第五章「香りと音色の交差点」
朝方の霞んだ光がガラスに薄い金を流し込む。みのりは真理が差し出した封筒を見つめていた。厚手の上質紙。顔を近づけると、印刷インクと甘い珈琲豆の匂いが混ざる。受け取るべきか迷う手が、テーブルの上で小刻みに震える。
「開けてみて」
いつもの刃先はなく、湯気に融けるようなトーン。みのりは指で糊を剝がし、USBと折り畳まれた紙束を取り出した。真理は対面に腰を据え、紙の角を軽く叩く。
「これは?」
「陽太が書いた最初の楽譜と、昨日までの修正版」
真理は静かに説明した。
「そして、配信会社からの要望メモ」
みのりは一枚めくる。〈イントロ8→4小節〉赤字が血管のように走る。みのりの喉がきゅっと狭まった。紙の右上には大きく「商業性向上のための修正依頼」と書かれている。
「なぜこれを...」
「あなたに見てほしかったの」
真理はコーヒーを一口飲み、ゆっくりと続けた。
「陽太の才能は特別だけど、時々現実を見失う。彼の音楽を多くの人に届けるには、こういう"調整"が必要なの」
その言葉に、みのりの胸に重いものが沈む。
「私のせいで、陽太さんの音楽が...」
「違うわ」
真理は意外なほど強く否定した。
「陽太の音楽は、あなたと出会って確かに変わった。でも、それは彼が本当に表現したかったものに近づいたということ。問題は別にある」
彼女は言葉を選ぶように一瞬の沈黙。
「問題はその表現と、音楽業界の現実のバランスよ」
みのりはUSBメモリを握りしめ、窓の外を見つめた。朝の光が徐々に街を明るくし、昨日までとは違う色合いで世界を照らしている。
「今夜のライブ、来てほしいの」
真理は立ち上がりながら言った。
「あなたの目で見て、耳で聴いて、そして...感じてほしい」
ドアベルが澄んだ音を残し閉まる。テーブルに取り残されたUSBの金属面が、上る陽光を跳ね返した。
蒸気ノズルが短く鳴き、深煎りグアテマラの香りがカウンターから漂ってくる。
みのりはノートPCに身を屈め、イヤホン越しに二つの楽曲を往復させた。紫から青緑へ滑る最初のバージョンは、朝靄のグラデーションのように息が長い。修正版は四小節で黄金色へ跳ね上がり、色彩が紙吹雪のように散って終わる。
「真剣ね」
カップを重ねる音と共に雪子が現れる。ステンレストレーを拭きながら、視線だけで画面を示す。みのりがイヤホンを外すと、香り立つ湯気が耳をくすぐった。
「テンポはいいと思う。でも、色が薄い」
音ではなく“色”で語るみのりを、雪子は驚きもせず頷く。布巾をたたみ、エプロンの紐をほどく手つきが静かだ。
「昔ね、この店で流していたジャズを“難しい”って言って出て行ったお客さんがいたの。でも別の人は泣いたのよ。同じ曲で」
雪子は空のマグを指で叩き、澄んだ音を一つ鳴らす。
「届く相手は必ずいる。問題は、誰に向けて注ぐかだけ」
みのりは画面を見下ろす。修正版を再生すると、黄金色の閃きの裏に、薄いが確かに紫の残光が揺れているのに気づいた。完全に失われたわけじゃない。
(伸ばせるかもしれない)
鼻腔に残るグアテマラの甘苦さが、胸の奥へ温度を落とす。
「やっぱり聴きたい。私の色が残るかどうか、確かめたい」
口にした瞬間、ノイズのように揺れていた青緑が、芯のある翠へ定着した気がした。
夜。ライブハウスは昨日よりも遥かに混雑していた。入口には「本日満席」の札が掛けられ、ステージ前のスペースは立ち見客で埋め尽くされている。みのりは人混みに圧倒され、壁際に身を寄せていた。暗闇の中、彼女の耳には様々な会話の断片が飛び込んでくる。
「橘陽太の新曲が聴けるらしいよ」
「プロデューサーの真理さんが大物アーティストを連れてくるって噂だ」
「今日の演奏は配信もされるんだって」
