第9章「月光老人の秘密」第3部「母の足跡」

2025年4月27日、美月の家の居間では、床一面に段ボール箱や古いアルバム、書類の山が広げられていた。東京から戻った翌日、美月は星野と共に母・真理の遺品を徹底的に調べ始めたのだ。美月の父・水島正も日曜の休日を取って加わっていた。


「本当に申し訳ないね、こんな休日に付き合わせて」水島正は星野に向かって頭を下げた。


「いえ、とんでもないです」星野は丁寧に答えた。「僕も真相を知りたいですから」


美月は手元の写真アルバムのページをめくりながら言った。「父さん、母さんが東京音楽大学にいた頃の話、何か覚えていない?特に指導教授のことなんかは?」


水島正は少し考え込むように天井を見上げた。「そうだな…真理はよく『月見先生』という人の話をしていたよ。二人で出会った頃はね」


「月見恒彦教授のことですね」星野が確認するように言った。


「ああ、そうだ。恒彦先生だ」水島正は目を輝かせた。「真理はその先生のことを尊敬していて、特別レッスンを受けていたと言っていた。でも…」彼は言葉を選ぶように一瞬躊躇した。「結婚して月見野に引っ越す話になった時、真理はある決意をしたようだった。『月見先生の研究を継ぐため』とか何とか言っていたんだ」


「研究?」美月と星野は同時に声を上げた。


「ああ、でもそれ以上は聞かなかった。真理の音楽のことは、彼女の領域だと思っていたからね」水島正は少し寂しそうな表情を浮かべた。


美月は黙々と段ボール箱の中を探っていた。「あ…」突然、彼女の手が止まった。底の方から取り出したのは、小さな鍵のついた革表紙の本だった。「これ、日記じゃない?」


「そうだね。真理の日記だ」水島正は懐かしむように微笑んだ。「でも施錠してあるから、中身は見られないよ」


美月は日記を手に取り、鍵穴を見つめた。「この鍵…どこかで見たことがある気が…」彼女は突然思い出したように立ち上がり、自分の部屋に駆け込んだ。


戻ってきた彼女の手には、オルゴールが持っていた。「もしかしたら…」彼女はオルゴールの底面に注目した。そこには小さな突起があり、それを引っ張ると、何かが外れた。小さな鍵だった。


「まさか」星野が息を呑んだ。「あの発見から始まった研究がここにつながるとは…」


美月は震える手で鍵を日記の鍵穴に差し込んだ。ぴったりと合い、かちりという小さな音とともに錠が外れた。


「オルゴールに鍵が隠されていたなんて…」水島正は驚いた表情で二人を見た。「真理は何を考えていたんだろう」


美月は慎重に日記を開いた。美しい筆跡で綴られたページが現れた。表紙の裏には「この日記は私の娘、美月のために」と書かれていた。


三人は黙って最初のページを読み始めた。


---


*1998年4月15日*


今日、初めて月見教授の特別レッスンを受けた。通常のレッスンとはまったく異なり、技術よりも「音楽の本質」について語られた。


「音楽は単なる音の羅列ではない。心の奥底から湧き上がる感情の波を、指先を通して鍵盤に伝えるものだ」


そう言いながら、教授は窓から差し込む月明かりを指差した。「月の光を感じながら弾きなさい」と言われたが、その意味がわからない。


---


「母さんも月見教授からレッスンを受けていたんだ…」美月はページをめくりながら呟いた。


---


*1999年2月10日(満月の夜)*


驚くべきことがあった。今夜は満月。月見教授の自宅でのレッスンで、初めて教授の「真の演奏」を聴いた。あれは人間の演奏だろうか。音が光に変わり、部屋中が輝いているように感じた。


終わった後、教授はこう言った。「私には特別な才能がある。そしてあなたにもそれがある」


---


「これは…」星野は言葉を失った。「感覚的な表現だが、実際の神経科学的には説明できる現象かもしれない」彼は小さな声で呟いた。「共感覚の一種で、聴覚刺激が視覚野を活性化させているのではないか」


美月は続けて読んだ。


---


*2000年7月3日*


教授の研究室で、「月の音楽力」についての資料を見せてもらった。古代から伝わる言い伝えや、月の満ち欠けと人間の能力の関連についての膨大な記録。学術的な研究というより、半ば神秘学のように思えたが、教授は真剣だった。


最も驚いたのは、教授自身も私と同じような演奏障害に苦しんだという事実。36歳の時、演奏中に突然右手が動かなくなったという。医者は原因不明と診断したが、教授は満月の夜に症状が軽減することに気づき、独自に研究を始めたそうだ。


「真理、君の名前は偶然ではない。真実を求める者にこそ、月は力を与える」


---


美月の手が震えた。「母さんも…そして月見教授も、私と同じ症状だったの?」


水島正は目を見開いていた。「こんなこと、真理は私に話してなかった…」


星野はノートを取り出して、何かメモを取り始めた。「これは科学的にも非常に重要なデータです」彼の声には興奮が滲んでいた。「三世代にわたって同様の症状と月の関連性が見られるケースは、統計学的には1千万分の1以下の確率です。単なる偶然ではなく、遺伝的または環境的要因が存在する可能性が高い。おそらく特定の神経回路における月光と脳内リズムの同期現象が関係しているのでしょう」


