第10章「オルゴールの由来」第3部「月見山荘への訪問」
2025年5月中旬、新月から徐々に月が満ちていく時期、美月と星野は月見野の郊外に位置する月見山荘を訪れた。山の中腹に佇む古い日本家屋は、周囲の自然と調和するように静かに存在していた。
玄関に立つと、扉は二人を待っていたかのように自然に開き、月見恒彦の姿が現れた。
「よく来たね、美月さん、星野君」月光老人は穏やかに微笑んだ。「君たちの来訪を待っていたよ」
室内に案内された二人は、驚くほど開放的な空間に足を踏み入れた。天井が高く、大きな窓からは月見野の町が一望できる。壁には月の満ち欠けを描いた絵画や、古い楽器が飾られていた。
「お茶でもどうかな」月見恒彦は二人を座卓に招き入れた。「オルゴールの秘密を見つけたようだね」
「はい」美月は隠し底から見つけた羊皮紙を取り出した。「これが『月の音楽奏法』…ですね」
月見恒彦は静かに頷いた。「そう。月見家に代々伝わる秘伝の演奏法だ。しかし、それを実践できる者は稀だった」
彼は美月の持参したオルゴールと羊皮紙をテーブルに置かせると、懐から小さな木の箱を取り出した。それは美月のオルゴールよりもさらに古く見えた。
「これが、月見家に伝わる最初のオルゴール。私の曽祖父が製作したものだ」
月見恒彦はゆっくりとその経緯を語り始めた。月見家は代々、月と音楽の関係を研究してきた家系だった。江戸時代末期、月見野村(現在の月見野市)で月見一族が始めた研究は、明治時代に月見修一郎によって体系化された。彼こそが最初のオルゴールを作った人物だった。
「月の光には特別な力がある。それは科学的には説明しづらいが、私たちの感覚や能力に影響を与える」月見恒彦は静かに語った。「特に音楽演奏においては、月齢によって指先の繊細さや音の聴こえ方が変化する」
「それを立証するための実験装置として、最初のオルゴールが作られたんですね」星野が理解したように言った。
「正確には、月の力を『収集』し、『増幅』するための装置だ」月見恒彦は微笑んだ。「そして、それは代々改良されてきた」
「しかし、なぜ母にそのオルゴールを?」美月が尋ねると、月見恒彦の表情が柔らかくなった。
「真理さんは特別な才能を持っていた。彼女は自然と『月の音楽』を理解した。教えなくても、彼女の指先は月の光を集めることができた」月見恒彦は懐かしむように言葉を続けた。「そして、それは君にも受け継がれているはずだ」
美月は自分の右手を見つめた。「でも、私は演奏障害で…」
「実は、私もかつては君と同じだった」
突然の告白に、美月と星野は驚いた表情を見せた。
「30代前半の頃、私は左手に神経障害を発症した。演奏家としてのキャリアは終わりを告げ、絶望の中にいた」月見恒彦は左手の手袋を外し、美月に見せた。かつての苦悩を物語るかのような古い傷跡があった。
「どうやって克服されたんですか?」星野が尋ねた。
「『月の音楽』だよ」月見恒彦は微笑んだ。「月見家に伝わる奏法を極限まで研究し、応用した。月の力を借りて、新たな演奏法を開発したんだ。今でも左手は完全ではないが、音楽を奏でることはできる」
彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅にあったピアノに向かった。そして、主に右手を使いながらも、時折左手も添えて、美しい旋律を奏で始めた。それはショパンのノクターンを基調としながらも、独自のアレンジが加えられた幻想的な曲だった。
演奏が終わると、静寂が部屋を満たした。
「これが『月の音楽』…」美月はつぶやいた。「母の演奏にも、この神秘的な響きがありました」
「お母さんは、私の最高の弟子だった」月見恒彦は静かに言った。「そして、彼女はその才能を君に受け継いだ」
彼は美月と星野を深い廊下の先にある特別な部屋へと案内した。ドアを開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
天井から床まで、さまざまな大きさの鏡が配置された円形の部屋。中央には小さなピアノと、複数のオルゴールが置かれていた。天井には特殊なライトが設置されており、それぞれが異なる月齢の光を再現できるようになっていた。
「ここが、私の研究室だ」月見恒彦は言った。「月の光を人工的に再現し、その効果を研究するための空間だ」
星野は科学者としての好奇心をかき立てられたようだった。「これは素晴らしい…まるで月の研究所のようです」
月見恒彦はうなずいた。「科学と神秘の狭間を探るには、両方からのアプローチが必要なんだ」
彼は手早く部屋の中央に美月を立たせ、ライトの角度を調整した。月光のような銀色の光が鏡に反射し、部屋全体が幻想的な輝きに包まれた。そして、美月のオルゴールと古いオルゴールを並べて置いた。
「さあ、両方のオルゴールを同時に聴いてみなさい」
美月が二つのオルゴールの鍵を回すと、部屋中に不思議な音色が広がり始めた。二つの旋律が重なり合い、新たな和音と倍音を生み出していた。
「この現象を私は『月の共鳴』と呼んでいる」月見恒彦は静かに説明した。「二つのオルゴールが互いの音を増幅し、新たな音色を創り出す。これは単なる音響現象ではない。月の光が音に変わり、その音が再び月の光を呼び寄せる——まるで潮の満ち引きのように、光と音が互いを強め合う循環なんだ。これにより、通常では感じられない微細な神経の動きさえも目覚めさせることができる」
美月は音色に包まれながら、自然と目を閉じた。すると、指先に不思議な感覚が広がっていった。まるで月の光が液体のように指の中に流れ込んでくるような感覚。
「感じるのかい?」月見恒彦の声が静かに響いた。「それが月の力だ。真理さんも、初めてこの感覚を体験した時、同じ表情をしていた」
星野は科学者としての視点から現象を観察していた。「光の反射と音波の共鳴が、脳の特定の領域を刺激しているのかもしれません。特に、末梢神経系に作用して…」
「その通り」月見恒彦は頷いた。「科学的な説明も可能だし、神秘的な解釈も可能だ。真実は、おそらくその両方の間にある」
彼は美月に近づき、静かに言った。「オルゴールの音色を聴きながら、ピアノを弾いてみなさい」
美月は緊張しながらもピアノの前に座った。彼女の右手はまだ完全には回復していなかったが、オルゴールの音色に包まれると、指先に微かな力が戻ってくるのを感じた。それは弱々しい震えのようなものから始まり、次第に温かな流れへと変わっていった。
「月の光を集めるイメージを持って」月見恒彦は優しく導いた。「鍵盤に触れる前に、指先に光が集まったのを感じてから…」
美月は目を閉じ、かつて母が月見野の丘で演奏していた姿を思い浮かべた。月の光を浴びる母の指先は、まるで銀色に輝いているかのように見えた。その記憶に導かれるように、美月は自分の指先にも同じ光が集まるイメージを描いた。
深く息を吸い、精神を集中させる。指先に月の光が集まるイメージを抱きながら、ゆっくりと鍵盤に手を伸ばした。緊張と期待が入り混じる中、最初の音が鳴った時、それは今までになく澄んだ音色だった。まるで月の光そのものが音に変わったかのような、透明感のある音が空間に広がった。
「素晴らしい」月見恒彦は微笑んだ。「君の中に眠っていた才能が目覚め始めたようだ」
練習を終えた後、月見恒彦は古い木箱をテーブルに置いた。
「これを君にあげよう。月見家に伝わる最初のオルゴールだ」
「え、でも、そんな貴重なものを…」美月は戸惑った。
「私には子どもがいない。月見家の伝統は、才能ある者に引き継がれるべきだ」月見恒彦は優しく言った。「真理さんの娘である君こそ、最もふさわしい」
「ということは、美月さんが『月の音楽』の次の継承者ということですね」星野が確認するように言った。
「そう信じている」月見恒彦は静かに、しかし確信を持って頷いた。「彼女にはその資質がある。そして何より、彼女は真理さんと同じ光を持っている」
山荘を後にする時、美月は二つのオルゴールを大切に抱えていた。彼女の心には新たな決意が芽生えていた。
「星野くん、二つのオルゴールを使って練習してみたい」美月は帰り道で言った。「母の遺したものと、月見先生から受け継いだもの。この二つのオルゴールで、私だけの『月の音楽』を見つけたいの」
星野は穏やかに微笑んだ。「僕も協力するよ。科学の視点から、この現象をもっと理解したい」
二人が月見山荘の門を出る時、月見恒彦の声が聞こえた。
「忘れるな、美月さん。真の音楽は、模倣ではなく、自分自身の内側から生まれるものだ。君の母は、自分だけの音楽を見つけた。君も同じように…」
月見野に向かって下る二人の前には、徐々に満ちていく月が優しく光を降り注いでいた。
(第3部 終)
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