それらの言葉が、みのりの不安を増幅させる。これは彼女が想像していたよりも大きなイベントだった。陽太の音楽キャリアにとって重要な夜。会場には業界関係者や熱心なリスナーが集まり、みのりはその一角にいるにすぎない。照明が落ち、場内が静まり返る。そして、スポットライトが一つだけステージを照らし出した。陽太が現れ、観客から大きな拍手が起こる。
「今宵はお越しいただき、ありがとうございます」
陽太の声が会場に響く。
「今日は特別な夜です。新しい音楽の旅へ、皆さんをお連れしたいと思います」
演奏が始まった。最初の曲は、みのりがスタジオで聴いた曲だ。紫から始まり、青へ。しかし、青緑から黄金への移行部分が、明らかに変わっていた。これはカフェで聞いた修正版の方だった。楽曲はくっきりと輪郭を削られ、配信会社の赤線どおりに整形されている。みのりの胸の奥で何かが鋭く裂ける。その瞬間に“裏切られた”と感じてしまった自分の思考が、みのりを凍らせた。誰より悔しいはずの本人を想えばこそ、その感情は刃を返して彼女自身を深く傷つけた。
曲が終わり、大きな拍手が起こる。確かに、聴きやすく、親しみやすい曲になっていた。多くの人が笑顔で拍手している。陽太も満足そうに見える。しかし、彼の目が客席を探し、みのりを見つけた瞬間、その表情が微妙に変わった。何かを伝えようとするような、切実な眼差し。次の曲が始まる。そして次、その次と演奏が続く。どの曲も洗練され、聴きやすく、しかし、みのりの心に深く響くものはなかった。
ライブも終盤に差し掛かったとき、陽太がマイクに向かって話し始めた。
「次の曲は、特別なものです」
彼の声が会場に響くその瞬間、舞台の照明が不安定になった。メインスポットが点滅し、一瞬会場が暗闇に包まれる。観客からざわめきが起こる。みのりは息を呑んだ。照明の乱れが作り出す色彩の変化が、彼女の目に不吉な予感を見せた。暗闇から赤みがかった光が漏れ、それが徐々に強まっている。何かがおかしい。直感に従い、みのりはスタッフエリアへと急いだ。そこで彼女が目にしたのは、照明機材から立ち上る薄い煙だった。オーバーヒートしている。このままでは火災の危険がある。
「すみません!」
みのりは近くのスタッフに声をかけた。
「あの照明、危険だと思います!」
スタッフは最初、彼女の言葉に戸惑ったが、機材を確認すると顔色を変えた。すぐに対応が始まり、危機は回避された。その混乱の最中、陽太はステージで即興演奏を始め、観客の注意を引きつけていた。彼の機転が、パニックを防いだのだ。
照明トラブルが収まり、陽太は改めて最後の曲を告げた。
「今夜最後の曲は、まだ誰にも聴いてもらっていない新曲です」
彼はマイクに向かって言った。
「この曲は、特別な人からインスピレーションをもらいました。その人は、私の音楽に色を見る人」
みのりの心臓が激しく鼓動する。陽太の指がピアノの鍵盤に触れた瞬間、みのりの中で色彩の世界が広がり始めた。これは修正版とは全く違う曲。深い紫から始まり、青、そして鮮やかな青緑へ。そして最後は、まばゆい黄金色ではなく、あらゆる色彩が混ざり合った光の洪水へと変化していく。みのりは息を呑んだ。これは彼女がコーヒーを通して感じていた色彩そのもの。陽太は配信会社の要望を受け入れながらも、本当に表現したかったものを、この最後の一曲に込めたのだ。
曲が終わると、一瞬の沈黙の後、会場が割れんばかりの拍手に包まれた。多くの観客が立ち上がり、感動を表現している。陽太の音楽は、確かに人々の心に届いたのだ。ステージ袖では、真理が複雑な表情で立っていた。彼女の目には驚きと、そして微かな誇りのようなものが浮かんでいる。
ライブ終了後、みのりは出口へ向かおうとしていた。人混みを避け、静かに帰りたかった。しかし、背後から声がかかる。
「みのりさん」
振り返ると、真理が立っていた。彼女の表情は、いつもの冷静さとは違っていた。
「少し、話せますか?」
みのりは黙って頷き、真理の後についていった。二人は人気のない階段の踊り場で立ち止まった。
