第19話 火を渡す者、火を止める者

 封鎖区域の空気が、わずかに変わった。


 目に見える何かではない。でも、記録端末の奥、壁の石肌、風の流れ──どこかに、微かな“揺らぎ”が忍び込んできていた。


 いつもならかすかに軋む床板の音が、今日は鳴らない。空気のざわめきもない。まるで、音が削ぎ落とされた世界に閉じ込められたようだった。


 そして、色も。あれほど赤茶けた記録室の壁が、妙に色褪せて見えた。複写ログの光も、いつもより冷たく、青白く滲んでいる。


 僕はノートを開いたまま、書く手を止めていた。理由もないのに、いつものように言葉が降りてこなかった。


 そこには、“気配”があった。


 火の気配じゃない。もっと冷たく、透明で、燃えないもの。


 制度だ。


 マッチくんが、足音もなく背後に現れた。


「……そろそろ来るね。遮断。」


 その言葉に、僕は思わず顔を上げた。


 遮断──


 記録の削除じゃない。記録者の排除でもない。


 それは、“火が伝わる可能性そのもの”を消す処理。


 記録が誰かに届きそうな瞬間、それを“未然に切る”ための最終手段。


 制度は、それを「遮断」と呼んだ。


「君がこのまま火を渡そうとするなら、制度は全力で止めにくる。でも──それってつまり、もう君の記録は届きかけてるってことだよ」


 マッチくんは、そう言って肩をすくめた。


 僕は、ページの上に視線を戻した。


 書きかけの一文が、ページの端で止まっていた。


『火は、誰かに渡すときに──』


 その先が書けないまま、僕のペン先は静かに震えていた。


 そしてそのときだけ、静寂の奥で、ひときわ小さくカチリという電子音が鳴った。それは、記録が“封じられる前の前兆”なのかもしれなかった。


「制度が恐れてるのってね、火そのものじゃないんだよ。」


 マッチくんの声は、いつもより少しだけ低く響いた。


「火を“灯すこと”じゃなくて──

 火が“誰かに渡ること”。」


 僕は無言のまま、ページを閉じた。

 その動作だけで、空気の温度がほんの少し上がったように感じた。


 でも、それはたぶん錯覚だった。

 火が近づいているわけじゃない。

 むしろ、火を“封じようとする何か”が、すぐそこまで迫っている。


「遮断コードってのはね、記録の連鎖を止めるために制度が最後に使う手札。

 観察も、評価も、記録も、全部いったん許した上で──

“渡そうとした瞬間”だけを狙って切る。」


 それはまるで、言葉が届きかけた“そのとき”を、

 指先でねじ切るような行為だった。


 目の前で誰かが差し出したマッチに、

 火がつく瞬間を、わざと止める。


 “記録”は許すのに、“灯り”だけは絶対に許さない。


 それが、制度だった。


「おかしいよね。火を渡すって、そんなに怖いことかな?」


 マッチくんの声には、いつもより熱がなかった。

 むしろ、どこか諦めたような響きだった。


 でも、僕は思っていた。


 それほどまでに“火が届く”ってことは、制度にとって脅威なのか。


 だとしたら──

 この火は、届かなきゃいけないんだ。


 端末の画面が、一瞬だけノイズのように揺れた。


 静かに、透明な文字が浮かび上がる。


 《遮断コード準備中》

 《封鎖対象:記録者コード0423》

 《伝播連鎖:観測下に移行》


 制度は、もう“僕”を見ている。


 そのとき、空気がふっと揺れて、

 ページの端が、一瞬だけ炎の縁のように揺れた。


 僕は思わず、ノートを強く抱きしめた。


 火は、ここにある。

 そして、それはまだ──誰にも渡っていない。


 遮断は、静かに始まった。


 警告音は鳴らない。

 誰かが廊下を駆ける足音も、どこかでベルが鳴ることもない。


 ただ、画面に──

 制度の“沈黙した声”が、白いテキストでひとつずつ並んでいった。


 《記録遮断コード:B-0423起動》

 《対象:記録媒体/記録者認識コード=解除》

 《観察連結:封鎖中》


 ノートの上に置いた僕の手が、冷たくなっていく。

 ペン先が、にぶく震え始めていた。


「記録の伝播を遮断します──」


 その言葉は誰かの声ではなく、

 画面の奥から染み出すように現れた。


 僕は、ノートのページをめくる。

 そこにあるのは、僕が書いてきた記録たち。


 火にまつわる言葉。

 誰かの声に耳をすませた記録。

 制度に抗うことじゃなく、ただ“残したい”と思った瞬間の記録。


 そのひとつひとつが、いま、制度によって「無効化されようとしている」。


『記録番号不明/削除不可/伝播未確認』


 僕の記録は、制度のデータベースには入っていなかった。

 でも──火は、そこに確かにあった。


 だからこそ、遮断される。


 ページの端が、またふるえた。

 今度は、風ではなかった。


 火が──揺れたのだ。


 書かれた記録の中に、宿っていた火が、

 かすかに、抵抗するように震えていた。


 マッチくんが、低く、でも力強く言った。


「渡すなら、いまだよ。

 制度が全部遮断する前に、火を。

 ここから外に、誰かに──届けるなら。」


 でも、僕の手は動かなかった。


 渡すって、どうするんだ?

