第10章「オルゴールの由来」第4部「月の音楽の練習」
2025年5月15日の午後、美月の自宅音楽室には柔らかな陽光が差し込んでいた。美月はピアノの前ではなく、窓際の小さなテーブルに向かって座り、二つのオルゴールを前にじっと見つめていた。
母から受け継いだオルゴールは、藍色のエナメルに銀色の月と星の装飾が施された優美なもので、使い込まれた年月を感じさせる風合いがあった。一方、月見恒彦から新たに贈られたオルゴールは、シンプルな木製の箱に月の満ち欠けの模様が精緻に刻まれ、百年以上の歴史を秘めた古典的なデザインだった。
「あまりにも違う」美月はつぶやいた。「でも、同じ源から生まれたものなのね」
彼女は慎重に両方のオルゴールに手を伸ばし、それぞれの感触を確かめた。母のオルゴールは手に馴染む温かさがあり、月見家のオルゴールには威厳ある重みがあった。美月はまず母のオルゴールの鍵を回し、懐かしい音色を部屋に流した。
ショパンのノクターン第20番嬰ハ短調。幼い頃から聞き慣れたその旋律は、今でも美月の心を揺さぶった。彼女はオルゴールの音色に耳を傾けながら、ゆっくりとピアノの前に移動した。
「月の光を指先に集める…」
美月は月見恒彦から教わった言葉を思い出しながら、目を閉じた。窓から差し込む光を感じ、それが自分の指先に集まっていくイメージを抱く。右手を鍵盤の上に浮かせ、そっと降ろした。
しかし、指は思うように動かなかった。美月の顔に失望の色が浮かんだ。
「やっぱりダメか…」
その時、彼女のスマートフォンが鳴った。星野からの電話だった。
「どう?練習は始めた?」
「ええ、でも、やっぱりすぐには上手くいかないわ」
「焦らなくていい」星野の声は温かだった。「僕の方でも調査を進めているよ。明日、僕のアパートに来てくれないか?オルゴールの音を調べてみたいんだ」
翌日、美月は星野のアパートを訪れた。部屋の一角には小型の録音機器や分析装置が並べられていた。星野は熱心な表情で機器を操作し、オルゴールの音色を録音していた。
「このグラフを見て」星野はコンピュータ画面を指さした。「普通のオルゴールとは違う特徴があるんだ。特に月の満ち欠けに合わせて音の質が変化している」
美月は興味深くモニターを覗き込んだ。「これって証拠になるの?」
「そうだね」星野は分かりやすく説明を続けた。「これは単なる思い込みじゃないんだ。音が実際に変化している。それに、二つのオルゴールを同時に鳴らすと…」
星野は測定データを切り替えた。二つのグラフが重なり合い、新たなパターンを形成していた。
「お互いが影響し合って、新しい音が生まれているんだ」星野は目を輝かせて言った。「これは通常の音の重なりだけでは説明できない特別な現象だよ」
美月は星野の熱意に思わず微笑んだ。「でも、それがどうして私の演奏に影響するの?」
「心と体は音に特別な反応をするんだ」星野は美月の目をじっと見つめながら説明した。「特に幼い頃から聴いてきた音には、無意識のうちに反応する。お母さんの声を聴いた赤ちゃんが安心するように、君の体はこのオルゴールの音に特別な反応を示すんだと思う」
彼らの距離が近いことに気づき、美月は少し頬を紅潮させた。星野も少し照れたように視線をそらし、新たな練習法を提案した。オルゴールの音を聴きながら、実際にピアノを弾くのではなく、指の動きをイメージする「心の中での練習」だった。
「脳科学では、動きをイメージするトレーニングが実際の技術向上に効果があると分かっているんだ」星野は再び落ち着いた口調で話した。「オルゴールの音を聴きながら、頭の中で演奏をイメージしてみて」
美月は半信半疑ながらも、その方法を試してみることにした。星野の提案に科学的な裏付けがあることは理解できたが、それだけで本当に右手の症状が改善するのかは疑問だった。
星野はそんな美月の表情を見透かしたように言った。「科学だけでは説明できない部分もあるだろう。でも、それは単にまだ解明されていない領域というだけかもしれない」
その言葉に、美月は心が軽くなるのを感じた。科学と神秘の間で、星野は美月が求める支えになってくれていた。彼らの視線が交わった瞬間、二人の間に言葉以上の理解が生まれているのを美月は感じた。
5月20日の夜、美月は自宅でオルゴールの音色を聴きながら練習に取り組んでいた。そこに父・水島正が物思いに沈んだ様子で姿を現した。彼は娘の練習風景を離れた場所から見守っていたのだ。
「お父さん…」美月は驚いて振り向いた。
「邪魔するつもりはなかったんだ」水島正はそう言いながら近づいてきた。「最近、お前が音楽と向き合う姿を見ていて…真理を思い出したよ」
彼は手に古い日記を持っていた。「これは真理のものだ。オルゴールと演奏についてのメモが書かれている」
美月は感動して日記を受け取った。そこには母の繊細な筆跡で「月の光を集める」演奏法についてのメモ書きがあった。
『指先が月の光を受け止めるイメージを持つと、鍵盤との間に新しい関係が生まれる。それは力ではなく、光と影の対話のように…』
「お父さんは信じてくれていたの?母のこの…特殊な演奏法」
水島正はしばし考え込むように頷いた。「半信半疑だった。科学者としての私には、理解しがたい概念だったからな。だが、彼女の演奏を聴くと、確かに何か特別なものがあった」
彼は部屋を出て、しばらくして古いピアノ譜面台を持って戻ってきた。「屋根裏から見つけた。真理が大切にしていたものだ」
その譜面台は、手入れの行き届いた古い木製のもので、裏側には小さく文字が刻まれていた。美月はそれを感慨深く読み上げた。
「月は音楽を奏で、音楽は月を映す」
「彼女の座右の銘だった」水島正は懐かしむように言った。「当時の私には、ただの詩的表現だと思っていた。だが今になって思えば…」
父娘は互いを見つめ、水島真理の残した言葉の意味を噛みしめた。
「ありがとう、お父さん」美月は心を込めて言った。「これからも練習を続けるわ。母の音楽を…いえ、私自身の音楽を見つけるために」
水島正は娘の決意を感じ取り、穏やかに微笑んだ。「応援しているよ」
父の言葉に、美月は新たな勇気が湧くのを感じた。星野の科学的アプローチと父から受け継いだ母の遺産。異なる二つの支えが、彼女の中で調和し始めていた。
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