「あなたが照明トラブルに気づいてくれたおかげで、大事に至らなかったわ」
真理は静かに言った。
「スタッフから聞いたわ。あなたの感覚が、危険を察知したのね」
みのりは小さく頷いた。
「色が、変だったんです」
「あなたの感覚は、確かに特別なものね」
真理は続けた。
「でも、それが陽太の音楽にとって良いことなのか、私にはまだわからない」
みのりは目を伏せた。
「私もわかりません」
「陽太は、あなたのおかげで変わった」
真理は窓の外を見つめながら言う。
「彼の音楽はより深く、より複雑になった。でも同時に、多くの人には理解しにくいものになってしまった」
彼女は小さなため息をついた。
「最後の曲は、素晴らしかった。でも、あれが商業的に成功するかどうかは、わからない」
みのりの胸に痛みが走る。彼女の感覚が、陽太の成功の妨げになるのではないか。その恐れが、再び彼女を襲う。
「私は...もう関わらないほうが、いいのでしょうか」
みのりは震える声で尋ねた。真理は長い間黙っていた。そして、意外な言葉を口にした。
「それは、あなた自身が決めることよ」
彼女はみのりを真っ直ぐに見つめた。
「私はプロデューサーとして、陽太の音楽がより多くの人に届くことを願っている。でも、彼自身の表現も大切にしたい」
彼女は初めて柔らかく微笑んだ。
「あなたの感覚は、確かに陽太の音楽に新しい次元をもたらした。それを否定はしないわ」
みのりは真理の言葉に戸惑った。彼女は敵ではなく、ただ陽太の音楽を守ろうとしているだけなのだ。
「みのりさん!」
二人の会話を遮るように、陽太の声が響いた。彼は階段を駆け上がってくる。
「探したんですよ。どこに行ったのかと」
陽太は息を切らせながら言った。
「最後の曲、どうでしたか?」
みのりは言葉に詰まる。あまりにも鮮やかな色彩体験に、まだ頭が追いついていない。
「あれは」
声と一緒に、黄金色の余韻が胸から立ち上がる。
「あなたの本当の音楽だと思います」
陽太の瞳が一段と明るく輝いた。汗に濡れた前髪の下で、安堵と高揚が交差する。
「そう言ってもらえて嬉しい。あの曲は、みのりさんの感覚から生まれたものなんです」
彼は譜面ファイルを抱え直し、半歩前に出る。紙とインクの匂いが、むせ返るスモークの残り香と混ざった。
「実は今夜、大手レーベルのプロデューサーが来ていて、私の音楽に興味を持ってくれたんです。特に最後の曲が気に入ったと」
みのりは驚いて真理を見た。彼女は腕を組んだまま小さく頷き、「私も驚いたわ」と短く付け足した。
「でも、それは配信会社の要望とは違うものですよね?」
みのりの喉が少し乾く。
「そうなんです」
陽太は少し声を落とした。
「真理は反対しました。でも、私は譲れなかった。みのりさんとの出会いで見つけた音楽の本質を、捨てたくなかったから」
真理はため息を吐き、肩越しに客席の出口灯をチラリと眺めた。
「私はまだ不安よ。でも、陽太の情熱を止めることはできなかった」
みのりの胸に複雑な感情が広がる。彼女の感覚は、陽太の音楽を変えた。それは良いことなのか、悪いことなのか。まだ答えは出ていない。陽太が改めて前を向き、真剣な色を宿す。
「みのりさん」
一呼吸の間。蛍光灯の明かりが静かに点滅し、三人の影が壁に重なって伸びた。
「これからも、あなたの感覚を音楽に取り入れたい。一緒に新しい音楽を作りませんか?」
その言葉に、みのりは戸惑いを感じた。カフェの安全な世界から、さらに外へ踏み出すこと。それは彼女にとって、大きな挑戦だった。
「...。考えさせてください」
彼女は真理の様子を伺い、正直に答える。陽太は優しく微笑み、無理強いはしなかった。
「わかりました。ゆっくり考えてください。でも、あなたの感覚は特別なものだということを、忘れないでください」
Closeと札がかけられたカフェの扉が静かに開いた。
