第2話: 変容

 月曜の朝、健太郎はオフィスの会議室で週報会議に臨んでいた。プロジェクトリーダーの山田が前週の進捗報告をしていく。健太郎は資料に目を通しながら、何かがおかしいと感じた。


「ちょっと待ってください」


 彼は思わず口を挟んだ。


「新システムの導入案は先週、予算的に難しいという結論だったはずですが」


 会議室に沈黙が流れる。山田が不思議そうな顔で健太郎を見つめた。


「佐藤さん、何を言っているんですか? 先週はむしろ、あなたのプレゼンが評価されて予算承認されましたよ。議事録にもそう書いてあります」


 そう言って山田は、タブレットを操作して議事録の画面を健太郎に見せた。確かにそこには、「佐藤案が承認された」と記されている。健太郎は混乱した。自分の記憶では、部長の田中に「時期尚早だ」と却下されたはずなのに。


「失礼しました。勘違いしていたようです」


 健太郎は取り繕ったが、頭の中は混乱していた。記憶違いにしては詳細すぎる。却下された時の田中部長の表情、その後の落胆まで鮮明に覚えているのに。


 会議が進む中、さらに驚くべきことが起きた。いつも厳しい田中部長が、健太郎の発言に頻繁に同意するのだ。


「佐藤君の視点は新鮮だ。この案件はぜひ彼にリードを任せよう」


 突然の評価に、健太郎は戸惑いを隠せなかった。会議後、同僚の鈴木が声をかけてきた。


「佐藤さん、最近調子いいですね。部長があんなに褒めるの、珍しいじゃないですか」


 健太郎は曖昧に笑いながら、頭の中で何度も考えを巡らせた。先週の記憶は幻だったのか。それとも今の状況が幻なのか。


 ---


 夕方、終業後の混雑した電車内で、健太郎は疲労から目を閉じた。頭痛が襲ってきた。瞼の裏で光が明滅する感覚。目を開けると、一瞬だけ車内の風景が「ちらつく」のを感じた。まるで二重写しのように、別の車内風景が一瞬オーバーラップする。その幻影の中では、乗客たちの服装が少し違い、広告も異なっていた。数秒後、すべては元に戻ったが、不安感は残った。


「疲れているんだ」


 そう自分に言い聞かせながら、健太郎は降車駅に着くのを待った。


 ---


「ただいま」


 玄関でそう呟いた健太郎を待っていたのは、いつもとは違う光景だった。明子が笑顔で「おかえり」と出迎え、葵までもがリビングから顔を出した。


「パパ、早かったね」


 確かに今日は会議が予想より早く終わり、いつもより一時間ほど早く帰宅できていた。しかし、家族の反応は単に時間だけが理由ではないようだった。まるで別の家庭に帰ってきたかのような錯覚を覚える。


「今日、晩ごはん何がいい?これから作るから」


 明子の言葉に健太郎は一瞬言葉を失った。ここ数年、彼の帰宅は夕食後が当たり前で、「何が食べたいか」を聞かれたのは記憶にないほど久しぶりだった。


「あ、うん...何でもいいよ」


 健太郎は戸惑いながらも、心地よさを感じていた。シャワーを浴びて戻ると、テーブルには食事が並び、家族が揃って彼を待っていた。会話は以前より弾み、明子の料理も微妙に味が違う—しかし不思議と美味しく感じた。


 食事中、葵が突然言い出した。


「パパ、最近なんか全部違くない?」


 健太郎の箸が一瞬止まった。


「どういう意味?」


「説明できないけど...空の色とか、学校の雰囲気とか、全部少しずつ違う気がするの」


 葵の真剣な表情を見て、健太郎は動揺した。娘も同じことを感じているのか。明子も「そういえば...」と言いかけたが、すぐに「気のせいよ、たぶん疲れてるのね」と話題を変えた。


 健太郎は「思春期特有の感覚だろう」と軽く流したが、内心では共感していた。もう一度、冷蔵庫を見る。確かに少し位置が違う。リビングの家具も、わずかずつだが配置が変わっている。


 夜、一人でテレビを見ていると、ニュースが流れてきた。「ヨーロッパで原因不明の集団記憶障害が発生」というテロップが目に入る。


「複数の国で多くの人々が、建物の外観や街の配置について共通の記憶違いを報告しています。専門家は『集団的な錯覚』の可能性を指摘していますが、事例があまりに多いため調査が進められています」


 健太郎は思わず体を乗り出した。自分だけではないのか。しかしその時、明子が部屋に入ってきた。


「まだ起きてたの?明日も早いんでしょう」


「ああ、今消すところだった」


 健太郎はリモコンでテレビを消し、残りのニュースを見ることができなかった。その夜、ベッドに横たわっても、頭の中は混乱していた。


 職場での記憶の食い違い、部長の態度変化、電車内での「ちらつき」、そして家族の変化...全てが繋がっているような気がしてならない。でも何が原因なのか、まったく見当がつかなかった。


 夜中、健太郎は突然目を覚ました。枕元の時計は午前2時18分を指している。何かに呼ばれたような感覚。隣では明子が静かに眠っている。窓の外を見ると、夜空が奇妙な色合いを帯びていた。暗紫色の空に、星々が妙に明るく輝いている。そして、よく見ると星座の配置がどこかおかしい。


「気のせいだ」


 そう呟いて、健太郎は再び横になった。しかし眠りに戻ることはできなかった。このまま少しずつ、世界が変わっていくのだろうか。それとも、変わっているのは自分自身なのだろうか。


 答えのない問いに悩みながら、健太郎は夜明けを待った。

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