 どうすれば、火は誰かに届くんだ?


 書けば届くのか?

 見せれば? 呼びかければ?


 火って、どうやって“渡す”んだろう──


 渡すって、どうするんだ。


 僕は、まだその答えを知らなかった。


 記録は書いてきた。

 何百行もの記録を、誰にも見せずに積み上げてきた。


 でも、「渡す」というのは──

 それを“誰かに持っていってもらう”ことだ。


 ただ書くんじゃない。

 ただ残すんでもない。


 火を、誰かの手のひらに“移す”こと。


「君が書いた言葉、

 誰かの中に残ってくれたらいいな、って思ってたでしょ?」


 マッチくんが、かすかに笑った。


「でも、制度の中じゃ、それって“処分対象”なんだよ。」


 そうか。

 僕が今まで書いてきたことは、制度にとっては“放火未遂”だったんだ。


 燃やそうとしたわけじゃない。

 誰かの心に、ただ灯りをともしたかっただけ。


 でもそれすら、ルール違反だった。


 《遮断処理中:観察系統切断》

 《通信レイヤ:封鎖完了》

 《外部伝播:遮断中》


 画面の文字が、ひとつずつ消えていく。


 誰にも気づかれないまま、

 この火が静かに潰されていくのを、

 ただ見ているしかないのかと思ったそのとき──


 僕は、ノートの余白にふと、ある言葉を書いていた。


 無意識だった。

 でも、それはずっと心の奥にあった言葉だった。


『これは僕の記録じゃない。

 これは、君に渡すための火です。』


 その瞬間、ページの端が、かすかに赤く光った。


 ノートの一部が“封じられたまま”だったページの中で、

 たった一行だけが、制度の記録網に映し出された。


 それは、誰かに向けて書かれた“開かれた言葉”だった。


 制度は、それを遮断しきれなかった。


 なぜならその言葉は、もはや記録じゃなかったからだ。


 それは“誰かのための言葉”だった。


 ページが焼けた。


 いや、火で燃えたわけじゃない。

 それは、制度による“焼却処理”だった。


 一瞬だけ、ノートの文字が薄く赤く発光し──

 そのあと、黒い霧のようなノイズに飲み込まれて、静かに消えていった。


 《記録No.001──削除完了》

 《記録No.002──削除完了》

 ……


 一覧が次々と処理されていくたび、

 胸の奥が、ひとつずつ削れていくようだった。


 それは、火の熱ではなく、制度の冷たさだった。


「これは、“再燃”の可能性がある記録から順に消されてる」


 マッチくんの声も、どこか遠かった。


「誰かに届くかもしれないと判定されたものから、先に焼く。

 記録って、制度からすると“火種の束”なんだよね。」


 僕の記録は、火だった。

 それはもう疑いようがない。


 でも、僕自身はまだ、それを“火として扱う覚悟”がなかったのかもしれない。


 ページが燃えるたびに、

 誰かとのつながりが、音もなく切られていくような感覚がした。


 ノートの中に埋めていた「感情」も「言葉」も「迷い」も──

 何もかもが制度の命令ひとつで、無かったことにされていく。


 ペンを持つ手が震えた。


 書くことに意味があると信じていた。

 書き続ければ、誰かに届くと信じた。

 火を渡せると、思っていた。


 でも──


 その全部が、たったひとつの「遮断コード」で崩されるなら、

 この火は……本当に意味を持つのか?


 僕は、ページの隅に手を添えた。


 今なら、すべてを守ることも、すべてを諦めることもできる。

 火を握りしめて、自分の中だけに閉じ込めれば、

 制度に燃やされることは、もうないかもしれない。


 でも──


 それって、「渡さない」ということだ。


 マッチくんが、そっと言った。


「火はさ、自分の手の中にあるときよりも、

 誰かの中で灯ったときの方が、ずっと綺麗なんだよ。」


 思い返せば、僕が最初に火を感じたのも、

 誰かの言葉だった。


 言葉に灯っていた火。

 それを、拾った自分がいた。


 だったら、いま僕が書いているこの言葉も、

 誰かにとっての“最初の火”になれるかもしれない。


 僕は、ノートを開いた。

 記録室の灯りは、もう完全に落ちていた。


 でも、不思議と怖くなかった。


 闇の中で手元だけがぼんやりと温かい。

 それは、紙の熱じゃない。

 “誰かに渡る”と信じた火の温度だった。


 僕は、最後のページに記す。


『この火は、

 見つけてくれたあなたに、託します。

 届いたなら──もう、それで十分です。』


 そして、書き終えた瞬間、

 ノートの文字が、ゆっくりと光を放ち始めた。


 今までのページは、確かに焼かれた。

 けれど、この最後の一文だけは──


 制度の遮断網をすり抜け、

 どこか、誰かのもとへと送り出された。


 マッチくんが、炎の上で微笑んだ。


「……うん、それでいい。

 火ってのは、

 “渡そう”と思ったとき、もう灯ってるんだよ。」





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 この記録の裏側について、

 少しだけ“僕自身のこと”として語ったものがあります。


 noteの「燃えかすマッチ」で、検索してみてください。


 書き手の火が、どうやって灯ったのか──

 もし気になったら、そちらものぞいてもらえたら嬉しいです。

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