十六・暗坂冬貴
ドアの先にあったのはリビングでもなければ台所でもない。トイレでも浴室でもなかった。
物置を改装したような、小さな部屋だった。
窓はなく、部屋の幅も狭い。
天井の中心から蛍光灯がぶら下がり、小さな羽音と淡い光を発している。
正面に金属のテーブルとパイプ椅子があって、テーブルにはメモ書きと筆記用具。
何かのテストでもしてたのか?
どこかで時計の音が聞こえるが、時計が見当たらない。
必死に走って辿り着いた部屋が、こんなにも殺風景なのでは、手掛かりも掴めそうにはない。古弥くんを助け、はぐれてしまった裏崎とも合流しなければならないのに。
……いや。壁に何か貼ってある。
何枚も。
メモ書きと新聞記事だ。
一枚一枚、まるで定規を使ったかのように隙間なく並べられ、綺麗に切り取られて整えられている。糊の痕も新しく、最近になって貼り足されたものもある。
ただ、単純に情報を整理しているような雰囲気を感じ取れない。本来こういうのは、情報を整理し、一望して全体像を掴みやすくするものだ。
ここにはそういう整然とした雰囲気が何もない。並べ方はたしかに綺麗だが、情報のまとまりがぐちゃぐちゃだ。
感情に任せてあれこれと次々に貼ったようにも見える。
或いはもう一つ浮かんだのは、何かの儀式か。
祈るように。
呪うように。
『
『学校側の対応に疑問の声』
これは新聞記事の切り抜きだ。見出しが並び、同じ事件を報じた複数の新聞社の切り抜きらしいものが貼られている。
そばにはメモ書き。
『教師は責任を取らない』
『見て見ぬふりの学年主任』
『隠蔽体質 教育委員会』
などなど。
文字はどれも怒りに震えていて、紙が擦れて破けている箇所もあった。
そして小さなメモ書きが一つ。これだけ筆跡が違う。
『ごめんなさい。耐えられないから先に行くね。冬貴。ずっと愛してるよ』
……遺書だろうか。暗坂冬貴が恋人を自殺でなくしたのは確実となった。
もう一つメモ書きがある。それはメモにしては大きいノートのページを破り取ったようにも見える。
『見えないのに、誰かが触った気がした。苦しい。怖い』
見覚えのある筆跡だ。だが誰の筆跡かを思い出せな……いや、焦って書き殴ったようなその文字を最近見たのは、あの場面でしかない。『だれかいるの?』というあの走り書きをした万理さんの字だ。
仮に暗坂冬貴がこれらのメモやスクラップを並べたのならば、このノートのページがここにある意味も、だいぶおかしくなってくる。万理さんの部屋から持ち出されたものだろう。ノートにページが破られた跡があることに気付けなかったのは失態だ。
そしてその一角にある一枚の切り抜きは、特に異様に際立っていた。
『【県立高校人事異動】郡嵜高校・北上真司(体育)、
よく年度末の新聞で一斉に発表される教職員の人事発表一覧。それを切り取ったものだった。他の切り抜きと違い、赤いペンで囲まれている。
周囲にはそれに関するメモ書きもある。感情たっぷりの書きっぷりだ。
『あの時、何も言わずに逃げた』
『異動って言葉で全て済むのか?』
『自分のせいじゃないとでも思ってるのか』
隣に貼られているのは、また別の筆跡だ。
『場所はもう用意しておいた。
ロープも二種類用意してる。
あとはあなたが決めなさい。
ただしやるのなら静かにね』
折り跡のついたメモ書きだ。なんとなくこれを書いたのが刑部読子だと、俺の勘が告げている。
『ロープを使うなら一つは天井に。
もう一つはあなたが使いなさい』
ロープは二種類あった。このメモを百パーセント信じてもいいなら、そういう結論になる。一つは殺害用、もう一つは首吊り自殺に見せかけるための偽装工作用。
刑部読子は機会と場所を用意して、それを暗坂冬貴に与えたのだろう。
それにしても、この壁に貼られた情報はやはり何かがおかしい。
異様だ。俺がこれから推理するであろう謎の部分を、ある程度までネタバラシしている状態だ。
俺をこの部屋に誘導した意図は何だ? 推理ゲームをするにしては、ヒントをあまりにも出しすぎている。これじゃカンニングと変わらない。
……これは推理ゲームではないのだろう。
ただ俺に情報を見せて、俺の頭に情報を詰め込ませたうえで、暗坂冬貴と刑部読子にどのように向き合うかを試しているんじゃないか?
そうなると、この記事やメモ書きの貼り方が異様な理由が何となくわかってきた。頭では「読もう」としていないのに、目が勝手に文字を追っている。まるでこの部屋そのものが俺に「見ろ」と命じてくるかのようだ。怨念が実体を持って、メモの形になっているようでもある。視線の動線を予め把握していたかのように、目線の動きを誘導されている感覚がする。強制的に読ませるような貼り方をしていたのか。それが怨念めいたものを持ったのか、もともとこういう並べ方が怨念を込めやすいのかはわからない。
というか、北上先生のことについては少し驚いた。
……いや、ただ俺が知らなかっただけかもしれない。たしかに昔は体罰騒動もよく起こしていたというのは知っている。思い返せば、噂は確かにあった。転任前の高校で体罰騒ぎがあって、その末に生徒が一人自殺をしたと。その教師こそが北上先生であり、人殺し教師だなんて、流石にそんなレベルのは聞いたことはないが、死にたくなるほどの指導を受けらしい、というのは聞いたことがある。
これまで見ていた北上先生の姿が、紙の上の数行によって変質していく。声を荒げることはあっても、生徒に手を出すようには思えなかった。
そう思いたかっただけかもしれない。実際、古弥くんは殴られている。その事実は無視してはいけない。
新聞記事だけでは真偽の見極めもできまいと思っていたらこのメモ書きだ。
囲まれた北上先生の名前。メモ書きの怨嗟の塊。
昨日のシャワーの中で、俺はこういう憶測を立てた。
「恋人がかつて受けた北上先生からの体罰や指導が原因でPTSDを発症し、突発的に自殺を図り運悪く成功。遺書には北上先生の名前が書かれており、それを発見した暗坂冬貴が北上先生に復讐を誓う……」
事実はもうちょっと単純だった。
過酷な体罰を受けて女子生徒が自殺。暗坂冬貴は自殺の原因が北上先生にあると判断し、復讐を誓った。学校側は騒動を隠蔽。体罰をしたとされる北上先生は俺達の高校に転任。
時系列的にもそういうことになる。
俺達が通う篠河高校のOBである暗坂冬貴と、郡嵜高校で教鞭を振るっていた北上先生との間に接点がなかったことが引っかかっていたが、間に一人関連する人物がいたのだ。その関連人物の自殺によって、両者に因縁ができた……というよりは、かなり暗坂冬貴の一方的な執着と言ったほうが適切か。
何にせよ、暗坂冬貴が北上先生を恨む理由はわかった。
背後でパイプ椅子の軋む音がした。
誰かが座った時になるような音だ。
振り向いたが、誰もいない。パイプ椅子には、誰も座っていない。
俺はとっさに身構えて、部屋の周囲を見渡すが、やはり誰もいない。蛍光灯の薄明かりは幸いにも部屋の隅まで照らしてくれている。部屋の隅にも、人影はない。
と、今度は小さな物音が部屋の中心からした。
ペンがわずかに動いている。カタカタと震えている。誰も触れていないはずの金属のテーブルの上で、それはまるで命を与えられたかのように、わずかに震えたあと、俺の方を向くように転がり、まっさらな紙の中心に収まった。
そして滑らかな動作でひとりでにそのペンは立ち上がった。
そして紙の上で、滑らかに踊る。
『問』
ひとりでに書かれたその筆跡は、先ほどの怨嗟にまみれた壁のメモとは違う。もっと冷静で、もっと機械的で、そして何よりも「問いかける」文字だった。
ペンは止まらない。すぐさま、その下に新たな問いを走らせた。
『暗坂冬貴は、なぜ北上真司を恨んでいる?』
先ほど勘が告げたメモ書きと見比べたら、筆跡が似ている。
確信した。これは刑部読子が書いている。
別の次元世界から、俺の今いる空間に干渉して、パイプ椅子に座り、ペンを持ち、紙に書いた。
ある程度近しい次元世界には「吹き抜け」に当たる部分があるという。
例えば一階と二階の吹き抜けに、一枚のカーテンがあるとする。
一階でカーテンを閉めても、二階でカーテンを閉めても、どちらの階のカーテンも動かされ、窓は隠される。カーテンが一枚でつながっているからだ。
動いているペンはそのカーテンのようなもの。別の次元空間で刑部読子がこのペンを持って書いているのだ。だから同様に、俺もそのペンを持つことができる。このペンが次元における吹き抜けにある存在だから。
俺は別次元において刑部読子が座っているであろうパイプ椅子に座り、ペンを取る。
問いに対する答えは、さっき導き出せた。問の文章の下にこう書く。
『北上真司の体罰によって、暗坂冬貴の恋人が自殺したから』
恐らくは。
北上万理さんを殺害したのも暗坂冬貴の可能性が高い。だがそれを推測する動機はあっても、決定的な証拠はない。
しかし、北上一家ごと恨みの矛先を向けた暗坂冬貴に対して、刑部読子は最悪の手助けをしている。次元を操り万理さんを閉じ込めたあと、暗坂を差し向けて殺させた可能性はある。
ペンがまたひとりでに動いた。
『暗坂冬貴は、どのようにして北上万理を殺害した?』
一瞬だけ難問に思った。彼女の死因を、俺は把握していない。警察が自殺だと判断した、という情報を掴んでいるわけでもなければ、遺体安置所に潜入して遺体を直接確認したわけでもない。
俺が見聞きしたのは、事件当日の北上邸の異様な閑散っぷりと、死亡しているのが発見されたというニュースの報道、そして万理さんの部屋に吊るされていた、輪っかの作られた縄。『だれかいるの?』というノートの走り書き。
事件当日の事件現場が閑散としていたのは、殺人事件ではないと警察が判断したからだ。大々的に報道するネタではないとマスコミが判断したからだ。だからマスコミも警察もいなかった。殺人事件ではなく不審死或いは自殺。当たり前のことだが、警察は次元の話を把握してはいない。だから仮に縄で殺されたとしても、首を吊って自殺したと警察に判断させることも難しくはない。
ニュースの報道は、不審な死亡の報道。もともと行方不明騒動で小さなニュースにこそなっているのをネットで見かけたので、死体で見つかったと言うだけで事件現場にマスコミが押し寄せていたし、朝のニュースでも報道されていた。
ついでに言うと、その後のネットのニュースでは「首を吊った状態で発見された」だの「縄が千切れて遺体は床に横たわっていた状態だった」だの、次々と新しい情報が入っているのを見ている。表向きは首吊りだった。警察は裏向きの死に方を把握できないため、自殺と判断する他はない。
万理さんの部屋の縄は、首を吊るために用意されたものと思っていたが、口寄せ時の万理さんの言動や、使われた痕跡がなかったという点から考えても、この縄は使われなかった可能性が高いと俺は判断した。壁のメモ書きを見ても、ロープは二種類あったとあるから、やはり偽装用の縄と絞殺用の縄だったのだ。
しかしこの問いにおいて引っかかるのは、既に「暗坂冬貴が北上万理を殺害した」という事実をわざわざ書いていることだ。これは少しおかしい。刑部読子からのささやかなヒントと捉えるべきだろうか? それとも引っ掛け問題?
壁のメモを見て、ようやく暗坂が実行犯であるという確証を掴めたのだが、刑部読子はこのことを把握しているのだろうか。それとも予め知っていた?
或いは俺の推理でその事実までたどり着けると考えていた? だとしたら、それは少々買い被りすぎだ。馬鹿らしい。
とはいえ、あの吊るされた縄はブラフだ。自殺に見せかけようとして設置されたのだ。
『だれかいるの?』という走り書きは、「誰もいなかったから、誰かがいてほしい」という一縷の望みのもとで書かれたわけではない。自分以外にあの空間に誰かの存在を察知したから「この部屋に他に誰かいるのか?」という意味合いで書かれたものだ。そして暗坂が破り取って持ち込んだと思われるもう一つのページ。
『見えないのに、誰かが触った気がした。苦しい。怖い』
これは暗坂のことだろう。
つまり暗坂冬貴があの場にいた。
首を吊るための縄を使って。
俺はこう書く。
『同じ次元空間にいた暗坂冬貴が、縄を使って首を絞めて殺害した』
俺はペンを置いた。
すると即座にペンが立ち上がり、紙の上を踊る。
『暗坂冬貴はどのようにして北上万理の部屋へと侵入した?』
彼女の問に一貫性がないように感じるのも、なんとなく察しが着いてきた。
前の問いで殺害したと明言しておきながら、今度は「どうやって?」という問いを出してきた。ということは、やはり刑部読子は全部わかっていて、わざわざ俺にそれを言語化させようとしている。自分の頭で組み立て、指先でなぞらせるように。
わざわざ俺に答えを出させて、それが自分の考えていたとおりだったら嘲るように笑うような、そういう性根の悪さ。彼女は邪悪だ。
壁のメモを見る限り、暗坂冬貴はおそらくなんの能力も持っていない。だから空間も次元も超えられないし自力で万理さんの部屋に侵入することは不可能だ。そこで刑部の能力が必要になる。刑部は万理さんを次元空間に閉じ込め場所を用意し、暗坂にロープを与え、「静かにやれ」と命じた。つまり、彼を導いた。
異次元への通路は、俺がさっき経験した。急激な重力の変化、浮遊感、方向の喪失。そして、あの空間にいた万理さんの「見えない誰かが触った気がした」という言葉は、その次元空間に侵入者がいた証拠になる。
それで家への侵入方法だ。
俺と忍逆が北上邸に侵入した時、玄関の鍵は開いていた。しかしその後鍵を閉めていないにも拘らず、万理さんの家族がドアの鍵を開けた。
ここにヒントがある。
万理さんが忍逆に憑依したときの言葉を思い出す。
「それで探しに行こうとして、家を出ようとした。なのに……ドアが開かないの。鍵は開くのに、ドアはいくら力を込めてもびくともしなかった」
彼女は家のドアを内部から開けているのだ。ドア自体が開かなかったのは、次元空間そのものに閉じ込められていたから。
そしてさっきのヒントが鍵になる。
鍵が開いていたのは、俺と忍逆が侵入した時点で、次元操作が行われていたからだ。俺達は通常の次元の北上邸に入ったわけではなく、次元操作された北上邸に侵入していたのだ。
万理さんに開けられなかったドアが開いたのにも説明はつけられる。
この部屋のボールペンと同じ「吹き抜け」理論だ。
例えるなら、二重ガラスのサッシのようなもの。外側と内側、ガラスの間には空気の層があって、それぞれ鍵がかかっている。でも、もし鍵の仕組みが連動していたら? 一つが開けば、もう一つも開く。しかし、開けるには内側の空間にまで踏み込まなければならない。
ドアの鍵だけが吹き抜けの共通部分として機能していたのだとしたら? 万理さんが鍵を開けたことで、俺たちがいた次元の玄関も開いたという理屈になる。だがドアは吹き抜けにある存在ではないため影響を受けない。空間ごと別世界に閉じ込められていて、だから万理さんには開けられなかったし、俺達はドアを開けられた。
それと同じ要領だ。暗坂は別に北上邸のドアを無理やり開けたのではない。
万理さんが鍵を開けてしまったから、近しい次元から彼は刑部読子の力を借りて北上邸に侵入を果たした。ドアを物理的に開けたのではなく、ドアの開いた次元へと誘導されたのだ。刑部読子に、導かれるままに。
これをどう書いたものか。そう考えたとて、彼女には全部お見通しなのだろう。
仕方がない。
浮かんだ答えを、俺は紙の上に書き出した。
『暗坂冬貴は、刑部読子の能力によって次元操作された空間を利用し、北上万理がドアの鍵を開けたことによって、密接した次元におけるドアの鍵も開いた。まず暗坂はそこから北上邸に侵入し、再度刑部の次元操作を経て、北上万理が閉じ込められていた次元の空間へと侵入した』
少し長くなったが……削れるところは削ったつもりだ。
静寂が戻る。緊張の糸が張り詰めたまま、俺はテーブルに置いたペンをただ見つめて、次の動きを待つ。
ペンが再び立ち上がる。くるくると宙に弧を描くように回転しながら、紙の中央にゆっくりと降りていく。
音もなく筆跡が現れていく。
『最後の問い』
やっぱりまだあるか、と溜息をつく暇もなく、ペンは滑るように続けた。
『君はこの先、私たちをどうやって止めるつもり?』
俺の腹づもりを探ろうというのか。答えはもう決まっている。
しかし、ペンはまだその動き続けた。
『もっと仲間を集める? それとも、証拠を掴む?
説得する? 暴力? 霊力? それとも運命論?
言ってごらんなさい。これからのゲームプランを』
ああ、そう来たか。
挑発だな。
刑部読子は、俺の腹どころか頭の中を覗きたいらしい。俺がこの事件にどう立ち向かい、どう終わらせようとしているか、それをわざわざ俺自身に語らせることで、からかうつもりだ。わざわざゲームプランだなんて、悪趣味極まりない。
或いは、自分たちがもっとよりよく最適に動けるように、俺達の動向を、見えているだろうにわざわざ知ろうというのだ。それは多分、俺達がどう動いても自分たちには勝てないのだという優位性を示すことと、それらを示されたうえで俺達に生まれるであろう敗北感と屈辱をたっぷり楽しんでやろうという魂胆なのだろう。
自分のゲームの相手として、俺がどこまで本気なのかを見定めようとしている。
自分のゲームの駒として、どこまで面白く動いてくれるかを測ろうとしている。
くだらないし幼稚だ。
そして何よりも邪悪。
俺は机のペンを取る。
力を込めこう書いた。
『俺は止めるつもりだけで動いてるんじゃない。終わらせるつもりで動いてる。
まず暗坂冬貴を見つけ出す。説得が通じるならする。通じないなら、止める。何があってもだ。
刑部読子、君のことも調べる。忍逆と一緒に。君の能力がどんなもので、どれだけの犠牲を踏み台にしてきたのか、全部明らかにする。
これはゲームじゃない。貴方達は人の命を奪っている。
これは貴方達のくだらない思想を徹底的に潰す戦いだ』
書き終えたあと、俺はしばらくペンを見つめ、静かに置いた。
ペンは動かなかった。沈黙のままだ。
手応えは……あったと思う。これでまだ刑部読子が何かを書くというのなら、それは多分、悪足掻きの捨て台詞だろう。
椅子から立ち上がってもいないのに、椅子の軋む音がした。刑部読子が椅子を離れたのだ。
彼女が別次元にいるから、その表情も声も息遣いもわからない。
面白がっているのかもしれないし、機嫌を悪くしているのかもしれない。
いずれにせよ、彼女に伝えるべきことは、はっきりと伝えた。
彼女次第だ。暗坂冬貴をけしかけて襲撃してくるだろうか。
このままこの空間に閉じ込めることもありえない話ではない。
……とにかく出口を探そう。
俺は入ってきたドアのノブを回す。
しかしドアは開かなかった。
刑部読子は相当怒っているらしい。
携帯は圏外。そりゃそうか。
ここは、次元の狭間の場所だ。電波も常識も通じない場所。俺が立っているのは、刑部読子が時空を歪めて作り上げた盤面に過ぎない。
俺は深呼吸をする。焦りはあるが、不思議と恐怖はない。
今ここに暗坂冬貴がやってきてもおかしくない状況ではあるが、それでも不思議なことに、恐怖心はなかった。刑部読子に啖呵を切ったことでアドレナリンが多少出ているから、というのはあるかもしれない。
俺はポケットを探り、忍逆から預かったままの髪留めを握る。これが何らかの霊気を発して、ビーコンみたいな働きをして、俺の居場所を知らせてくれたりはしないだろうかと淡い希望を抱く。
と、俺の右肩を何かが掴んだ。
そのまま俺は後ろに強く引き寄せられる。
浮遊感がすぐにやってきて、俺の身体が宙に浮かぶ感覚がする。実際浮かんでいるように見えていて、足は既に地を離れている。部屋の壁を幽霊のようにすり抜け、ドアをすり抜け、また別の部屋を通り過ぎ、廊下を高速で通り抜けていく。右肩を強く掴まれたまま、俺は何者かに連れ去られている。それでも取り乱さず妙に冷静でいられるのは、その掴んだ手に覚えがあるからだった。
氷のような冷たい手が、ずっと俺の肩を掴んでいたのだ。
廊下は長かったが、すぐに玄関に達し、ドアの開く音がして、俺の身体はとうとう地面に放り投げられた。
廃屋の玄関先だった。相変わらず薄暗いが、街灯の光が届く範囲にまで俺は連れ戻されたらしい。
放り投げられた体勢から、俺は不思議とリラックスした気持ちになって、大の字になって空を眺めた。星が綺麗だ。オリオン座の三つ並んだ星に目を奪われる。
「真刈くん、意識ある?」
聞き覚えのある声が、俺の頭上から聞こえた。
「色々あったけど、俺は無事だよ」意識もしっかり保っている。よかった、と忍逆はホッとしたように大きく息を吐いた。
「私の髪留め、大事に持っててくれたんだね」
