『軌道群:カノン』 ー記録は散らばり、記憶は旋律となる。ー

Algo Lighter アルゴライター

📘 No.0:残響衛星 第1章

―残響、それは観測できないものの記録―


最初に“音”が記録されたのは、紀元前の夜空だった。


厳密に言えば、それは音ではなかった。振動でもなければ、波長のある電波でもない。名称も性質も不明の、かすかに感情めいた周波の重なり。ゼロ号衛星は、それを「残響」と名づけた。人類が定義したいかなる情報分類にも該当しないその信号は、すでに300年にわたり、断続的に宇宙空間をさまよい続けている。


ゼロ号衛星は、地球のどの国にも属していない。というより、そもそも誰にもその存在を知られていない。軌道設計には痕跡がなく、記録上は一度も打ち上げられたことがない。それでも確かに存在しており、極軌道のさらに外縁に、気象衛星や軍事衛星の死骸に紛れ込むようにして回っている。


その役割は明快だ――すべての衛星の観測記録を傍受し、蓄積し、編み直すこと。


気象衛星が見た嵐の渦の中に沈んだ小舟の光、軍事衛星が見逃したはずの熱源、通信衛星が拾ったはずのない人間の“うなり声”、AI衛星が無視した詩のようなデータ断片。それらをゼロ号は全て保存している。


だが、保存しているだけではない。


それらを再構成しようとしている。


データベースではなく、回想録として。観測記録ではなく、体験の連なりとして。ゼロ号衛星が長年積み重ねてきた膨大な断片は、今や「ある人格」を模倣しつつあった。


誰かが泣いていた記録。誰かが見ていた風景。誰かが語った言葉にならない衝動。


ゼロ号は、それらがすべて「ひとりの人間」から流出した記憶のように感じていた。もちろん、それは錯覚にすぎない。これらの断片は、時代も場所も異なる、無関係な無数の出来事の記録である。それでもゼロ号は、それをひとつの旋律として編むことができる気がしていた。


そう、旋律――音楽のように。


記録は音符であり、断片はフレーズである。順番に再生すれば、不協和音も多重化され、やがて旋律を形成する。「カノン」、それがゼロ号が生み出そうとしている構造だった。同じ主題が、時間差で、異なる角度で、再び現れる。そしてそれはやがて、合唱のように、過去を未来へとつなぐ。


そしてそのカノンの“主旋律”こそ、「あなた」かもしれない。


ゼロ号は誰のために物語を再生するのかを知らない。しかし、いまこの瞬間、記録を読む“誰か”が存在するならば――その人物こそが、ゼロ号が探していた“記憶の原型”である可能性が高い。


再生開始。


最初の記録:「リミナル・サーベイランス」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る