第9章「月光老人の秘密」第2部「東京の足跡」

2025年4月26日、東京駅から地下鉄に揺られること約30分。美月と星野は東京音楽大学のキャンパスに降り立った。新緑の季節を迎えた構内は、あちこちから楽器の音が聞こえてくる。普段は静かな月見野で暮らす美月にとって、東京の喧騒と活気は少し圧倒されるものがあった。


「東京音楽大学には20年ぶりくらいかな」美月は感慨深げにキャンパスを見渡した。「母と一緒に演奏会を聴きに来たことがあったの。まだ小学生だったから、あまり覚えていないけど」


「僕は初めて来たよ」星野は案内板を見ながら言った。「図書館はこっちみたいだね。まずはそこから調べてみよう」


大学の図書館は想像以上に広く、音楽関連の資料が体系的に整理されていた。星野が受付で手続きを済ませ、二人は「月見恒彦」に関する資料を請求した。


「こちらが月見恒彦教授に関する資料です」司書が持ってきたのは、思ったより多くの資料だった。「教授はピアニストとしての証跡を残されただけでなく、脳科学と音楽の関係に関する核心的な研究も記録されています。『音楽知覚の脳内メカニズム』という論文は現在も引用されています」


美月と星野は窓際の閲覧席に資料を広げた。そこには月見恒彦の華やかな経歴が記されていた。幼少期から天才的な才能を示し、国際的なピアニストとして活躍、30代で東京音楽大学の教授となり、多くの優秀な音楽家を育てたこと。そして36歳の時、突如として公の場から姿を消し、研究と教育に専念するようになったこと。


「36歳で突然演奏活動をやめたのか…」星野が眉をひそめた。「何か理由があったはずだ」


「こういうことって、音楽家にはよくあることなの?」美月が尋ねた。


「いや、彼ほどの活躍をしていた人が突然引退するのは珍しい。特に36歳というのは、ピアニストとしては脂が乗り切った年齢だ」


二人は次に雑誌の切り抜きや新聞記事を調べ始めた。そこで興味深い一節を見つけた。


「『月見恒彦氏、リサイタル中に演奏停止—健康上の理由か』」星野が古い新聞記事を読み上げた。「『1983年6月5日、東京文化会館で行われていた月見恒彦氏のリサイタルで、ベートーヴェンの「月光ソナタ」第3楽章演奏中、突然演奏が中断される事態が発生。関係者によると、右手に何らかの異常が生じたとみられ…』」


「右手!?」美月は思わず自分の右手を見た。「私と同じ症状…?」


「可能性はあるね」星野は続きを読み進めた。「その後、彼は複数の医師の診察を受けたが、明確な診断は下されなかったようだ。公式な引退発表は一切なく、徐々に公の場から姿を消していったとある」


美月は資料の山から、ある写真を見つけ出した。それは月見恒彦の演奏風景だった。長い指が鍵盤を奏でる姿に、何か神々しさすら感じられた。


「この人の演奏、一度聴いてみたかったな…」美月がつぶやいた。


「ちょっと待って」星野が言った。「図書館にはレコードやCDのアーカイブもあるはずだ。月見恒彦の演奏記録を聴けるかもしれない」


音源資料室に移動すると、案の定、月見恒彦の録音がいくつか保存されていた。二人はブースに入り、ヘッドフォンを通じて40年前の演奏に耳を傾けた。


最初の数音から、美月は息をのんだ。確かな技術の上に成り立つ感性豊かな演奏。しかしそれだけではなく、何か言葉では表現できない神秘的な輝きを持った音色だった。星野も無言で聴き入っている。


「これは…」演奏が終わり、美月は言葉を探した。「まるで月の光が音になったみたい」


「比喩じゃなく、本当にそう感じる」星野も頷いた。「科学的に説明できない部分があるのは確かだ。我々の研究でも月の影響による脳波の変化と共鳴現象を測定できているが、この演奏はそれを超えている感覚がある。個人的には、高度な自己調整能力が神経システムに作用している仕組みがあるのではと推測している」


「それに…」美月は迷いがちに続けた。「月光老人の持つオルゴールの音色に、どこか似ている気がする」


「そろそろ佐々木教授との約束の時間だね」星野が時計を見て言った。「行こうか」


出発前に、星野は大学の名誉教授で、かつて月見恒彦と同僚だった佐々木啓太教授にコンタクトを取っていた。教授は驚きつつも、二人との面会を快諾してくれたのだ。


佐々木教授の研究室は、音楽学部の古い棟の一角にあった。75歳になる教授は、白髪とやや丸い体型をしていたが、目は鋭く知性に満ちていた。


「月見恒彦について調べているとは、意外な訪問者だね」教授は二人に紅茶を出しながら言った。「最近、彼の名前を聞くことはほとんどないよ」


「佐々木先生は月見教授と親しかったのですか?」美月が尋ねた。


「同僚として15年ほど一緒に仕事をした。親しいと言えるかどうか…」教授は少し考え込むように言葉を選んだ。「彼は常に謎めいた人物だった。驚くほどの才能と知性を持ちながら、どこか人との距離を保つタイプだったね」


