第3話: 融合現象

 数週間が経過した。健太郎の日常は少しずつ、しかし確実に変化していた。朝の準備をしている時、洗面所の鏡に映る家族の姿に健太郎は違和感を覚えた。特に葵の髪が、いつもより明るい茶色に見える。


「葵、髪染めたの?」


 健太郎の問いかけに、葵は歯ブラシを口から外し、不思議そうな顔で父親を見上げた。


「何言ってるの、パパ。ずっとこの色だよ」


 明子も同調した。「そうよ、去年の夏から変わってないわ」


 健太郎は混乱した。自分の記憶では、葵の髪は黒に近い濃い茶色だったはずだ。いくら何でも、こんな明るいアッシュブラウンではなかった。しかし家族の反応に、自分の記憶を疑い始める。


 自宅を出た健太郎は、街並みにも違和感を覚えた。交差点の信号機の位置、駅前の店舗の配置—すべてが少しずつ「ずれて」いる。特に駅前のコンビニが、以前は左側にあったはずなのに、今は右側に建っている。そして誰もそれを不思議に思っていない様子に、さらなる違和感を覚えた。


 会社に着くと、驚くべき知らせが待っていた。部長の田中が健太郎を呼び出したのだ。


「佐藤君、君の新システム導入案が経営陣に認められたよ。このプロジェクトのチーム・リーダーに抜擢されることになった。おめでとう」


 田中は珍しく笑顔で告げた。健太郎は一瞬言葉を失った。自分がずっと提案してきたシステム改革が、ようやく認められたというのだ。しかし喜びと共に、深い混乱も感じていた。以前の田中部長なら、絶対に彼のアイデアを採用しなかっただろう。それなのに、いつの間にか周囲の評価が180度変わっている。


 同僚たちからの祝福の言葉に戸惑いながらも、健太郎は不思議な達成感を味わっていた。


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 帰宅した健太郎を、明子は温かい笑顔で迎えた。


「おかえり。今日はちょっと特別なディナーを用意したの」


 テーブルには、健太郎の好物が並んでいた。葵も手伝っている。以前は冷え切っていた夫婦関係が、いつの間にか良好になっていることに気づく。葵も父親に心を開き始め、学校の話を自ら話すようになっていた。


「パパ、明日の参観日、来れる?」


 葵の質問に、健太郎は一瞬戸惑った。かつての葵なら、父親に学校の行事への参加を期待することなどなかった。健太郎は新しい状況に戸惑いながらも、心地よさを感じている自分に気づいた。


「ああ、何とか調整してみるよ」


 その返事に、葵の顔が明るくなった。


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 休日の午後、健太郎はリビングでくつろいでいた。特に予定もなく、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごしていた。何気なくテレビをつけると、科学番組が放送されていた。画面には「特集:世界融合現象の謎」というテロップが表示されている。


 画面に映った中年の男性学者が、静かに語り始めた。


「私は量子物理学者の斎藤と申します。今日は最近観測されている『世界融合現象』について説明したいと思います」


 健太郎は何気なく見始めたが、すぐに引き込まれた。


「私たちの理論によれば、平行世界は常に存在し、量子選択の分岐点ごとに無数に分かれています。通常は互いに干渉しませんが、何らかの要因で境界が薄れると、記憶や物理的環境が混じり合うことがあります」


 斎藤教授は、黒板を使いながら説明を続ける。


「観測による量子状態の固定が不安定になり、複数の現実が重なり合っている可能性があるのです。人々は『何かが違う』と感じながらも、脳が矛盾を埋めようとして『いつもそうだった』と思い込むのです」


 健太郎は息を呑んだ。教授の説明は、まさに自分が体験していることそのものだった。


「最初の症状は、広告の色や日用品の配置など、些細な変化として現れます。次第に建物の位置、人間関係のニュアンス、そして最終的には人々の性格や外見にまで変化が及びます。しかし興味深いことに、ほとんどの人は変化に気づきながらも、それを『いつもそうだった』と受け入れてしまうのです」


 インタビュアーが質問する。「なぜこのような現象が起きているのでしょうか?」


「私たちの研究チームは、南米で観測された異常な量子場が原因ではないかと考えています。その現象が徐々に世界中に広がり、平行世界間の境界を薄めている可能性があります。実はこの現象、すでに世界中で報告されています。特にヨーロッパで集中的に起きた『集団記憶障害』も、この現象の一部なのです」


 健太郎はリモコンを握る手に力が入った。ヨーロッパでの記憶障害—数週間前のニュースそのものだ。


 斎藤教授は続ける。「報告によれば、変化は必ずしもネガティブなものばかりではありません。むしろ多くの場合、人々の潜在的な希望や願望に沿った形で現実が変容するようです」


 健太郎は自分の状況を思い返した。確かに、今の現実は以前より良くなっている。昇進の見込み、改善された家族関係...まるで願いが叶ったかのような変化だった。


「この現象を経験している方、あるいはその可能性を感じている方は、ぜひ私たちの研究チームにご連絡ください。詳細な体験記録が、この現象解明の鍵となります」


 画面に連絡先が表示された。健太郎は急いでスマートフォンを取り出し、連絡先を保存した。番組終了後、混乱した彼はすぐにネット検索を始めた。「世界融合現象」「平行世界」「量子現実シフト」といったキーワードで次々と検索する。


 検索結果には、自分のような体験をした人々の報告が多数見つかった。「家具の位置が変わった」「同僚の性格が変わった」「子供の外見が少し違う」...すべてが健太郎の体験と酷似していた。


 彼はパソコンの前に座り、手帳を開いた。これまでに気づいた変化を詳細にメモし始める。自分が狂っているのではない。実際に世界が変わっているのだ—そう確信し始めた瞬間だった。

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