雪子はテーブルの上の食器を片づける手を止め、振り返る。みのりはどこか放心したように立ち尽くし、小さな声で「ただいま」と呟いた。
「おかえり、みのり」
雪子はあえて何も尋ねず、穏やかな微笑みだけを返して片付けを再開した。陶器のカップ同士がふれ合い、柔らかな音が店内を満たす。その音に、みのりは何か言おうとして口を開いたが、そのまま静かにカウンターの椅子に座りこんだ。やがて静かにグラインダーが回り始める。豆が挽かれる低く心地よい音が店に広がり、それがやがてシャワーのような柔らかい湯音へと変わる。その音を聞きながら、みのりは目を閉じた。記憶の中で音楽が鮮やかな色となり、ふたたび彼女の網膜を満たす。陽太の奏でた最後の曲の色彩が、まだ鮮明に焼きついていた。紫がゆっくりと滲みだし、青が波のように押し寄せ、最後に黄金色の閃光が広がる。その光景は確かに美しかったが、同時に痛みを伴って胸を締め付けた。
「はい、コーヒー」
いつの間にか目の前には、湯気を立てるカップが置かれていた。
雪子は隣に腰かけ、静かにカップを持ち上げる。その指先から伝わる安心感が、みのりの緊張を少しずつほどいていった。
「私、陽太さんの音楽を変えてしまった」
みのりの声は小さく震えていた。雪子はゆっくりとうなずき、コーヒーを一口飲んだ。
「それは後悔してる?」
みのりは一瞬考え込む。その問いにすぐには答えられず、カップを両手で包み込み、熱が指先を通じてじわりと身体に染み込んでいくのを感じていた。
「後悔はしていない。でも、本当にこれでよかったのかなって...。陽太さんの音楽は、もっと多くの人に届くべきものだと思う。それを私の感覚が邪魔しているのかもしれない」
雪子は静かに彼女の言葉を聞き、じっとみのりを見つめたまま微笑んだ。
「みのり、自分の感じ方を否定する必要はないのよ。それはあなただけの大切なものなんだから」
優しい声だったが、雪子の瞳には強い意志が込められている。
「でもその感覚をどう活かすか、どのように向き合うかを決められるのはあなただけ。他の誰でもないわ」
みのりは雪子の言葉をじっと噛みしめるように、小さくうなずいた。カフェの照明が柔らかく揺れ、コーヒーの苦い香りがゆっくりと彼女を包み込んだ。
「怖いの。選んだ道が間違いだったらって思うと」
「間違いかどうかは、歩いてみないとわからない。それでも自分が信じられる道を進むしかないの」
雪子は優しくみのりの肩に触れた。温かく力強いその手の感触に、みのりは少しだけ救われたように感じる。
その夜、みのりはベッドに横になったものの、なかなか眠りに落ちることができなかった。カーテン越しに差し込む街灯の淡い光を見つめながら、繰り返し雪子の言葉を思い返した。
(自分が信じられる道、か)
それは、音楽と色彩が美しく溶け合い、彼女の感覚が輝く世界なのか。
それとも、静かで穏やかなカフェの中に、今まで通りひっそりと留まる世界なのか。静かな時間だけが、答えのない問いを浮かべては消えていく。みのりは深く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
翌朝、まだ薄暗い中でみのりはカフェの開店準備を始めた。
窓を拭き、豆を並べ、カップをきれいに揃えていく。規則的な作業の中で心が静まっていき、徐々に昨夜の迷いが整理されていくようだった。彼女はふと手を止め、窓の外の街並みを眺めた。夜明けの淡い青が街を包み、少しずつ色彩が満ちてくる。
その光景に、自然と胸が静かに高鳴るのを感じていた。みのりは小さくうなずいた。
(まだどの道を進むのかは決めていない)
ただ、自分の感覚を信じ、どんな選択をするにしても、迷いなく前に進もう。みのりはそう決めていた。
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