第1章「閉ざされた鍵盤」第2部

午前十時を過ぎ、「花みずき」の店内には春の香りが満ちていた。朝の光が大きな窓ガラスを通して差し込み、色とりどりの花々を優しく照らしている。瑞穂は早朝から仕入れたばかりのチューリップを水切りし、ディスプレイの準備をしていた。


美月は少し遅れて店に入った。丘の上の公園でしばらく座っていた後、母の店に向かうことにしたのだ。入り口の鈴が鳴り、瑞穂が振り返る。


「あら、来てくれたのね」瑞穂の声には少し驚きと喜びが混ざっていた。


「手伝えることがあるかと思って」美月は小さな声で答えた。


店内には、季節を告げる春の花々が所狭しと並んでいた。淡いピンクと白のチューリップ、繊細なスイートピー、清楚なカスミソウ。朝の陽光を受けて、花々は生き生きとその色彩を放っていた。美月の目には、これらの花々が色彩の楽譜のように映った。ピンクは温かな中音域、白は澄んだ高音、緑の茎は深い低音部のよう。


「ちょうど良かったわ。この入荷したばかりのチューリップ、水切りしてもらえる?」


瑞穂はハサミを差し出した。美月はそれを受け取り、作業台に向かった。茎を斜めに切り、新鮮な断面を作る。左手はスムーズに動くが、右手はカミソリの刃のように鋭いハサミを持つことができず、茎を支える役割に甘んじている。それでも、花を扱うときの美月の表情は、いつもより少し柔らかかった。


「これ、チューリップの新品種なの。『希望』という名前なんですって」瑞穂は話しかけた。


「希望…か」美月は小さくつぶやいた。言葉とは裏腹に、その声音には諦めが混ざっていた。


作業を続けながら、美月は母の動きを横目で見ていた。八年前、父を亡くしてから、母はいつも一人でこの花屋を切り盛りしてきた。娘の音楽教育のために無理をしながらも、一度も弱音を吐かなかった。美月のピアノのレッスン代、コンクール参加費、東京の音楽高校への進学…すべてこの小さな花屋の収入から捻出されていたのだ。


「美月ちゃん、お手伝いしてるのね」


店の入り口から、常連客の佐々木さんが入ってきた。六十代の女性で、趣味の園芸のために週に何度も店を訪れる人だった。


「はい…」美月は目を合わせずに答えた。


「この子、花のアレンジメント上手なんですよ。音楽と同じで、センスがいいんです」瑞穂が自慢げに言った。


その言葉に、美月の表情が一瞬曇った。「音楽と同じで」という何気ない比較が、彼女の心に針を刺した。


佐々木さんが帰った後も、美月と瑞穂は黙々と作業を続けた。花を生ける、水を替える、店内を整える。言葉はほとんど交わさなくとも、二人の動きには不思議な連携があった。母娘という繋がりが、無言の中にも息づいている。


花を扱う美月の左手の動きは、かつてピアノを弾いていた頃と同じように繊細だった。花の茎を支える指の動きは、鍵盤に触れる時の軽やかなタッチを思い起こさせた。しかし右手は、常に控えめに、補助的に動くだけ。その不均衡が、美月の現在の姿を象徴しているかのようだった。


店の奥からは、瑞穂が昼食の準備を始める音が聞こえてきた。


「美月、お昼にしましょう」瑞穂の声がした。


食卓には質素だが手の込んだ料理が並べられていた。自家製の野菜サラダ、具沢山の味噌汁、焼き魚に新米。美月はそこに、母の見えない愛情を感じた。


窓から差し込む春の日差しが、テーブルクロスの上に明るい四角形を作っている。壁には家族写真が飾られていた。父と母と幼い美月の三人が写る写真。父が亡くなる前の、笑顔に満ちた一枚だ。写真の横には、古いフルートケースが飾られていた。美月はそのケースをちらりと見た。


「美月、考えてほしいことがあるの」


瑞穂が静かに切り出した。美月は察した。また「あの話」だ。


「この春から大学受験の準備を始めてみない?音楽以外の道を…」


「…何のため?」美月の声は冷たかった。


「将来のためよ。音楽以外にも、あなたの才能を活かせる道はたくさんあるわ」


「それって、ピアノはもう諦めろってこと?」美月は箸を置いた。


「そうじゃなくて…現実を少し…」


「現実?」美月の声が少し上ずった。「私がどれだけピアノだけを見て生きてきたか、わかってるの?」


「だからこそ、別の喜びも知ってほしいの」瑞穂は娘の目を見ようとした。


美月は黙り込んだ。何を言っても母には理解できないだろう。ピアノを弾くことが、自分にとってどれほど大切だったか。それがなければ、自分は何者でもないという感覚。


食事を終えると、瑞穂は再び店に出た。午後の営業時間が始まる。美月は食器を片付けながら、母の言葉を反芻していた。


大学受験…音楽以外の道…現実…。


言葉の一つ一つが、美月の心を鈍い痛みで満たした。彼女にとって、ピアノを諦めることは、自分自身を諦めることと同義だった。しかし、もう二度と演奏家になれないなら、これからどう生きれば良いのだろう。


皿を洗い終えた美月は、花屋の倉庫に足を踏み入れた。母が古い道具や季節外れの装飾品を仕舞っている場所だ。薄暗い空間に、小さな窓から一筋の光が差し込んでいる。


奥の棚に、「美月」と書かれた段ボール箱が目に入った。好奇心に駆られて、美月はその箱を引き出した。中には、彼女のピアノ関連の思い出の品々が、大切に保管されていた。


賞状、新聞記事、コンサートプログラム…。母はすべて取っておいてくれたのだ。


一枚の写真が目に留まった。高校二年の全国コンクール、優勝した時の写真。表彰台の上で、トロフィーを掲げる自分。顔一杯に広がる笑顔。これは今の自分とは思えないほどの、輝きに満ちた表情だった。


