第2話 狂速の料理人――断章:美の加速
◇あらすじ◇
京都・祇園、静寂の厨房。
ミシュラン星付き料理長・桂木鷹雅は、美の極致を求める料理人であり、誰にも見せぬもうひとつの顔──“走り屋”だった。
ある夜、彼のもとに届いた走行命令「HZN CODE」。
美とは何か。速さに意味はあるのか。
答えなき問いを胸に、男は再び、刃のように研がれた指先で“走る”覚悟を決める。
◇登場人物◇
●桂木 鷹雅(かつらぎ・たかまさ):
異名「狂速の料理人」。料亭『吉報』の若き料理長。
美と礼を極めた男だが、速さに対する哲学と執念を内に秘める。
◇第一項 祇園の静寂、鋼の音◇
祇園の夜は、白檀の香と和紙の灯が空気を包んでいた。
料亭『吉報』の厨房──桂木鷹雅は、無言で包丁を研ぎ続けていた。
砥石を滑る鋼の音が、時を刻むかのように響く。
「刃の美しさは、触れた瞬間に決まる」
その呟きは誰に向けられたものでもなかった。
だがそれは、まるで走行ラインに沿って弧を描くステアリングのように、確信に満ちた美意識だった。
火元を整え、白木のまな板に鱧を並べる所作は、まるで無駄のないドライビングラインそのものだった。
指先の水滴、鋼の冷たさ、炎の揺らぎ──そのすべてが、彼の五感の延長線上にあった。
夜が深まるにつれ、厨房の静寂は研ぎ澄まされ、まるで空気そのものが沈黙の緊張を帯びる。
桂木は刃を止め、窓の外を見た。
誰もいない路地の先に、一台の黒塗りの車がゆっくりと去っていく。
「……そろそろやな」
呟いた声は、誰にも聞こえない。
だがその声音は、既に戦の前夜を思わせる静けさを帯びていた。
◇第二項 信条という名の美学◇
厨房の奥、弟子が一歩前に出て声をかける。
「料理って、切るときの迷いが味に出るんですか?」
桂木は応えず、鱧の骨に軽く包丁を走らせる。
そして静かに言う。
「迷いがあるなら、切らん方がええ。
美しさは、決断の刹那に宿るんや」
その言葉に、弟子は身を正した。
まるで打たれたような表情で、一礼し、持ち場に戻っていく。
桂木はその背中を追わない。
料理は教えるものではない──示すものだ。
鍋の火が落ちる音が響いた。
その瞬間、桂木の胸中に、かすかな気配が差し込んだ。
“あのとき”と同じ空気だ。
あの峠の、カーブの奥から吹き込む風のにおい。
炎が収束するように、意識が一点に凝縮していく。
美とは、正確さではなく、覚悟の先に生まれる。
一切の妥協なく、極限まで追い詰めた動作だけが、美を生む。
桂木の呼吸が、少しだけ深くなる。
言葉では伝わらないものを、彼は走りで伝える術を知っていた。
◇第三項 封印の起動◇
『吉報』の裏手にある小さなガレージ。
そこには、桂木の“もう一つの厨房”──TOYOTA 86「龍吟」が眠っていた。
深藍(しんらん)ブルーのボディは、夜の闇を吸い込むかのように艶を放っている。
サイドドアには、料亭『吉報』のロゴが静かに印字されていた。
まるで、その車体自体が“美”を象徴しているようだった。
ボディに貼られた小さな和紙の札。
その文字はかすれ、月明かりの下でかろうじて読める。
「疾風静魂」──静けさの中に潜む、嵐の意志。
運転席に乗り込むと、HUDに“走行命令:HZN CODE”の文字が浮かんだ。
「来たか」
その声音は、感情の揺れすらない。
祇園の料理人として生きる自分と、“走り屋”としての自分。
その間に隔たりはなかった。
走るということ。
それは芸の道を極めることと同義だった。
相手の顔も、目的も、どうでもよかった。
自らが求める“美”をコースに刻む。
ただそれだけだった。
ステアリングを握る指先が、包丁を持つときと同じように震えた。
それは緊張ではない。
美の到来を告げる、儀式のはじまり。
◇第四項 走行という名の作法◇
桂木はレーシングスーツの上から、職人のような動作でグローブを装着する。
“走り”は、誰かに見せるものではない。
己の存在を刻むための、私的な表現行為だった。
「誰が来るかなんて関係あらへん」
心の中でそう呟いた時、微かに背筋が伸びる。
祇園の道具蔵の奥に設けたチューニングスペース。
そこに彼は、誰にも見せない“構え”を作ってきた。
ボディの鳴り、ミッションの唸り、オイルのにおい。
全てが、彼にとって“美”を演出する要素だった。
ハンドルを握る。
その瞬間、彼の五感は研ぎ澄まされた。
指先で微細な振動を拾い、シートの沈みで地面の変化を読む。
走りとは、“音のない舞”である。
◇第五項 誰も知らない走りへ◇
エンジンはまだ静かだ。
だが、桂木の中では既に“走り”が始まっていた。
桂木にとって、これは勝敗でも、評価でもなかった。
「美しささえ残れば、それでええ」
誰に知られずともいい。
誰にも届かなくて構わない。
ただ、その瞬間にしか現れない“走りの形”がある。
それを掴みにいく。
それだけだった。
相手の名前も姿も、何も知らされていない。
だが桂木にとって、それは何の障壁にもならなかった。
「知らん相手でええ。美は、他者によって決まらへん」
その走りは、誰かに勝つためではない。
ただ、誰にも侵されない美を刻むため。
アクセルはまだ踏まれていない。
だが、龍吟は既に答えていた。
わずかに車体が揺れ、金属が鳴る。
それは、開始の合図だった。
走りとは、誰にも見えない“自分の輪郭”を刻む行為だ。
美とは、消えるからこそ、美しい。
桂木鷹雅、出撃準備完了。
◇次回予告◇
名前も知らぬまま、二つの速さが交差する——次回、「美の切っ先」
#走り屋 #哲学バトル #ミシュラン料理長 #TOYOTA86 #美学アクション #祇園 #和の美 #静と動 #カーレース #HORIZON箱根
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