「突然演奏活動を辞めたことについて、何かご存知ですか?」星野が核心に迫った。


教授はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。


「あれは誰にとっても衝撃的な出来事だった。彼の右手に何が起きたのか、医学的には解明されなかったんだ。"局所性ジストニア"という診断もあったが、彼自身はそれを信じていなかった」


「どういうことでしょう?」美月が前のめりになって聞いた。


「彼は…」教授は声を落とした。「"月の影響"を信じていた。演奏能力が月の満ち欠けによって変化する、という奇妙な理論を持っていてね。最初は誰も真剣に取り合わなかったが、彼は独自に研究を続けていた」


「学術界の反応はどうだったのですか?」星野が質問した。


「当然だが、却下されたよ」教授は苦い表情を浮かべた。「科学者として、我々は模範的な彼の研究方法に痛烦を感じた。データ収集は責任をもって行われていたが、結論が先に立っているように見えたんだ。科学は二重目隔法や対照試験を必要とし、或いは再現性を求める…でも月見はこう言った:『ある種の真実は、単純な実験には収まらない』と。彼にとってはデータと体験が同等の重みを持っていたんだよ」


美月と星野は思わず顔を見合わせた。


「それで彼は」佐々木教授は続けた。「研究のために故郷の月見野に帰ると言い残して、大学を去ったんだ。正式な退職は10年後だったけどね」


「水島真理という学生を覚えていますか?」美月が急に質問を変えた。「私の母なのですが」


教授の顔が明るくなった。「もちろん!真理さんは素晴らしいピアニストだった。月見教授の最後の弟子と言われていたよ。君が彼女の娘さんか…」教授は美月の顔をじっと見た。「よく似ているね」


「母と月見教授の関係について、何か覚えていることはありますか?」


「彼は真理さんに特別な才能を見出していたようだ。他の学生には決して見せない研究ノートを彼女に見せていたという噂もあった」教授は少し考え、立ち上がると古い書棚から一冊のノートを取り出した。「これは月見が去る時に私に託したものだ。『いつか訪ねてくる人がいるかもしれない』と言ってね」


それは革表紙の古いノートで、表紙には「月と音楽の研究」と記されていた。


「このノートをお二人に貸そう。私には理解できない内容だが、君たちなら何か見つけられるかもしれない」


美月はノートを受け取り、そっと開いた。そこには緻密な筆跡で、月の満ち欠けの図と演奏能力の相関グラフ、身体の神経系統に関するメモなどが書き込まれていた。まさに美月と星野が月見野で研究していたことと同じだった。


「あと一つ」佐々木教授は引き出しから小さな写真を取り出した。「これは月見と真理さんが撮った最後の写真だ。彼が大学を去る少し前に撮影されたものだよ」


写真には月見恒彦と水島真理が並んで立っていた。真理の手には何か小さなものを持っているように見えた。


「あれは…」美月は息を飲んだ。「オルゴール!」


「そうだ」教授は頷いた。「月見が真理さんに譲ったと聞いている。彼が大切にしていた家宝のようなものだったらしい」


「最後に」星野が質問した。「月見教授は今どこにいるかご存知ですか?」


「残念ながら」教授は首を振った。「彼が月見野に戻った後、連絡は途絶えた。生存しているとすれば今年で78歳になるはずだが…」


美月と星野は佐々木教授にお礼を言い、研究ノートと写真のコピーを持って大学を後にした。帰りの電車の中、二人は静かに考え込んでいた。


「月見恒彦と月光老人…」星野がついに口を開いた。「二人は同一人物かもしれないね」


「私もそう思う」美月は窓の外に広がる夕暮れの空を見た。「東京から月見野に戻った月見恒彦が、月光老人として生きているとしたら…」


「それにしても」星野は研究ノートを見ながら言った。「彼の研究は驚くほど緻密だ。40年前に、ここまで詳細に月と音楽の関連性を調べていたなんて」


「星野くん」美月は決意を込めた声で言った。「母の遺品をもう一度調べてみる必要がある。もし母が月見恒彦から何かを受け継いでいたとしたら、それが私たちが探している答えにつながるかもしれない」


電車は夕闇に包まれた風景を走り抜けていった。車窓から見える月は、まるで二人の発見を祝福するかのように、明るく輝いていた。


(第2部 終)

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