「これ…高校2年の全国コンクール…」


美月は小さくつぶやいた。写真を見つめる目に、涙が浮かぶ。


「笑ってる…こんな顔、今じゃ思い出せない」


手に取った新聞の切り抜きには、こう書かれていた。

「将来を嘱望される若きピアニスト、佐藤美月さん(17)が見事優勝を…」


箱のさらに奥に、美月が知らなかったものがあった。古いプログラムと写真。それは母・瑞穂が若い頃、フルートを演奏している姿だった。同封された古い新聞記事には、「地方音楽コンクール フルート部門優秀賞 佐藤瑞穂さん」とある。美月は驚いて写真を見つめた。母の表情は、自分がピアノを弾いていた時と同じような輝きを持っていた。


その瞬間、美月の胸に抑えきれない感情が込み上げてきた。あの頃は、未来しか見えていなかった。無限の可能性があると信じていた。今は…何も見えない。そして母も、かつては同じ道を歩んでいたのだ。


箱を元の場所に戻し、美月は深呼吸をして感情を落ち着けようとした。涙を拭い、店に戻る準備をする。倉庫を出る前、棚の上に置かれた少し埃をかぶったフルートケースが目に入った。


午後の営業も終わり、最後の客が帰った後、美月は店内の片付けを手伝っていた。夕暮れの静かな店内に、二人の動きだけが響く。美月は花瓶に新鮮な水を入れ替え、茎を切り直し、枯れた葉を取り除いていく。その一連の動作は、ピアノの鍵盤に向かう時の所作に似ていた。


花を活けながら、美月はふと思った。この感覚…指を滑らせる感じ…ピアノを弾くのと似ている。指がレガートで動く感覚、花びらに触れる指先のタッチ…


無意識のうちに、右手が花の茎を掴もうとする。「もし…もう一度…」


美月は、右手だけで花を持ち上げようとした。細かい動きを意識して、神経を集中させる。しかし突然、鋭い痛みが右手を貫いた。


「うっ!」


美月の手から花瓶が滑り落ち、床に砕け散った。水が床一面に広がり、チューリップの赤い花びらが水面に散った。美月は呆然と立ち尽くし、自分の右手を見つめた。


「あっ!」


瑞穂が音に気づいて駆けつけた。散らばる花と水たまりを見て、すぐに状況を理解したようだった。


「ごめんなさい…」美月の声は震えていた。


瑞穂は黙って片付け始めた。何も言わず、床に広がった水を拭き、割れた花瓶の破片を集めていく。疲れた横顔に、夕日が差し込んでいた。


「いつも、私のせいで…」美月は申し訳なさで胸が締め付けられた。


「大丈夫よ、またやればいいだけ」瑞穂は穏やかに答えた。


美月も膝をついて、一緒に片付け始めた。散った花びらを一枚一枚拾いながら、彼女は気づいた。この赤いチューリップは、「希望」という名前の新品種だと母が言っていたものだ。


「知ってる?」瑞穂が突然口を開いた。「花も音楽も、一瞬一瞬が命なの。枯れてしまった花も、終わってしまった音も、二度と同じものは戻らない」


美月は母の言葉に、思わず顔を上げた。


「だから…諦めろってこと?」


「違うわ」瑞穂は首を振った。「だからこそ、今この瞬間を大切にしてほしいの。過去にとらわれすぎないで」


二人は黙々と片付け続けた。しばらくして、瑞穂がまた静かに話し始めた。


「私も若い頃、フルートを吹いてたのよ。それほど上手じゃなかったけど…音楽が好きだった」


「知らなかった…」美月は驚いて母を見た。倉庫で見つけた写真が頭に浮かんだ。


「大学の音楽科に進もうと思っていたの。地方のコンクールで入賞して、奨学金も得られる可能性があったわ。でも父—あなたのおじいちゃんが急に倒れて、音楽の勉強を続けられなくなった」瑞穂は懐かしむように続けた。「でも諦めたわけじゃない。形を変えただけ」


「どういうこと?」美月は思わず聞いた。


「音楽が私に教えてくれたもの—調和、バランス、表現力—それを花に活かしているの。フルートの音色は風のよう。花の命は短いけれど、美しい。どちらも似ているでしょう?」瑞穂は微笑んだ。「今は花の色や香りが、私の音楽なの」


美月は黙って聞いていた。母がかつて音楽に携わっていたということは聞いたことがあったが、ここまで真剣だったとは知らなかった。自分と同じような夢を持ち、諦めざるを得なかった経験。だからこそ、自分の才能を理解し、支えてくれたのか。


「でも、私は…」美月は言葉を探した。「ピアノしか…」


「時間はあるわ」瑞穂はそっと娘の肩に手を置いた。「焦らなくていい。今は傷を癒すことが先よ。そして、もしかしたら…新しい形で音楽と向き合える日が来るかもしれない」


店内はすっかり夕暮れに包まれ、二人の姿を優しく染めていた。散らばっていた花は、新しい花瓶に生け直され、カウンターに置かれていた。美月はふと、水に濡れた花びらが月の光のように輝いて見えることに気づいた。


水を含んだ赤いチューリップが、夕日に照らされて輝いている。「希望」という名の花は、傷ついても、なお美しく咲き続けるように見えた。


(第2部 終)

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