月夜のセレナーデ #100%AI生成作品
@moMAMom
第1章「閉ざされた鍵盤」第1部
朝の光が窓辺から差し込み、佐藤美月の閉じた瞼を淡く照らしていた。時計の針が六時を指し、古い柱時計の音が静かに部屋に響く。美月は右手に走る鈍い痛みで目を覚ました。また同じ夢を見ていた。ステージの上、スポットライトを浴び、グランドピアノの前に座る自分。指先から音楽が溢れ出し、会場を満たしていく感覚。そして突然の空白と、目覚めとともに消えていく幸福感。
「また…」
小さくつぶやき、美月は無意識のうちに握りしめていた右手の拳をゆっくりと開いた。手術の痕が、薄く白い線となって手首から小指にかけて残っている。朝になるといつも痛みを感じるのは気のせいなのか、それとも天気のせいなのか、美月にはわからなかった。ただ、この半年間、その痛みは彼女の目覚めとともにあった。
窓辺に向かって歩み寄り、カーテンをさらに開ける。朝日に照らされた月見野町の風景が目に入った。山々を背景に広がる小さな町、霧がかかった遠景、そして視線を少し下げれば、自宅の裏庭と一階に併設された花屋「花みずき」が見える。母がすでに店の準備を始めているのだろう、裏口が開いていた。
美月の部屋は二階の角部屋で、窓からは月見ヶ丘の稜線も見えた。その丘は町の名前の由来となった場所で、満月の夜には町の人々が集まる伝統があると聞いていた。遠くに見える月見ヶ丘の姿は、どこか神秘的で、美月の目にはかつて見上げたコンサートホールのステージのように思えた。しかし彼女は、この町に帰ってきてからというもの、一度もそこに足を運んではいなかった。
十九歳の彼女は、本来であれば東京の音楽大学で学んでいるはずだった。五歳からピアノを始め、数々のコンクールで優勝してきた「天才少女」。そう呼ばれることに慣れてきたころ、すべてが変わった。高校三年の冬、帰省途中の雪道で遭った交通事故。右手の神経を損傷し、かつての繊細な感覚と完璧なコントロールを失ったのだ。
美月は鏡の前に立ち、長い黒髪に無造作にブラシを通した。かつては演奏会前に入念に手入れしていた髪も、今は少し乱れたままにしている。誰に見せるわけでもないのだから。薄いTシャツと部屋着のズボンを着替えずにそのまま身につけ、階下への階段に向かった。
一歩一歩、古い木の階段を降りるたび、微かなきしみ音が響く。美月は右手を胸の前で軽く握り、無意識のうちに守るような姿勢をとっていた。階段を降りる動作さえ、かつてのレガートのような滑らかさはなかった。
一階に降り立った美月の視線は、すぐにリビングの隅に置かれたグランドピアノに向かった。白い布で覆われたそのシルエットは、まるで部屋の中の亡霊のようだった。事故から帰ってきて以来、美月は一度もそのカバーを取ることはなく、ましてや鍵盤に触れることもなかった。
ピアノに近づこうとする足が、無意識のうちに止まる。また例の痛みが右手に走った。実際の痛みなのか、それとも記憶の痛みなのか、もはや区別がつかなかった。
「美月、起きたの?」
母の瑞穂の声が台所から聞こえた。美月は深く息を吸い、少しだけ顔の表情を和らげてから台所に向かった。
「おはよう」
テーブルには既に朝食が用意されていた。納豆、焼き魚、味噌汁、ご飯。瑞穂はいつものように娘のために栄養バランスの整った食事を作っていた。その過剰なまでの心遣いが、時に美月の胸を締め付けた。
「今日は早起きね。よく眠れた?」瑞穂は娘の顔を見ようとするが、美月は視線を合わせないようにした。
「ええ、まあ…」美月は曖昧に答え、席に着いた。
食事をする間、美月は右手をかばうように箸を持ち、左手を主に使って食べていた。完全に動かないわけではないが、細かい動きが思うようにできず、以前のような器用さは失われていた。かつてトリルやアルペジオを完璧に奏でた指が、今は箸をうまく操ることさえ難しい。
瑞穂はそんな娘の様子を見つめながらも、何も言わなかった。二人の間に流れる沈黙は、表面上は平和に見えるものの、言葉にならない多くのものを内包していた。
「今日は天気がいいわね」瑞穂は何気ない会話を始めようとした。「新しいチューリップが入荷するの。手伝ってくれると嬉しいんだけど…」
美月は小さくうなずいただけだった。母が自分を社会に引き戻そうとしていることはわかっていた。しかし、何か言葉を返すと、そこから会話が発展し、どこかで「あの話題」に触れることになる。それだけは避けたかった。
食事を終え、「ごちそうさま」と小さく言って席を立った美月は、リビングの窓辺に置かれた椅子に座った。そこからは裏庭と、その向こうに広がる月見野の町の一部が見えた。
窓から差し込む春の光を背に、美月は半年前の冬を思い出していた。
東京の音楽高校での最後の冬。卒業を前に開かれた全国コンクールでの優勝。審査員の「素晴らしい表現力だ。将来が楽しみな逸材です」という言葉。音楽教師の「美月さんなら音大も夢じゃない。海外留学も視野に入れましょう」という励まし。すべてが順調だった。
ピアノの前に座れば、世界は美月を中心に回り始め、指先からあふれ出る音楽が周囲を満たしていく。特に技巧的な難曲を華麗に演奏することで知られ、ショパンとリストの作品を得意としていた。彼女の演奏を聴くために、コンサートホールに足を運ぶ人も少なくなかった。
そして帰省途中の雪道。突然のスリップ音。視界を埋め尽くす白い光。意識が戻った時には、すでに病院のベッドの上だった。