美月はさらにページをめくり続けた。そこには月見恒彦との交流、彼の研究の詳細、そして母・真理自身の体験が綴られていた。


---


*2003年10月15日(オルゴール受け取り)*


今日、教授から信じられないものを譲り受けた。「月光のオルゴール」と呼ばれる、教授の家系に代々伝わるという古いオルゴール。


「あなたならこの力を正しく使える」と言われた。


演奏するとまるで月の光が音になったかのような、神秘的な音色。不思議なことに、このオルゴールを聴いた夜は、私のピアノの音色も変わる気がする。指先がより敏感になり、心の中の感情が直接音になって流れ出るような感覚。


---


「これは…私が持っているオルゴールのことだわ」美月は自分の膝の上にあるオルゴールを見つめた。「母さんは月見教授から受け継いだのね」


「音源のノイズパターンが神経系に何らかの影響を与えている可能性があります」星野は思索に耽りながら言った。「音色と振動が特定の周波数で末梢神経を刺激し、音楽的感受性を高めている…そういった仮説が立てられますが、実証には詳細な測定が必要です」


---


*2004年5月20日(結婚前)*


正と結婚し、月見野に移住する決心をした。教授も強く勧めてくれた。


「月見野には特別な力がある。あなたの才能が最も輝く場所だ」


正にはまだ話していないが、私のお腹の中には新しい命が宿っている。教授はそれも知っているようだった。おなかに手を当てながら、「その子もまた、特別な才能を持つだろう」と微笑んでいた。


---


美月は父を見た。水島正は驚きと複雑な感情が入り混じった表情で日記を見つめていた。


「そうだったのか…」彼は小さく呟いた。「真理が突然月見野への移住を提案したのは…このためだったのか」


---


*2005年3月10日(美月誕生後)*


娘を「美月」と名付けた。満月の夜に生まれた彼女は、月の光のように美しい子。誕生の瞬間、窓から差し込む月明かりが彼女の顔を照らしていた。不思議な縁を感じる。


教授は引退し、月見野の山に庵を構えたと聞いた。時々会いに行くと「守護者」としての役割について語る。よく理解できないが、この町と月と音楽の間には、古くからの繋がりがあるらしい。


---


読み進めると、美月が5歳の頃からピアノを始め、その特別な才能を母が認識していたこと。そして真理が病に倒れる前の最後の記述にたどり着いた。


---


*2015年1月21日(病床にて)*


私の時間はもうわずか。美月は素晴らしいピアニストになるだろう。満月の夜、彼女のピアノに耳を傾けていると、かつて教授から感じたのと同じ神秘的な力を感じる。


この日記も、いつか彼女が見つけることを願って隠しておこう。オルゴールの秘密、月と音楽の力、そして月光老人の正体。すべて美月自身が発見すべき真実だ。


美月、あなたが読んでいるなら—私の愛する娘よ、あなたの中には特別な才能がある。月の光に導かれ、あなた自身の音楽を見つけなさい。右手の痛みに苦しむこともあるだろう。それは呪いではなく、より深い音楽へと導く贈り物なのだ。


そして月光老人を信じなさい。彼はあなたの本当の才能を理解している唯一の人。彼の本名は月見恒彦。かつて私の師であり、あなたの音楽の道を照らす光となるだろう。


さようなら、そして、ありがとう。

あなたの母より


---


日記の最後のページを読み終えた時、美月の頬には涙が流れていた。水島正も静かに目頭を押さえている。星野はそっと二人を見守りながら、研究ノートにメモを取り続けていた。


「月光老人は…月見恒彦だったのね」美月は震える声で言った。「そして母さんは最初から知っていた…」


「恒彦先生が月見野に戻っていたなんて…」水島正は驚きに満ちた声で言った。「そして彼が月光老人として美月を見守っていたなんて…」


「これで繋がりました」星野が静かに言った。「月見恒彦教授が演奏障害を患い、月の力による回復を研究。その後、弟子の水島真理さんにオルゴールを託し、自らは月見野に戻って月光老人として生きる。そして真理さんの娘である美月さんにも同じ才能と症状が現れた…」


星野は自分のノートを見ながら続けた。「おそらく、この演奏障害は通常の局所性ジストニアとは異なるメカニズムを持つ可能性があります。一般的な演奏障害は過度の使用や神経的ストレスに起因しますが、この場合は月の周期と連動している。月の引力が脳脊髄液の循環パターンに影響し、それが特定の神経回路の機能に作用するという仮説が考えられます」


「母さんが私にオルゴールを見せた日」美月は思い出すように言った。「あれは偶然じゃなかったのね。彼女は私が月の力に目覚めることを期待していた」


「そして最後の手がかりが…」星野が言葉を探した。「月光老人…いや、月見恒彦さん自身なんだ」


美月はオルゴールを手に取り、立ち上がった。決意に満ちた表情で言う。「会いに行かなくちゃ。月光老人…月見恒彦さんに。すべての真実を知るために」


水島正は黙って頷いた。「行くべきだ、美月。真理も、それを望んでいたはずだから」


「でも、彼はどこにいるのでしょう?」星野が尋ねた。


美月は日記の中から一枚の地図が挟まっていたことに気づいた。それは月見野の山奥、一般の地図には載っていない場所を示していた。「ここよ」美月は地図を指差した。「山の庵。母さんはここに記していたわ」


星野は地図を覗き込んだ。「明日行こう。明日は満月だ。もし月と音楽の関連性が本当なら、彼も私たちを待っているはずだ」


美月はオルゴールを胸に抱きしめた。「ありがとう、母さん」彼女はつぶやいた。「ようやく、すべてが明らかになりそう」


窓から差し込む夕日の光が、オルゴールの表面で金色に輝いていた。まるで明日の満月の輝きを予感させるように。


(第3部 終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る