十五・古びた家

 二月八日(水)


「来てない?」


「欠席ですよ」


 笑い声が飛び交い、出入りも激しい昼休みの喧騒の最中、俺と裏崎は一年の教室を訪れていた。


 目的は一つ。古弥鉄汰の出席確認だ。


 しかし結果はこれだ。あっけないほど簡単に告げられた。


 おかしい。昨日あんなにも元気一杯に学校に行くと答えてくれた。そこには嘘も何もこもっていなかった。あの毒気がすっかり抜けたような溌剌とした雰囲気には、寧ろ今日の学校を楽しみにしているような感じすらあった。なのに。


「昨日話したんだ。元気一杯で、今日は行くって言ってたんだけどな」


「そうなんすか?」返ってきたのは、心底驚いているというよりも、「ちょっと意外」くらいの軽い調子だった。


「先生はいつもどおり欠席だって言ってた?」


「いやー、いつも通り欠席ってだけっすね」


 後輩は肩をすくめて笑ったが、その笑いには温度がない。


「気にかけられてない感じか」


「まぁ……そうっすね。つーか最近あんま話題にも出てこないっていうか……」


 それはそれでどうなんだろうという気もするが。


 後輩は話しながらも、背後で友人に呼ばれたのか、視線が教室の中に戻っていく。


「やっぱり、連絡も何もないってことか?」教室の入口に全体重をかけて立っていた裏崎が怠そうに訊く。


「なんにも知らない感じすね」忙しなくまたこちらを振り向き、淡白にそう答えた。


 会話が終わると同時に、昼休みのざわめきがまた大きく耳に戻ってきた。


 何か、嫌な予感がする。


 杞憂で済めば心底良かったのだが……どうもそうはいかないらしい。


 裏崎と顔を見合わせる。何か嫌な予感を彼も感じ取ったらしい。彼の表情が、まるで鏡のように俺と同じものを映している。眉がわずかに寄っていて、唇が一言を飲み込むように引き結ばれていた。


 こうなるとは。


「なぁ、古弥の電話知ってるか?」


「一応クラスのグループチャットにいるとは思うんで、そっからかけてみますね」


 後輩は無言になり、古弥くんの応答を待つ。


「……あれ」


「どうしたの」


「いや、古弥の電話かけたんですけど電波が届かないとかなんとかで」


 まずいんじゃなかろうか。


 俺達を取り囲む喧騒が遠ざかる感覚がする。


「なぁ、真刈。マズいんじゃね?」


 その通りだ。俺は頷く。


 単純な欠席であるならばこんなにも深刻な気持ちにはならない。本来なら「いつも通り彼は来なかった」で終わるはずだった。


 刑部読子と縁を切った翌日だからマズいのだ。


 彼女が何を企んでいるかもわからないが、遅かれ早かれこうなることを予知していたか予測していたはずだし、そうでなくとも昨日の時点で彼女は察知したと考えたほうがいい。忍逆と同じような能力を持つのであれば容易いはずだ。


 とにかく、古弥くんと話をしないことには何も始まらない。放課後やることは決まった。


 ダメ元で訊いてみる。「古弥くんの家ってわかる?」


「いや……わかんないっす」ダメか。


「つーか、古弥と仲良い奴ってクラスにいないの?」


「強いて言うなら、俺がそうっすけど……まぁ三学期入るまで、全然喋んなかったっすけどね」バツが悪そうに後輩は目を泳がせる。


「なんか俺らみてぇだな」裏崎が苦笑いする。それはたしかにそうなんだけど。


 後輩にも用事が立て込んでいる様子だったので、お礼を言いつつ教室を後にしたところで、時間切れを告げるようにチャイムが鳴った。


 放課後へ持ち越しだ。




 茜日が差すがらんとした教室の中で、俺は一人電話をかけてみたが、忍逆には繋がらなかった。話し中というわけではなく、ただ単に電波か電源の問題だと音声ガイダンスが告げている。


 昨日も一緒に古弥くんのことを心配してくれていた彼女なら、何か感じ取っているかもしれないと思い、確かめたかったが……話せないのではそれもできない。


 電話に出ないということは、何か彼女なりの考えで動いていたりするのか? それはそれで彼女らしくはあるが、忍逆の遠い親戚であるところの刑部読子の能力を量りかねている以上、単独行動もあまり得策とは言えない気もする。


 何をしてくるかも、得体も知れないから余計に嫌な予感がする。


「真刈。古弥の家がわかった」裏崎が俺を呼びながら廊下から駆け込んできた。「乗り込もうぜ」そうしたいところではある。今は古弥くんの安否を心配したほうがいいだろう。


「よく家がわかったね」


「後輩に調べてもらったんだ。クラスに知ってる奴がいたんだってさ」確かに、プリントやら何やらを届けるために家を知ってても不思議ではないか。


 俺の携帯を覗く。「忍逆さんか?」


「うん。でも電話に出ない。きっと一人で独自に動いてるんじゃないかと思う」


「行動力半端ねぇな」


 とはいえ独自に動くとして、何をするのだろう? 見当がつかない。


 先に察知して古弥くんの家に駆けつけたりしているのだろうか。


 ひょっとしたら俺が知らないだけで、もう既に刑部読子と対峙していたり?


 まるでそうした不穏な思考の連続を中断するように、携帯が震えた。


 連絡先の表示ではない。


 電話番号だけが表示されている。


「誰だ……? なんか怖ぇよ」裏崎の言葉に同意だ。不気味が過ぎる。こんなことは初めてだ。


 着信は止まりそうにない。このままこうしているわけにもいかず、意を決して出ることにした。


 応答ボタンを押し、スピーカーモードに。


「誰だ?」俺が口を開くよりも先に、裏崎が問いかけた。


「どうして番号がわかったか当ててあげようか?」


 俺の中の恐怖心を掻き立てる声だった。


 ついに俺の電話にまで。


 刑部読子。俺はその名前を、絞り出すように口にする。


「こいつがそうなのか?」


 頷くしかできなかった。冷や汗が頬を伝う感覚がする。


「まぁ、今日はそういうからくりの説明は省こうか。やらなきゃいけないことがあるんだものね」


「やらなきゃいけないこと?」


「……古弥くんか」


「御名答。学校でも有名になってるかもしれないけど、いわくつきの廃屋があなたの学校の近くにあるでしょう?」


「そこにいるんだな?」


「勘違いしないでほしいのは、私が連れ去って閉じ込めたわけではないってこと。いい? 彼は、自らあの空き家に乗り込んだ。目的は何か知らない。私がそこに居るかもね、ということは確かに伝えたけど。まさか本気にするとは思わなかったし。どこまでも愚直な奴だと思うね」


「で、閉じ込めた?」


「心外だなぁ。誰も入らないような空き家だから、私は実験場として使っていたんだ。そこにのこのこと彼がやってきて、勝手に中へ入ったんだ。不法侵入も甚だしいくらいだよ? 報いを受けたんだ」


「悪いけど、今の俺達はその言葉を一ミリも信用してない。そこに古弥くんがいるのなら、俺達は助けに行くよ。君の実験場を少々荒らすことになるかもしれないけど、許してほしいな。不本意とはいえ、君は大事な後輩を閉じ込めた。その報いは、甘んじて受けてもらわないと」


 電話口から小さな笑い声が響いた。本気と捉えていないような、完全にこちらを舐めたような笑い方だ。


「あー、その、なんだ。せいぜい頑張ることだ、と言うしか私にはできないなぁ。君たちの不法侵入についてはこの際目を瞑ろう。後輩くんを助け出せたのならば、君たちの実験場での破壊行為にも全面的に目を瞑るとしよう」


 電話口の刑部読子は、そして冷徹な声で言い放った。


「出られたらの話だけどね」


 電話は切れた。


「出られたら……か」俺は忍逆と北上邸での出来事を思い出す。何重にも次元空間を展開していたから、万理さんは出られなかった。


 今度は俺達の番だというわけか。


 携帯をポケットに入れると、忍逆に渡そうと思っていた髪留めが当たる感触がした。あったら返そうと思っていたが……ある種のお守りとして、これは持ったまま廃墟に行ってみようか。もしかしたら忍逆もそこにいるかもしれない。彼女の行動力を考えると、どこで何をしていようと不思議ではない。


「裏崎、行こうか」


「ああ、古弥を助けに行こうぜ」


 教室を出て廊下を歩き、靴を履き替え玄関口を出た頃には、夕日は校舎の裏に隠れていた。薄暗い校舎を冷気が撫でる。俺の頭はひんやりとして、冷静になったような錯覚に陥る。近所にあるその場所までは、そう遠くはない。生徒によっては通学路の途中に通りがかるくらいだ。


 いわくつきの廃墟。周囲の植物が乱雑に生い茂る中に建てられた平屋の小さな木造家屋で、誰も住んでいないことは公然の秘密だった。しかし最近その家屋には誰かがいるらしく、植物は綺麗に刈り取られ整えられて、外からも建物の外観が見えるようになったと思えば、今度はリフォームを施したらしく、窓に雨戸が取り付けられた。そして家にある雨戸をすべて閉じてしまったため外からは何をしているのかも伺いしれないような家になってしまったのだ。


 高校に入った初期の頃は、その廃屋で肝試しをするだので一種の遊び場と化していた。しかし雨戸が閉まり、家の周辺に竹の筒が刺され、それらを点として赤い糸が張られた辺りから、近づいてはいけないヤバい家という噂がはびこる家になった。それでも普段は誰も住んでいないというのが、何故かわかってしまう、不思議な家だ。


 誰が所有者なのかという謎も残り続けていたが誰も気にしなくなっていった。


 だがまさか、よりにもよって刑部読子の家もとい実験場となっていたとは。


 廃墟と呼ばれていた頃、植物は乱雑に繁殖しており、家の全貌を見ることはできなかった。


 しかし冬に入ってから生気を失っている。家を見通せなくなっていた頃の生い茂りっぷりはもうなくなっていて、雨戸の閉まったこじんまりとした家がただポツンと見えるだけだ。


 その小屋のような小さな家を、オレンジ色の日差しが照らす。


 赤い紐は、今もピンと張られている。


「ヤベー家にはヤベー奴が住むし、ヤベー奴はヤベー家に住むって、なんかテレビで言ってたな……近所のあれがそうだとは思わなかったぜ」


 古弥くんは何らかの理由でここを訪れた。理由は多分刑部読子との決別だろうけど、彼女の言葉を信用しないならば、無理やり連れてこられたと表現したほうがいいのではないだろうか。


 オレンジ色の日向は、時間の経過と共にその面積を失っていく。


 行こう。俺は裏崎を促し、土地に足を踏み入れた。


 忍逆から預かったままの髪留めを、ポケットの中で握りしめる。


 願掛けだ。


 一歩、また一歩と、赤い糸で囲まれた領域の内部に入り込む。特に変化はないが油断はできない。多分結界か何かを張っているのだとは思う。何がスイッチになって発動するかはわからない。


 慎重に歩きながら、家屋の玄関にたどり着いた頃には、夕日はすっかり隠れてしまい。街灯もつき始めた。その光は、この玄関まで届かない。雨戸を閉め切った家の中は、これ以上に真っ暗なのだろう。


 携帯のライトを点けて、一旦玄関のドアを見渡す。刑部読子も巫女のネットワークにいる人間だ。だから何か護符のようなものでも貼っているのではないか探してみたが、特に何もなかった。


 寧ろ、何も無い。至ってシンプルな玄関だ。建付けの悪そうな、年季の入ったドアがあるだけ。


 俺はそのドアのノブに手をかけた。鍵がかかっていれば、ノブは回らないだろう。


 しかしノブはあっさりと回った。


 北上邸のときと同じ。同じということは、一歩進んだ先の家屋の中は、既に別の次元世界かもしれないということだ。


 俺は裏崎と顔を見合わせる。準備はいいかどうかの確認作業だと、俺も裏崎も思っているに違いない。ほぼ同時に俺達は頷いた。準備と覚悟ができたのだ。


「気を抜くなよ」開ける直前、裏崎がぼそりと呟いた。


 俺も頷き、玄関の扉をそっと手前に引く。


 まず違和感が襲ってきた。まだ玄関にも足を踏み入れていないのに、空気の密度が違う。肌にまとわりつくようなぬめりのある空気。黴臭い。乾燥した冬の空気をしていない。外から見たらそこまで大きな家ではないはずなのに、眼の前に広がる廊下は奥に長く、深い。


 空間そのものが沈んでいるようだ。携帯のライトの光も、奥まで届かない。


 玄関に踏み込んでも、靴音が吸い込まれる。音が全くしない。背後でドアが閉まる音がしても、廊下には響いていかない。


 それが、異常の第一印象だった。全身に寒気が走る。


 全身の毛が逆立つ感覚がして、本能的な危険を知らせてくる。


 あくまでも他人の家ではあるからという気持ちと、一刻も早く古弥くんを救出しなければという気持ちがかち合ったが、とりあえず俺達は玄関で靴を脱いだ。靴下のほうが、足音も静かなまま動くことができるから、他の音を感知しやすい。


 抜き足差し足で廊下を進む。それでも板張りの床が軋む小さな音は鳴るし、俺達の呼吸する音も交互にする。


 ライトはまだ、廊下の奥を照らせない。


「こんな長くねぇよな?」裏崎が小声で俺も抱いた疑問を口にする。そのはずだ。外から見た限りじゃ、この家はそんなに広くはなかった。


 廊下はまだ続く。


 奥にある部屋に繋がるはずの出入り口もまだ先だ。


 勧めば進むほど遠ざかるような錯覚がしてくる。


 ドアは見えている。だがいまだ辿り着けない。


 どれだけ歩を進めてもドアノブに届かない。


 ドアは見えているのに進む感じがしない。


 少し足早になって、ライトの光を追う。


 俺は息を荒くさせてとうとう走った。


 気づいたら無意識に手を伸ばして。


 躓きそうになりながら目指して。


 俺を呼ぶ声が、背後からした。


 ふと後ろを向き裏崎を見る。


 彼の姿ががどこにもない。


 その瞬間浮遊感がした。


 落ちるような感覚が。


 強い重力の感覚が。


 俺は膝をついた。


 心臓が浮かぶ。


 息が止まる。


 また浮く。


 落ちる。


 また。


 落。


 。


 


 浮遊感は止まった。心臓がバクバク鳴っている。


 自分の息継ぎの音が、耳で鳴り続けている。


 ずっと床に膝をつき手をついていたにも拘らず落ちる感覚が止まらなかった。


 例えるならジェットコースター。


 例えるならバンジージャンプ。


 例えるならフリーフォール。


 落ち続ける底なしの落下。


 しかし既視感も覚えていた。


 思い出すまでもない、マンションでのあの出来事だ。


 忍逆の肩に手を乗せて、俺達は次元移動を行った。三次元から小数点レベルにズレた次元世界に移動したあの感覚。人に説明するならば……例えばエレベーターに乗った時の感覚が一番近い。わずかに体の内部が重力から解き放たれたような不思議な感じ。無重力感。


 あれは一瞬だったが、今俺を襲ったのは、その何倍もの感触だ。


 呼吸を整えるのに必死だ。一旦膝立ちを挟んでまた二本の足で立つ。


 湿り気のある冷たい空気の中で、俺は必死に冷静さを取り戻す。


 そして考える。


 俺を呼んだのは裏崎だ。後ろを振り返ったが、彼はいなかった。


 というか彼はおろか、俺達が入ってきたはずの玄関すら闇の中に消えていた。自然と、俺が遠くまで来たことを理解せざるを得なかった。寧ろ相当走ったのは多分本当に起きたことで、別にドアに辿り着けなかったからと言って、その場でひたすら足踏みしていたわけでもなかったのだ。


 次元移動の影響で玄関が消えたのか? 万理さんもこういう体験をしたのだろうか。


 刑部読子の能力の一端を垣間見たような気もしてくる。空間を引き伸ばすことができるらしい。外から見たらこじんまりとしたボロボロの家でも、内部で空間操作を行えば、アキレスと亀のように一生追いつけないパラドックスを引き起こすことさえできてしまうのか。 


 そして次元移動。 


 忍逆のそれとは規模が違う。


 彼女の場合、移動できるのは彼女自身だ。彼女に触れていれば、触れている人間も同行できる。


 刑部読子の次元移動は、空間ごと移動させることができるのか?


 段々と理解できてきた。


 多分裏崎も、落ちていく感覚に襲われて別の次元空間に転移させられたのだ。


 俺達は次元移動によって空間ごと引き裂かれた。今俺は三次元とは違う別の空間にいて、裏崎もまた、俺のいる空間とは違う次元空間に閉じ込められている。万理さんが自分の家に閉じ込められたように、俺達も小さな廃屋に閉じ込められたわけだ。


 刑部読子の言葉を思い出す。出られるなら。


 出なければいけないし、古弥くんも救出し、裏崎とも合流し、彼女が作り出した迷路をクリアしなければならない。


 今ここで引き返しても裏崎に合流することは、恐らくできない。


 つまり進むしかないか。


 落とした携帯のライトが、辿り着けなかったドアのノブを照らしていた。


 つまり辿り着いたのだ。


 ドアノブに手をかけて、俺はゆっくりと開けた。

 

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