「神経の損傷があります。リハビリで改善する可能性はありますが…」医師の言葉は、最後まではっきりとは聞き取れなかった。けれど、美月の人生を変えるには十分だった。
「先生、もう演奏はできないんでしょうか」美月の声は震えていた。「特にカンタービレ奏法やレガート、スタッカートなど、細かいタッチの表現が…」
「完全な回復は…」医師の言葉は、美月の耳の中で反響し続けた。
窓辺に座る美月の頬を、一筋の涙が伝った。急いで拭い去る。自分を哀れむ暇はなかった。すでに半年もの時間が過ぎ、哀しみに浸る贅沢は許されないはずだった。
「お店に行ってくるわね」瑞穂が台所から顔を覗かせた。「何か必要なものある?」
「ううん、大丈夫」美月は振り返らずに答えた。
玄関のドアが閉まる音がして、家の中に静けさが戻った。美月は深いため息をついた。
母が出かけた後の家は、いつも以上に静かに感じられた。時計の針の音だけが、この空間に時間が流れていることを証明していた。美月は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。引きこもりがちな生活を送る自分自身への嫌悪感が湧き上がる。
いつもならこの時間、東京の音楽大学の教室で、ピアノの練習に熱中していたはずだった。ハノンやツェルニーの練習曲から始まり、ショパンのエチュードへと進み、コンチェルトの練習へ…。毎日のルーティンが、今はただの記憶に過ぎない。
部屋の隅に置かれたラジオが目に入った。何となく手を伸ばし、スイッチを入れる。すると、柔らかな音楽が流れ始めた。
「次は若き天才ピアニスト、佐々木健太によるショパンの夜想曲第20番です…」
アナウンサーの声が流れ、続いてピアノの音色が部屋を満たした。美月が最も愛した曲。嬰ハ短調の夜想曲、ショパンの「遺作」と呼ばれる曲だった。レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ—ゆっくりと、大きな表現を持って—という演奏指示が施された、深い感情を宿す曲。
美月の指が無意識のうちに動き始めた。かつて何度も弾いた曲の指使いを自然と覚えている身体。左手はスムーズに動くが、右手は思うように動かない。そして突然、鋭い痛みが右手に走った。
「っ!」
美月は痛みに顔をゆがめ、急いでラジオのスイッチを切った。静寂が再び部屋を支配した。美月は震える右手を左手で抑え、苦しげに目を閉じた。
「もう、音楽なんて…」
部屋の閉塞感が一気に彼女を押しつぶしそうになった。このまま家の中にいることが耐えられなくなり、美月は立ち上がった。外出しよう。行き先はなくとも、この部屋から出なければ。
簡素な外出着に着替え、家を出た美月は、人目を避けるように住宅街の裏道を選んで歩き始めた。春の月見野町は、そこかしこで桜の蕾が膨らみ始め、小川のせせらぎが心地よく響いていた。
以前なら、この風景にインスピレーションを得て、音楽に変換していただろう。桜のつぼみはドリッリエ・コン・グラーツィア(優雅にさらさらと)のような繊細なフレーズ、小川のせせらぎはレガートの連続で表現されるメロディに。しかし今は、それすらもかなわない。
「美月ちゃん!」
聞き覚えのある声に振り向くと、高校時代の同級生、高橋明子が手を振っていた。地元の高校からそのまま進学した明子は、今は地方大学の音楽科に通っているはずだった。
「久しぶり。元気だった?もう…大丈夫なの?」明子の声には気遣いが滲んでいた。
「ええ、特に問題ないわ」美月はそっけなく答えた。同情の言葉が一番辛かった。
「そう…よかった」明子は少し言いよどみ、「あのね、私、先月のコンクールで入賞したんだ。美月ちゃんがいなかったから、チャンスだと思って…」と言いかけて、自分の言葉の意味に気づき、慌てて黙り込んだ。
「おめでとう。頑張ったのね」美月は表情を固くして言った。明子の成功を素直に喜ぶべきだと頭では理解していても、胸の奥で渦巻く感情をコントロールするのは難しかった。
短い会話の後、美月は急ぎ足で別れを告げた。同情なんていらない。かといって、自分がいなければ誰かが成功するという事実も、素直に受け止められなかった。
足が自然と向かったのは、町の小高い場所にある公園だった。古びたベンチに座り、遠くを見渡す。視界の端に、レンガ造りの古い建物が見えた。月見野音楽ホール。年に一度の音楽祭が開催される場所。子供の頃、美月もあそこでピアノを弾いたことがあった。
今ならどうだろう。あのステージに立てるだろうか。鍵盤に向かう勇気はあるだろうか。真夜中のカンタービレのような、歌うような美しいメロディを奏でることができるだろうか。
遠くを見つめる美月の瞳に、再び涙が浮かんだ。春の風が頬を撫で、涙を乾かしていく。それでも、心の奥底で広がる喪失感と孤独は、簡単には乾くことがなかった。
空を見上げると、昼間だというのに、薄く月の影が浮かんでいた。美月の名前の由来でもある月。かつては演奏会前に必ず月を見上げ、幸運を祈った習慣があった。
月見ヶ丘の稜線を眺めながら、美月は静かにつぶやいた。
「あの頃は、未来しか見えていなかった。今は…何も見えない」
(第1部 終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます