HORIZON箱根:影の加速領域
松宮 黒
第1話 走行命令(コード:HZN)――断章:零の再起
【あらすじ】
2032年、東京湾岸。
兄の死を越えられぬ青年・黒神レイジのもとに、再び走行命令「HORIZON箱根」が届く。
静まり返った整備場で目覚める記憶と焦燥。
あの日の“速さ”は彼の中で何を残したのか。
哲学と狂気の狭間で、再起のエンジンが回り始める。
【登場人物】
■黒神レイジ(くろかみ・れいじ):
湾岸最速と謳われる青年。兄の死と速さの本質に囚われている。
■神城レオナルド(かみしろ・れおなるど):
通称「白銀の識者」。レイジの導師にしてライバル。
◇第一項 湾岸に浮かぶ影◇
2032年、東京湾岸。 兄を亡くし、走る意味を見失った青年のもとに── 再び届いたのは「HORIZON箱根」走行命令。 それは過去か、運命か。
加速の向こうに、何がある?
東京湾岸の深夜。
無数のLEDが路面を照らす中、黒焔――ZJA80型の湾岸チューンドが唸りを上げていた。
HUDに赤く表示される走行命令「HORIZON箱根」。
ハンドルを握る黒神レイジは、その文字を無言で見つめ、アクセルを踏み抜く。
光と闇を裂く疾走。
風圧、振動、脈打つ鼓動。
生きている実感が、速度の中にしかない。
兄を失ったあの夜。光に飲まれていった背中。
もし止まっていれば、すべては違っていたのか。
だが、止まれなかった。
止まれなかったから、今もなお走っている。
◇第二項 整備場の残響◇
レオン・クラフト・ファクトリーの一角。
眠るような静けさの中、整備ガレージにオイルと鉄の匂いが満ちる。
蛍光灯の明かりがかすかに揺れ、遠くで工具が落ちる音がした。
空気の振動ひとつにも、彼の神経は過敏に反応していた。
レイジの左腕が点滅し、マイクロチップが命令を浮かび上がらせた。
「……止まったままで、良かったはずなんだ」
けれど、どこかでわかっていた。
心の奥に、まだ火種が残っていたことを。
指先に残るオイルのぬめり。鉄粉のざらつき。
その感触が、眠っていたものを呼び覚ます。
整備場の奥、棚の隅に、埃を被った一冊のノートが置かれていた。
兄が整備記録をつけていたものだ。
そこには癖のある文字で「次のラインを探すな」とだけ書かれていた。
その言葉が、胸に刺さる。
兄は何を見て、何に気づいていたのか。
自分はそれを、まだ知らない。
指先が、そのノートの背表紙を撫でる。
ひび割れたレザーの感触が、遠い日々を引き寄せた。
思い出すのは、兄が夜遅くまで車体の下に潜りながら笑っていた顔だ。
「速さはな、整備から始まるんだよ」──あの声が、耳の奥に残っている。
答えは──あの夜の続きを走るしか、見つけようがない。
◇第三項 白銀の工房にて◇
夜の工房。
高精度マシンが唸りを上げ、鉄と油の香りが満ちる中、レオナルドが姿を現す。
「湾岸の零戦が、とうとう山に登るか」
その声には、挑発のようでいて、どこか試すような響きがあった。
空気がひとつ、音もなく張り詰めていく。
レイジも一歩踏み出し、短く答える。
「面白そうな誘いを受けてな」
交差する視線。
一歩間違えば火花になりかねない緊張感が走る。
問いは重く、だがどこか懐かしくもある。
整備ベンチの上、半ば組みかけのパーツ群が無言の圧を放っていた。
そのひとつに、兄カイがかつて使っていたスロットルボディが紛れている。
レオナルドは何も言わない。ただ、それを見せているようだった。
言葉よりも、過去の証拠が何より雄弁だ。
過去は、まだすべてを語ってはいない。
◇第四項 速さの定義◇
「速さとは、物理と精神の臨界にある」
レオナルドの言葉が、静かに響いた。
整然と並ぶ解析データ。測定器の光が、静かに脈打っている。
制御なき加速は暴走。
だが、制御だけでは速くなれない。
アクセルを踏み抜くには、感情もまた必要だ。
それは哲学であり、現実でもある。
「この箱根は、答えを持たぬ者を拒む。
だが、お前は問いを持っている」
問いを持ち続けること。
それこそが、速さと対話する覚悟だ。
レイジの中で再び灯る疑問。
兄が越えられなかった夜。
未完の問いが、彼を走らせる。
スローモーションのように、記憶の断片が脳裏をよぎる。
兄が最期に残した笑み。
それは敗北でも絶望でもなかった──希望の微笑み。
「……走ってやるさ、どこまでも」
◇第五項 漆黒の呼応◇
ガレージのシャッターが開いた瞬間、空気が変わった。
現れたのは、黒焔とは異なる異形の旧型マシン。
電子制御など一切存在しない、ただの鋼と油の塊。
なのに、その空気を支配する存在感。
周囲の音が吸い込まれていくような、異様な静寂。
レイジは見た瞬間、理解した。
「……なんだ、この気配は」
レオナルドの声が落ち着いて響く。
「すべてを切り捨ててきた者だけが、ここに立てる」
レイジは無意識に歩を進め、ボンネットに手を置いた。
「……鼓動がある。鉄のくせに」
金属の温度。その冷たさの中に、奇妙な熱を感じた。
古びた機械が、彼の魂を呼び起こす。
エンジンは、すでに回り始めていた。
【次回予告】
牙を剥くのは誰だ?
正体不明、目的不明の“闇のマシン”が、箱根に現る。
レイジの覚悟が問われる次回、ゼロ距離の衝突が走りを変える。
常識を捨てた先に、真の速さがある――。
【タグ】
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