「ちょっと賭けてみたんだ。忍逆が来てくれるんじゃないかって信じてよかった」一縷の望み。溺れる時に掴む藁みたいな言い草をするつもりはなかったけど、それでも僅かな希望に縋ったことに変わりはない。
「ほんとにそうだよ。そのおかげでやっと場所を特定できたんだから」
「持っててよかった……」髪留めをポケットから取り出して忍逆に渡した。大事そうにそれを受け取り、彼女は着ているコートのポケットに入れた。「確かに返してもらったよ……けど、何かしら私のものを持ってたほうがいいのかもね」
「俺が迷った時に備えてってこと?」
「こんな行動に出るとは思わなかったから」
「確かに連絡しておいたほうが良かったな。留守電の一つでも残しておくべきだった。次からそうするよ」
「うん。そのほうが助かる。お願いだからね。私も……できるだけ電話には出るようにするからさ」
俺と忍逆は、ぎこちなく笑いあった。
「よう真刈」大の字に寝転んだ俺の顔を覗き込むように、裏崎が元気に挨拶をしてきた。
「無事出られたんだね」
「おう。途中でお前がいなくなってからすげぇ焦ったけどよ、古弥を見つけたんだ」
「見つかったんだね。無事だった?」
「すげぇ怯えてたけど、何も異常はなかった。……刑部に別れの挨拶をわざわざしに来たって言いやがったんだ。律儀な奴だよな」その末、家に閉じ込められた、と。
「古弥くんはもう帰ったの?」
「ああ。遅くなるだろうから先に帰らせた」携帯を見れば時刻は八時半を過ぎたところだった。確かに、それが妥当か。「明日こそは絶対学校行くってさ。寄り道せずにまっすぐ行くって言ってたぜ」それがいい。彼に関して言うなら、寄り道は絶対にしないほうがいい。道中で刑部読子が接触してくるかもしれないと考えると、余計にそう思う。
「……で、真刈、何があったんだ。お前もお前で、何か情報掴めたっぽいのか?」
俺は刑部読子との会話を二人に話した。推理ゲームめいた筆談。俺達に覚悟を問う応酬。彼女に対する底しれぬ嫌悪感と、人を弄ぶことに対する怒り。それら全部。
「刑部読子はまだ何か企んでるんだね」
「そういうことになる。暗坂冬貴との接触も続いてるみたいだし、二人が組んで行動してる以上、何を仕掛けてくるかわかったもんじゃない」
「……でも真刈くんの話を聞いて、私も一つ確信できたことがある。能力の違いについてなんだけどね」
確かに違う。まず規模が違う。能力の有効範囲と言ったほうがいいのだろうか?
「私自身は、次元を移動できるけれど、それは私一人か、私に触れている存在に限られる。だけど刑部読子の場合は違う。箱みたいに領域を区切られた空間を、その中にいる存在ごと次元移動させることができる……例えるなら私の場合、私自身がエレベータの役割を持つけど、彼女は空間そのものをエレベーターにできる。それで次元をあちこちに移動させられるってわけ」
「忍逆さん……」自信なさげに裏崎が手を挙げる。「次元とか移動とかって言ってるけど、どういうこと?」
ああ、そうだ。裏崎にはこの辺りの話を説明しきれていなかった。今説明して、彼を納得させることはできるだろうか?
「わかりやすく言えば、刑部読子は神隠しを行えるってこと」
「マジかよ……」唖然とした表情だった。「じゃ、じゃあ忍逆さんの場合は?」
「私自身が神隠しに遭ったと偽装できるの」
「わかんねぇや」首を傾げながら難しい表情になる。この辺はまた改めて話し合う必要がありそうだ。次元関連の話を共有できていないと、刑部読子と暗坂冬貴に対して、協力して立ち向かうのは難しいだろうから。
「そうだ。これを二人に渡しておくね」忍逆が折りたたまれた紙片を取り出し、俺達に渡してきた。「これは?」
「お守り……のつもりで持ってて。私がいない時に何かあったらそれが力を発揮してくれるから」
「すげぇ!」興奮した面持ちで裏崎が紙片を開く。
俺は髪留めの代わりに、その護符をまたポケットに入れた。
「帰ろうぜ。もう二度とこんな家はゴメンだ」
俺達はそうして、街灯の淡い光を浴びながら三人仲良く帰路についた。
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