもっと知りたい」


 その時、時が一瞬止まったかのような気がした。


 貴婦人たちの口さがないおしゃべりも、華やかな紅茶の香りも、時折テラスに吹く風も全て、遠くのことのようで。


 ただ、目の前のこの人だけが自分の世界の全てであるような、そんな錯覚にシャルロッテは囚われた。


 そして、真にリチャードに見惚れた。


「どんな本を選ぶかということは、その人がどんな人かを物語る気がするんです」


 シャルロッテはずっと、「この人は、わたしを知ってどうするのだろう」というようなことを遠くのことのように考えていた。


 緑の瞳を少しだけ揺らして、リチャードが訊ねる。


「ミス・ウェルナー?」


「た、確かに本の趣味は人柄を示すと思いますわ」


 かろうじてそう返しながら、このままだとせっかくのチーズケーキの味は分からなくなりそうだなと、シャルロッテは思った。

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